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夢幻泡影

「ゆめの世にかつもどろみて夢をまたかたるも夢よそれがまにまに」

総合的な診療能力を持つかかりつけ医

2007年04月22日 13時33分31秒 |  姥捨て山は大騒ぎ
ヨーロッパなどではホームドクターをシステムとして取り入れている国が多い。
患者はいったんホームドクターに見てもらい、より高度な医療機器や他の医師との連携が必要な場合などに紹介状をもって大病院を訪れることができる。
これらのホームドクターは専門科目を持たない総合医として機能している。
日本でも、僻地でがんばっているお医者さんなどは、自分の専門科目以外は診ないなんていえないから、ホームドクターと同じ機能を果たしている一種の総合医の状態だと思う。

母の病院通いを見ていても、今日は内科、明日は眼科、あさっては歯科というふうにいろんな病院を渡り歩いている。これが一つの病院、一人の診療医だけで済めば、母も大いに助かると思う。

毎日新聞はこの記事の解説で、「かものおっちゃん」が厚生省の幹部の理想の姿だと書いてあったけど、何も作り物のテレビドラマではなくとも、僻地に目をやればこの手のお医者さんがたくさんがんばっていることがわかるはずなんだけど。

むしろ、患者の大病院志向は現在の医療制度や医者に対する不信感が底にあるのではないだろうか。医者が書いた本にも、私は必ず3人以上の医者に診てもらうなんて書いてあったけど、医者ですらそんな状態。まして、何を言われても、それを受け入れるしかない患者にとっては、少しでも信頼の置ける医者、場所で診てもらいたい。それがホームドクターでは役不足だという認識が一般的だからの現象だと思う。

でも本当は医療の全体的なシステムの中でもホームドクターはもっと重視されなければいけないのだろうと思う。




患者を総合的に診る医師必要 厚労省、75歳以上の医療で(共同通信) - goo ニュース

知覚の衰え

2007年04月12日 15時33分11秒 |  姥捨て山は大騒ぎ
母と一緒の生活をしてみて、改めて感じたことがある。

それは母の耳が聞こえなくなっているということ。
全体が聞こえないのではなく、高い音が聞こえないようだ。

家の中にはさまざまな電化製品がある、電話機やファックスなどもそうだけど、台所にも炊飯器やレンジ、ポット、そのほか洗濯機、掃除機そのたもろもろ、それにガスや煙の検知器などもある。
これらの多くが高い警告音とか確認の音をいろんなステップで出す。ご飯が炊けたとか、レンジの加熱が終わったとか、、、例のピッ、ピッですよね。

隣の部屋にいて仕事をしていて、その音が聞こえていってみると、その部屋にいる母には聞こえていないのに気がつく。

母がテレビを見ているときには普通の音量で聞いているし、話をするときにも特に声を上げる必要はない。だからこちらは母には耳の衰えがないのかと思っているから、それにちょっと吃驚したり、いらいらしたりする。

それより怖いのは、母が自分の聴覚の衰えに気がついていない。
普通に聞こえているから、一部の音が聞こえなくなっているのには気がつきにくいのはわかる。

以前、どこかのテレビで、自転車のベルの音が老人には聞き取りにくいということで老人が聞こえるような音を再現していたけど、ベルの音は本当に聞こえなかった。
だから頭では理解していたはずなのに、自分の目の前の母がそうだとはわからなかった。普通に話をしているのだし。
一部の家電メーカーではこのことに対応した製品を作っているようだけど、母の様子を見ていると家にある製品でこれに対処したものはないようだ。

車を運転していて、案内標識や、信号の(特に)矢印が見えにくい。これはすぐに自覚できるけど、視野角が狭まっている、見ているものが意味のある信号として脳に伝えられていない(赤信号や道の端を走る自転車を目には入れていても、そのまま走ってしまう)こんなことは実は自覚するのが非常に難しい。

あるいはこんな場面で衰えが顕著ですという話を聞いて頭に入れていても、それが必要な場面ではそんなことは頭の隅から消えている。それが高齢者の衰退。

呆けも全体できて、後戻りしないで進行するのであれば、対処はまだやりやすいかもしれないけど、全体的には問題ないように見えて、あるとき、ある部分が欠落したり、知覚が衰えたり、その分野も進行状況もまだらになって、あるときには正常になっていたりする。

京都の認知症の母親を殺したケースでも、母親が生きていけないのだから殺して頂戴って言ったというのを、認知症の人がそんなことを言えるわけがないという反論があった。でも認知症でもその部分は正常かもしれないし、あるいはそのときには正常に判断できたかもしれない。そこが問題なのですね。

高齢者の割合がどんどん増えていく、そうした社会でこれらの自覚されにくい知覚の衰え、運動機能の衰えに、社会がどう対応していくべきかもっと考えられてもいいのじゃないかと、母の後を追いながら考えている。



基礎年金番号5000万件 付与忘れ?????

2007年04月04日 11時06分11秒 |  姥捨て山は大騒ぎ
>公的年金を個人ごとに一元管理するための「基礎年金番号」が付与されていない加入記録が、厚生・国民年金で約5000万件(昨年6月時点)に上るとの調査結果を明らかにした/>

ちょっと待ってよ。
本当に5000万件???
日本の総人口はいくら?
社会保険の加入者数はいくらよ。
この数字本当に正しいの?

もしそうなら、大多数の人が基礎年金番号をもっていないということになるのかな?
ちょっと信じられないことだけど、でもこのニュースが間違いないとすれば、社会保険庁のとんでもない大失態ということになるけど。

保険料を支払っているにもかかわらず記録がないということで年金を減額されたりしている人が多数いて、自分たちの記録が不完全なために起こったことなのに、加入者が領収書を持っていないから証拠がないとそっぽを向いていた役所。
この役所は収入もない高齢者の命を握っているって自覚を持ったことがあるのだろうか?

このシステムつくりにかかわった上層部や、技術者たち、そして全部とは言わないけど、役人風をふかして威張っていた現場の一線。この役所はいったいどうなっているのだろう。

民間へ移行といいながらここでも、一般徴収はここでやることになる。私は税金に含ませるようにしたほうが言いと主張しているけど、結局人員が余ってしまうためにそれができないのだろう。
でもここまでくると、ここの職員へそれだけの温情を掛ける必要があるのかどうかちょっと私には疑問に思えてくる。





年金加入記録、5000万件が該当者不明(読売新聞) - goo ニュース

人生の縮図かな?

2007年03月24日 23時52分21秒 |  姥捨て山は大騒ぎ
一昨日に川原に赤ん坊用の布団を敷いてもらい、掛け布団をかけてすやすや寝ている犬のことを書いていました。昨日もその犬がいました。同じように布団を掛けて貰って寝ていました。
一昨日はよく判らなかったのでえらい過保護に育てられた犬だと思っていましたが、実情は上の写真のようなこと。
もう20歳だそうです。

家にも親の自慢の子が同じくらいまで生きていました。最後は目も見えなくなり、歩くことすらままならない生活でした。

「この子はこの川原が大好きだったので、天気のいい日には連れてきて寝かせてやっている」という老夫婦の話を聞きながら、その犬のことを思い出していました。

生あるものには必ず訪れる老い、そして死。
でもこの子は最後まで看取ってくれる人がいるだけ幸せなのでしょうね。
さて、私はどうなるのか、、、、


この犬の傍では、若い犬が元気一杯に走り回っていました。

デンマークの福祉と税率

2007年01月28日 22時02分09秒 |  姥捨て山は大騒ぎ
デンマークの産業廃棄物の処理や、病院や大学も無料といった高度福祉の現状などを書かれている人がいた。最後のほうで、それを可能にする税率や社会的な背景がなんだろうかとの疑問を投げかけられていたので、デンマークの所得税は50%で、それに消費税が25%かかるとレスを付けておいた。
また、北欧三国は厳しい自然環境があり、放置すればたくさんの人が亡くなる可能性もある。だから資本主義の形式を踏んだ一種の社会(共産)主義的な制度が受け入れられたのだと思う。

税金で75%といっても、あそこは生活費も結構高い国。生活は決して容易ではないと思う。

福祉などの専門家にとっては北欧のケースは現実問題としてそこまでの水準のサービスを展開するに必要な負担を日本では国民が同意しないだろうという諦めが強く見られる。

そしてその次のレベル、ヨーロッパの中部域などのケースがちょっと先を行っているモデルケースとして勉強されたりしている。

そこで一つ疑問は、オランダを例に取ると、確かにオランダ人は税金が高いという。でも所得税や、それに合算されている社会保障費、そして市民税などを含めても日本とはそれほどの差はないように感じる。
でも例えば高齢者へのサービスの展開や、医療、年金といったものは日本と比べるとはるかにレベルが高い。
試しに年金を試算してもらったけど、日本の年金の2倍以上になった。

日本の場合非能率性というのも福祉や、社会保障の裏に隠れているような気がしてならない。

でもこの行政の非能率さというのは、福祉だけではなく、廃棄物処理などにもあるのじゃないだろうか? だいぶ前に行政がリサイクルに手を出すなというような本が出て、結構面白かった。
行政が、例えば古紙の収集に乗り出すと、今までの紙のリサイクルの輪がくずれてしまう。今まで、業としてやってきた人たちの生活が崩され、また古紙を購入していた製紙会社も困ってしまう。ところが行政が集めた古紙は、今まで以上の高い収集費用を税金で負担しながら、充分にリサイクルできなくなっているケースなども紹介されていた。

立派なゴミ処理場がある。高いお金を掛けた大型の施設。でもそこではゴミを燃やすだけ。せいぜい近くの温水プールとか、老人ホームにお湯を供給するくらい。
以前ドイツで大雪が降ったときには、ドイツはオランダなどの近隣諸国からゴミを買っていた。地域暖房につかう可燃ごみが足りなくなったから。

岬では庭に穴を掘っている。帰りしなには、台所ゴミをそこへ入れて土を掛けて帰る。庭に肥料を買ったことがない。そんな小さなことも考えてもいいのじゃないかな。

高齢者の交通事故

2007年01月25日 13時24分46秒 |  姥捨て山は大騒ぎ
警察庁から
高齢者(65歳以上)の事故死者が2809人で全体(6352人)の44.2%

という数字が発表になったとの報道があった。

普通に歩行していても、あるいは人と話をしながら歩行していても、目の前の道路を見ながらも、前後左右の車の音や気配を察知できるのに、高齢になるとそれができなくなる。

身体に感じ、危険信号を出すはずの感覚器官の衰えというのは如実に現れてくる。
目も悪くなるし、視野角も狭くなるということも言われている。
高い音が聞こえなくなったり(自転車のベルが聞こえない;チャイムやサイレンが聞こえない)、それ以外の音もよく聞き取れなくなることはよく知られていること。

足元も危なくなり、歩道のない道などでは傍をすり抜ける車に危ない思いをすることもある。

運動神経や、感覚が衰えていないときでも、注意力が散漫になり、回りのことがらがちゃんとした意味をもって感じることが難しくなっていることにふと気がつくこともある。

またとっさの判断が遅れていくのも自分でもわかる気がする。

認知症を予防、軽減するためにも高齢者を引きこもりにしないことの必要性が言われている。

高齢者はこれからも増えていくわけど、これからは今までとは違った観点(高齢者からはどう見え、どう聞こえるのかなども含めて)からの事故防止策、インフラの整備も必要になっていくのかもしれませんね。

人材不足? 

2007年01月20日 10時36分42秒 |  姥捨て山は大騒ぎ
知人が医療現場での待遇改善を求める日記を書かれている。

この方は、今は介護師をなさっているけど、それまでは公立病院の看護師だったかた。ご自身が膠原病なのに結核病棟に移され問診などをさせられていたりして自分の健康が守れないと介護師へ転向された。
病院の人材配置の問題もあるけど、結局、個々の現場の問題よりも、医療全般での人員不足もその原因の一つにあるのだろう。
一頃は無医村問題などで、人材の偏在の問題があった。
でも今では大都市の公立病院などでも医師不足で入院を断ったり、科目の閉鎖などがたくさん報告されているし、先日も区立の病院で緊急手術を必要とする患者さんをスタッフの不足で手術できなくて都内、近県を当たったけどどこも受け入れられなく、静岡まで搬送したというニュースがあったばかり。

少子化が問題になって、政府も対応にやっきになっているけど、産院の閉鎖が相次いでいるのをご存知だろうか。

一般でも、病気になって病院に行っても診察を受けるのに何時間もまち、あちこちたらいまわしにされながら終了するのに一日がかりになっている。
その場で見てもらえるからと、何かあるとすぐに救急を呼ぶという人もいる。
あおりを食らって、救急車の出動が増え、緊急でない救急依頼は断れるようになってきている。

医療だけではない。昨日テレビで放映されていた都内のある特別医療老人ホームでは2-30人の入居者に介護師が2人で対応しているシフトもあったようで、痴呆や、身体に異常のある入居者が介護師の処置を待つために椅子に縛り付けられて半日以上廊下に並んでいることもあったようだ。
問題の発端は、介護師の入居者への心ない言葉を誰かが録音してテレビに訴えたことだけど、介護師は悪かったかもしれないけど、そこまで言わせるような勤務シフトを押し付けているホームや、それが日常化することを防げないシステムの問題なのだろうと思う。

でも、知ってます?
これを訴えようとしても、地方では弁護士も不足していることを。

在宅介護か予防介護か?

2007年01月18日 10時30分56秒 |  姥捨て山は大騒ぎ
2年前に古巣にいたころ、ある新聞社とタイアップして海外からの講師を招いて高齢化社会のシンポジウムを開いた。
私が古巣から離れた去年はその新聞社の主催で、ターミナルケアのシンポジウムが引き続きということで行われた。
今年は、その担当に昨日会ってきたけど、あまり乗り気でないみたい。
言いだしっぺとしては、何か適切なテーマと、それに賛同してくれるようなスポンサーを見つけて、何とかこれを恒例の行事としてレールに乗せて行きたいのだけど、テーマを在宅介護にするのか、予防介護にするのかどちらがより今の日本に適切なのか、また実現可能性があるのか悩んでいる。
どなたか殺し文句になるようなヒントをいただけないかな?

母という存在

2007年01月15日 23時21分02秒 |  姥捨て山は大騒ぎ
TBの練習のお題が母の日に何を贈ったかだった。
この記事は今年の1月15日にアップしたものだけど、手を入れてこのお題の練習に使います。


母の日に母に何も贈った記憶がない。
ほんとに駄目な息子。
母と電話で話をした。
母は長崎で子供たちと遠く離れて独居している。
私はずっと一緒に住もうと言っているのだけど、母は「この歳で知らない町で住みたくはない」って言い続けてきた。
気丈な母だが、最近は体のあちこちが不調だと電話で訴えている。
そしてやっと「長崎で死ぬと貴方たちが困るだろうから」と、上京を決意したようだ。
一挙に引っ越すと環境が変わって「死ぬのよ」っていうので何度か上京しながら身体を慣らしていくということになっている。
でも、昨年の春に来て、秋にも来る事になっていたのが、台風で屋根が壊れたとか、医者の予約だとか、さまざまな理由をつけて延び延びにしている。

住み慣れたところを離れるのも嫌なのだろうけど、それ以上に「貴方に迷惑をかけるから」っていうのが本当の気持なのだろう。
「自分の子供じゃない」っていうと、「それが親というものなの」って切り返えされる。

今日も、
「親子とはいえ、何十年も別れて生活してきたのだし、私がいると貴方は私のことを気にしすぎる。それが判るから、余計に私も気になるの。一緒に生活したら二人とも神経が参ってしまうわよ」って言っていた。
私としてはそんな悠長なことを言ってられるときじゃないのだと思うのだけど。
母に無理強いはできないし。
でも、母が寂しさや心細さを無理やり心の底に押し込んでいるのが見えるだけに何とかしてあげたい。
どうすればいいのだろうね~


何を遣り残す?

2006年12月19日 10時13分01秒 |  姥捨て山は大騒ぎ
TBの練習に今年中にやることってお題がでている。
私は、今年も遣り残すことをきちんとしなきゃって思っている。

他のブログで交通問題を扱っている。
車は殆ど私の足、それが走り難い。さまざまな障害物があり、またその管理、運営にもいろいろな問題がある。これは責任論のところで、ちょっと行き詰っている。
ある教授の日本では責任論が先行してしまい、実質的な事故の原因調査とそれからする対策がおろそかになるというのを紹介した。
でもこれが私がこの問題のブログを作り出した原因でもあるし、日本人の体質的なことであれば、何を書いてもこの先改善される余地はないのかなって思っている。
でもブログは削除はしない、これからも不平、不満を書いていくだろう。
今までのぶつぶつが誰かの目に留まることを期待している。


また、別なブログでは日本人の意識的な国際化を扱っている。
これは元の原稿があり、それを半年に渡って新聞のコラムで発表してきたもの。元の原稿はPCのクラッシュでなくしたけど、新聞の切抜きはあるので、いつでも完成できるのだけど、これも何ヶ月に一つ記事を新しくしているだけ。
ピリオドを打って、数少ない人生の課題の一つに「完」マークを打つのがいやなのだろうかね。

そして、来日する外国のアーティストのためのレジデンスの紹介のブログ。
これは掲載しているブログのスパム対策が不十分で、本来質問を受け、回答をしていくのをデータベース化しようと思っていたのが、質問やトラックバックを受け付けない設定にしなければならなくなっている。スパム対策が何とかならない限り、これは先に進まない。友人たちからは早く何とかせいと言われているのだけど。


このブログでも、私の小さな恋人たちでは猫や犬の話を書いているけど、これも続けたい。少なくとも私の気持の中にこのような暖かい気持を残しておくためにも本当に希少な題材だから。

河童や狸、狐の話も続けなきゃ。でも不老長寿なんて今の自分の身につまされるようなテーマを選んじゃったので、安易に終止符を打てなくなっちゃった。


ブログばっかり? 他にやることはないの?
趣味や遣りたいことはそれほどない。
たしかに時期的な、年末の整理とか、それぞれの季節のやるべきことはある。でもこの歳になると外のものには余り食欲がわかない。
そんなことは一つの行事として、(だんだん熱意はなくなってくるけど)なんとなくクリアしていく悪知恵だけは発達するから、大丈夫。
目先のやるべきことがぼろを出さない程度にでもできるようになれば、もっと正確には、遣れなくても目をつぶることを覚えてしまえば、後は将来に向けて遣り残すことを考えなければ。
全部をやってしまったら、来年何をしていいか迷うだけ。
来年何かを遣り続けていたいので、たとえ鬼が笑っても、遣り残すことを考えよう。


でも、この歳になると、いつ「お迎え」が来るのか判らない。それは一大問題なんです。
計画が立たないもの。