教育カウンセラーの独り言

今起こっている日本の教育の諸問題と受験競争の低年齢化している実態を見据えます。

ネバネバ菌が鉄道網…日本人にイグ・ノーベル賞

2010年10月01日 14時33分09秒 | 学問
 【ワシントン=山田哲朗】愉快な科学研究に贈られる「イグ・ノーベル賞」の授賞式が30日、米マサチューセッツ州のハーバード大で行われ、単細胞生物の粘菌が最適な鉄道網を設計できることを見つけた公立はこだて未来大学 (〒041-8655 北海道函館市亀田中野町116番地2 www.fun.ac)中垣俊之教授のチームが「交通計画賞」を受賞した。 中垣教授は、粘菌に迷路を解かせる研究で2008年にも「認知科学賞」を受賞している。 ネバネバの粘菌の集合体はエサを求めて細長く伸びる。迷路のゴールにエサを置けば、粘菌は入り口から出口まで最短距離でつなぐほか、都市に当たる場所にエサを配置すると、粘菌はエサの間に鉄道網とそっくりの効率的なネットワークを形成する。 このほか、「靴の外側に靴下をはけば凍結路での転倒頻度が低下する」研究が「物理学賞」、「従業員をランダムに昇進させると組織の効率が上がる数学的証明」が「経営賞」を受賞。メキシコ湾で原油流出事故を起こした英石油大手BPには「油と水は混じらないという古い定説を否定した」として「化学賞」が与えられた。最終更新:10月1日(金)13時58分読売新聞 10月1日(金)11時12分配信
この記事中垣俊之らのチームと掲載されていましたが、中垣俊之教授のチームと尊称を付ける ことが正しい日本語表現になると思いまして訂正致しました。
固定的観念や従来の定説が、覆されて新しい発見や研究が生まれるのだと思います。慣例や習慣に囚われないことが後らしい研究に繋がるのかも分かりません。水と油の関係と良く世間では言われていましたがメキシコ湾で原油流出事故を起こした英石油大手BPには「油と水は混じらないという古い定説は否定され、科学的実証により常識と言われることが常識で無くなる日も来るのでしょうね。単細胞生物の粘菌が最適な鉄道網を設計出来ることを見つけたはこだて未来大中垣俊之教授のチームが「交通計画賞」を受賞したのも新しい発見です。日本の粘菌の研究者と言えば、南方 熊楠日本博物学者生物学者、特に菌類学を皆さんすぐに思い出されると思います。愉快な科学研究に贈られる「イグ・ノーベル賞」から、日常生活や社会企業活動、環境保護対策に役立つ新しい研究が生まれるのではないでしょうか。発想の転換から新しい研究開発が生まれるのではないでしょうか。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
南方 熊楠
1891年 アメリカにて
人物情報
誕生1867年5月18日
紀伊国和歌山
死没1941年12月29日(満74歳没)
和歌山県田辺町
居住アメリカ合衆国 イギリス
国籍大日本帝国
学問
研究分野博物学生物学(特に菌類学)、民俗学
研究機関大英博物館
主な業績粘菌の研究

南方 熊楠(みなかた くまぐす、慶応3年4月15日1867年5月18日) - 昭和16年(1941年12月29日)は、日本博物学者生物学者(特に菌類学)、民俗学者である。

菌類学者としては粘菌の研究で知られている。主著『十二支考』『南方随筆』など。投稿論文や書簡が主な執筆対象であったため、平凡社編集による全集が刊行された。「歩く百科事典」と呼ばれ、彼の言動や性格が奇抜で人並み外れたものであるため、後世に数々の逸話を残している。

南方熊楠は和歌山県に生まれ、東京での学生生活の後に渡米、後にイギリスに渡って大英博物館にはいる。後に日本に戻って、和歌山県田辺市に居を定めた。多くの論文を著し、大学者として名を知られたが、その生涯を在野で過ごした。

彼の学問は博物学、特に植物学を基礎とするが、熊楠の学風は、ひとつの分野に関連性のある全ての学問を知ろうとする膨大なものであり、土蔵や那智山中にこもっていそしんだ研究からは、曼荼羅のような知識の網が産まれた。

明治25年(1892年)にはイギリスにわたって、ロンドンの天文学会の懸賞論文に1位で入選した。大英博物館東洋調査部に入り、資料整理に尽くし、人類学考古学宗教学などを独学するとともに、世界各地で発見、採集した地衣・菌類に関する記事を、科学雑誌『ネイチャー』などに次々と寄稿した。

帰国後は、和歌山県田辺町(現、田辺市)に居住し、柳田國男らと交流しながら、卓抜な知識と独創的な思考によって、日本の民俗、伝説、宗教を、広範な世界の事例と比較して論じ、当時としては早い段階での比較人類文化学を展開した。菌類の研究では新しい70種を発見し、また、自宅のの木では新しくとなった粘菌を発見した。民俗学の研究では、『人類雑誌』『郷土研究』『太陽』『日本及日本人』などの雑誌に数多くの論文を発表した。

年譜

※日付は明治5年まで旧暦

  • 慶応3年(1867年4月15日 - 和歌山城下橋丁(現、和歌山市)に金物商・雑賀屋を営む弥兵衛(後に弥右衛門と改名)、すみの次男として生まれる。熊楠の「熊」は熊野本宮大社、「楠」はその神木クスノキにちなんでの命名という。生家には商品の鍋や釜を包むための反古紙が山と積まれており、熊楠は、反古に書かれた絵や文字をむさぼり読んで成長した。
  • 明治6年(1873年) - 雄(おの)小学校(現、和歌山市立雄湊小学校)に入学。 
  • 明治9年(1876年) - 雄小学校卒業、鐘秀学校[1]に入学。岩井屋・津村多賀三郎から『和漢三才図会』105巻を借覧、記憶して筆写を始める。この他12歳迄に『本草綱目』、『諸国名所図会』、『大和本草』等をも筆写。
  • 明治12年(1879年) - 和歌山中学校(現、和歌山県立桐蔭高校)に入学。教師鳥山啓から博物学をすすめられ、薫陶を受ける(鳥山啓は,のち華族女学校教師となる。行進曲『軍艦』の作詞者として知られる)。
  • 明治13年(1880年) - 英語の本を参考にし、和漢の書籍と見比べて自作の教科書『動物学』を書き上げる。
  • 明治14年(1881年) - 『和漢三才図会』をうつし終える。
  • 明治16年(1883年) - 和歌山中学校を卒業し上京。神田の共立学校(現、開成高校)入学。当時の共立学校は大学予備門入学を目指して主として英語によって教授する受験予備校の一校で、クラスメートに幸田露伴の弟の成友らもおり、高橋是清からも英語を習った。この頃に世界的な植物学者バ-クレイが菌類6,000点を集めたと知り、それ以上の標品を採集し、図譜を作ろうと思い立った。
  • 明治17年(1884年) - 大学予備門(現・東京大学)に入学。同窓生には塩原金之助(夏目漱石)、正岡常規(正岡子規)、秋山真之寺石正路芳賀矢一山田美妙本多光太郎などがいた。熊楠は、学業そっちのけで遺跡発掘や菌類の標本採集などに明け暮れる。父・弥右衛門が南方酒造(後の世界一統)を創業。
  • 明治18年(1885年) - 日光へ植物採集旅行。
  • 明治19年(1886年) - 中間試験で落第したため予備門を中退、和歌山へ帰郷。
  • 明治20年(1887年
  • 明治21年(1888年) - 寄宿舎での飲酒を禁ずる校則を違反して自主退学。ミシガン州アナーバー市に移り、動植物の観察と読書にいそしむ。この間、シカゴ地衣類学者カルキンスに師事して標本作製を学ぶ。
大英博物館
  • 明治24年(1891年) - フロリダ州ジャクソンヴィル市に移り、生物を調査。中国人、江聖聡の食品店で住み込みで働く。新発見の緑藻を科学雑誌『ネイチャー』に発表、ワシントンD.C.の国立博物館から譲渡してほしい旨の連絡がはいる。
    • 9月 - キューバに渡り採集旅行。石灰岩生地衣を発見(「グァレクタ・クバーナ」と命名)。サーカス団員として中南米旅行。
  • 明治25年(1892年
    • 1月 - フロリダにもどり江聖聡と再び同居。
    • 9月 - イギリスに渡る。
    • 9月28日 - イギリスで、8月8日に死去した父・弥右衛門の訃報を受ける。
  • 明治26年(1893年) - 科学雑誌『ネイチャー』に初めて論文「極東の星座」を寄稿。フランクスと知り合い大英博物館に出入りするようになる。考古学人類学宗教学などの蔵書を読みふける日々が続く。
  • 明治28年(1895年) - ディキンズと知り合う。大英博物館で東洋図書目録編纂係としての職を得る。
  • 明治29年(1896年)2月27日 - 母すみ、亡くなる。
孫文
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