Kaettekita 私が思う あのこと このことReturn(Get Back Part2)

進取究明。日々の雑感を気ままに綴る私なりに思い考え行い実践する不定期の記録。写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ。

自称・熱狂的創価信者だった私に突き付けた、母からの挑戦状

2024年04月24日 17時05分40秒 | 邪教創価学会・邪政治団体公明党・邪顕正会・邪正信会、の邪義を構える異流義共
 私と母は、母が非常に今の施設でも今なお元気だが、それ以前も今以上に、私を自分が運転する自家用車に乗せてあちこち出掛けていてより元気であった。
 そうして、その頃、今から十年~それより短い期間くらい前になろうか。その頃は、私と一緒に、車に乗って市内の図書館へと母と良く行き来した。
 その時、郡山市立富久山図書館にて、母と私はいつものように、私はCDを二枚借りて、その後、散歩をして、母が図書館で読書をしていた。
 そうして、私が図書館に散歩から帰って来た所、母から一冊の週刊誌を私に捧げ持って、私にひどく読むように勧めた。
 その週刊誌は、「週刊文春」であり、当時は創価におもねった今とは違って、創価学会だろうと何だろうと、怖いもの知らずで、言論の自由度を競うマスコミの一つであった。
 そこで、頭を殴られる程の衝撃インパクトを、その週刊誌の記事を私は読んで直にショックを受けた。
 そこにあった記事には、創価学会の池田大作氏が、その頃、もう、認知症が進んだ老人であり、週に何回か、看護人が何人も付いて、風呂好きな池田氏の為に、介護付きで風呂に入れられていると。
 そして、池田氏のベッドの脇の窓の下には棚があって、そこには、池田氏が全世界からかき集めて来た、楯やら、勲章、賞状の類が飾られているが、池田氏本人は、もう、それらに対して、それが何かも判別がつかなかったと言う。
 或る日、池田氏は、まだ物につかまって歩けたようだったが、そこに大事に置いてあった、世界の大学機関やら、国々、有名な学識があると思われた人々、とにかく、その楯やら勲章やら、賞状を、凄い剣幕で、その場から払い落として、地面に踏みつけにしたり、ガラスを割り、ぶん投げたり、粉々にして、狂ったように壊して破壊の限りを尽くしたのであった。
 それ以来、池田氏が乱行をしないように、それら勲章やら、楯、賞状はその場、その部屋からは遠ざけられ、皆、撤去されたと言う。
 私は、その話に、その当時ビックリして、母の方を見ると、母も、そういう話なんだわ、と言った風な、別の見方が必ず、世の中にはあるんだと、創価学会が言う言説、文言、言い分と、それと真っ向から反した言説がある事を、この時の母は私に最も言いたかったのだと、この時、私は認識した。
 これらの事実は、私にとっては、一度は、と言うのか、その時すでに、私は創価男子部として、一応は、池田氏が書いたとされた、実際はゴーストライターの書いた書物なども読み、池田氏を頂点とする池田創価学会に属する者としては、その池田氏を尊重して、敬愛はしていた。それだから、彼の書いたと称された書物は、丁寧に当時、読みふけっていた。
 しかし、この時のメガトン級の、当時の池田氏の実態を綴った、その池田氏の御付きだった確か看護師だか介護士のそばで見た人の手記には、私をその後の、「創価学会脱会」、「日蓮正宗帰伏」へと大きく舵(かじ)を取る、一つのキッカケになった出来事だった。

 母は、一方的な見方(味方)をするような、そんな偏った狭い料簡の人では決してなかった。私は、母の当時の、私へのそれら、創価学会と言う、日本の宗教団体で最大と言われた教団のトップの成れの果てを、そんな風にして見せてくれた、その図書館でのいきさつを見聞きするにつれ、この母の行為に何ら作為などなく、公平な見方をしたものである事。流石は我が母は、弁護士の娘、東京都立戸山高校卒業生であったと、尊敬、敬愛の念で、今更ながら、先見の明を持った偉い親、母だと、思い致している。
 創価にいながら、それに反した、公平な見方が出来得るという、俯瞰して見ていた母。
 母に対しては、後年、日蓮正宗への帰依の道を開くもの、決定打だったとの感謝の念を大したものだとの、私なりに大いにいだいている。
 以上。よしなに。wainai


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。