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日蓮正宗異流義教団の源流、根源

2019年03月18日 10時36分26秒 | 邪教創価学会・邪政治団体公明党・邪顕正会・邪正信会、の邪義を構える異流義共
うちに来ているヘルパーさんと、時々宗教の話をする。創価学会や顕正会の話になると、その方は、またもう一度一緒になれないの、と聞かれる。
 一度日蓮正宗から離れ、破門となると、なかなか難しい、と私はいつも答える。その方は、別の宗派の人なので、こんな暢気な会話となるが、江戸時代にも、異流義というものが存在した。
 「三鳥派(さんちょうは)」と「堅樹派(けんじゅは)」と言われる異流義だ。
 三鳥派は、江戸時代初期の寛永年間に、三鳥日秀が始めた。その日秀が没後、一潮日浮(いっちょうにっぷ)は、自己を日蓮大聖人に匹敵、それを超える存在として、自身を無辺行菩薩の再誕と名乗った。本尊まがいのものを書いて授与し、多額の金銭を貪った。
 邪義として、「妙法」の二字を唱え、特殊な呼吸法やら神秘的な利益を売り物にして、江戸後期に一時的に隆盛になったが、江戸幕府に目を付けられ、中心者は死罪などの禁制に遭い、江戸末期に壊滅した。
 堅樹派は、江戸時代後期、堅樹日好が起こした。日好は、「大石寺は大聖人の正統だが、折伏しないから法水が濁っている」として「我こそは大聖人、日興上人の流れをつぐ正統だ」とのたまい、さらに「御本尊は折伏を行ずる者の胸中にある」などと邪義を立て、強引に布教した。
 しかし、これまた幕府に取り締まられ、日好は投獄、三宅島、利島へ流され、在島三十八年後、罪人のまま死去した。
 その後、日報が受け継ぎ大石寺批判を続けたため、時の御法主から数々の書を著されて破折を受けた。しかし反抗し続け、最期は悪相を現じて非業の最期を遂げた。
 この悪相の臨終最期を見た弟子たちが疑問を抱き、正宗に帰依し、その信奉者たちも強力な折伏を受けて、次第に大石寺に帰依し、百数十年後の明治中頃にその流れは止まった。
 創価学会、正信会、顕正会などが昭和平成の現代の異流義だが、それ以前にもその原型の様な反逆者たちが現れては消えて行った。歴史は繰り返す。いずれも邪悪な己義を構え、慢心し、魔に魅入られ打ち負かされた情けない一部の人が内部に現れ、起こしていった。
 江戸時代の異流義、三鳥派の我は大聖人に匹敵、超克した存在だ、と言うのは、現在の創価学会の池田を崇める会員たちにも当てはまる。現創価お得意の「胸中の肉団におわす御本尊」は、堅樹派のそれと似ている。
 創価学会第二代会長戸田城聖先生は、死ぬ最期の言葉は「みんな仲良く」だった。戸田先生らしい。しかし後の三代池田は、それを守らず、その遺言も「追撃の手を緩めるな」と改ざんした。自分のその時の都合で大事な師匠の遺言まで変えてしまう池田。師敵対だ。
 私はニセ本尊をもらった時、座談会の幹部は、千里を走る馬の尻についたハエの譬えを話し、この教団、創価に付いて行けば、教団が大きいから、その恩恵を馬についたハエのように受けられる、と聞かされた。けれども皆で盲目的に集団で間違えて赤信号を渡っているような感じだった。
 魔とは、人の心のスキに付け入り易く、何と怖ろしい事だろう。日蓮系教団ほど分裂分派を重ねた宗派はない。遠くは日蓮大聖人以後の唯授一人の後継者、日興上人に嫉妬した日蓮宗身延派ほかの五老僧の時代にまでさかのぼる。人間の業の深さを感ずる次第だ。

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