Kaettekita 私が思う あのこと このことReturn(Get Back Part2)

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本日、講頭さんに謝罪、無事、許される!

2024年08月07日 20時04分48秒 | 日蓮正宗無量山寿海寺・菩提寺・末寺・お寺・僧俗一同・僧俗一致

 本日、夕方の勤行会に早めに着いた。その前に、実は、私は、昨日起こった、講頭さんへの一方的な誹謗、名誉を傷つける記事に対して、内心、忸怩たる思いで、ひたすら反省をしていた。
 そこで思いついたのが、いっそ、頭を丸めよう。これは、私が中学校時代には、皆、示し合わせたように丸坊主だった。
 そして、家にある、パナソニックの、アタッチメントが幾種類も付いたバリカンで、頭を丸め始めたのである。
 この酷暑の夏にはちょうど良い。今が盛りの、否、今日はもう立秋という事で、残暑ということか。とにかく、反省の意味と、自身の暑さを防ぐのとで、一石二鳥だった。
 そうして、お寺に、五時半には真っ先に着き、講頭さんを今か今かと待っていた。
 そして本当に来た。私は非常に緊張した。そして、大上段から構えて、非常に丁寧に、謝罪をし、恭順の意を込めて、赦免を願った。
 すると、講頭さんは、そんな記事見てないよ、という。ホントかなあ、とも思うが、ウソではないらしい。
 しかし、やがて、取り巻きの方々が、知らぬが仏の講頭さんに、おそらく、そのおぼろげな事共をいうのだろうとも、今から戦々恐々だ。
 とにかく、その場はそれで納まり、そんなに気にしなくていいよ!と講頭さんは仰られていた。
 私は首の皮一枚、繋がったと思った。これは、奇跡か何かか。
 それから、御住職様が、本堂に入って来られて、本当に自分で頭をやったの?と聞かれて、そうです!と答える場面もあった。
 そうして、滞りなく、夕べの勤行会が終了した。 
 新人の男性の方が、その頭は自分でやったの、本当に?と聞かれて、そうです。と答える。
 何で刈ったの?というから、私は、良く、昔は、ナショナルのスキカルというような、バリカン製品があり、私の時はパナソニックで、スキカルという製品名ではなかったが、それらには、アタッチメントのような、一杯付属品の、髪の長さを調節できたり、その、アタッチメント自身に、何ミリ、何十ミリ、といった、目盛りがついているんだ、と私が言った。
 そして、講頭さんは、しばらく、頭をバリカンなんて、使った事ないな、と言い、その新人の方は、それにしても頭の刈り方がうまいねえ、というので、私は美容師の母の息子で、元々頭、髪型には興味がある。だけども、母が私の髪を刈ると、必ず虎刈りとなった事などを話した。
 今日は、でも、ちゃんと虎刈りじゃなくて、髪が切れてるよ、と言われて、その髪型は一体、自分では何だと名付けたいの?とその新人の方が言い、例えば、スポーツ刈りとか?というので、私は普通に「丸刈り」と答えた。
 そして、講頭さんは、今日、皆に褒められた事を、ブログに書くのも一つだね。反省する事は非常に大事だ、と仰られた。
 私は、今日、大槻町の地区婦人部長のO合さんだか、栃木のKさんだか、どちらかが言ったのかが忘れてしまったが、同じ過ちを繰り返さない。反省したらすぐ実行に移す、というと、講頭さんは、まあ、中々、そうは言っても、我々は凡夫だから、実行をすぐに出来るのは理想だけれども、事の一念三千とは言うけれども、誰だって、失敗を何度も何度も繰り返して、やっと何とか身につくものだ、と仰った。結果だけを追い求めてもいけないと。
 それを聞いて、理系の講頭さんが言いそうな事だと思った。それは、発明王、電気工業の礎を作ったエジソンが、自分は一つの成功を見つける為に、千通りの失敗を見つけた挙句に、やっと唯一のそれ(成功体験・事例・発明)を見つけたのだ(趣意)。というような事を確か名言として残している。それを私は思い出した。プロセスが大事なんだと。
 要するに、理系の人の考え方は、一つや二つの失敗なんかでは決してへこたれない。千通りも失敗して初めてモノが言える。そういう考え方。
 だから、わざとじゃなければ、ウソが無ければ、何度失敗したって恥じゃない。その理系の人じゃなきゃ生まれ得ない発想、考え方って素晴らしい。

 そして、今日、私はお寺に行く前に、脳科学者・中野信子さんの「フェイクーウソ、ニセに惑わされる人たちへ」という本を読み終わった。
 本当に、ウソ、ニセに騙されている張本人達がこの世にいる。創価学会という新興宗教団体の、「ニセ本尊」に惑わされて、騙されている人々だ。
 これは本当に哀れという他はない。騙す方も騙す方だが、騙されている方も、いい加減、池田大作がもう死んで洗脳の呪縛からは解き放たれているのだから、気付いても良さそうなのに。
 その真実に気付くのに、後何年掛かるのだろう。もう、時代は令和。池田大作氏は去年の十一月十五日に亡くなり、十八日に発表。家族のみの密葬だった。
 如何にも、宗教の大指導者の死に対して、そのひっそり感とした、「密葬」というからには、余程の悪相だったのだろう、人様には見せられぬ程の、との憶測、というより、罰の現証として、当たり前の、当然の結果だと言える。
 顕正会の浅井昭衛氏も、同じ年の一ヶ月程先んじて、十月十六日、大聖人様の月違いの御生誕日という、いまだかつて、宗門の猊下様方が、一様にその日を避けるが如くに別の日にお亡くなりになられているというのに、この大謗法者(だいほうぼうしゃ)、池田氏と同じの一闡提人(いっせんだいにん)は、いけしゃあしゃあとやってくれましたね。
 それに比べて、数年前にお亡くなりになられ御遷化された、御隠尊第六十七世日顕上人猊下様の安らかな死に様は、伝え聞いた所では、何千人もが拝顔し、その血色も良く、まるで生前を思い起こさせる程の善相であられたと。
 この差はどこから来るのか。
 又、やってしまった。脱線を、である。この話の続きは、又、今度、という事で…。
以上。よしなに。wainai
頭を丸くして、笑顔満面の、わたくし。中学校時代を彷彿とさせる。


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