Kaettekita 私が思う あのこと このことReturn(Get Back Part2)

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ようやく御住職様の言った意味が判った。日蓮正宗無量山寿海寺へのTEL=常識外れは嫌われるこの世の仏法の条理、定め。長文失礼。

2024年07月13日 00時01分00秒 | 日蓮正宗無量山寿海寺・菩提寺・末寺・お寺・僧俗一同・僧俗一致
 初めに、長文につき失礼。

 以前、私は、日蓮正宗無量山寿海寺の信徒として、御住職様へ電話をした事がある。

 電話は年がら年中で、珍しくも何ともないが、ある事で、私からの一報を、お寺に入れたのだ。

 それは或る近所の家の、私より年上の女が、私が朝の勤行、夕方の勤行、これをやると必ず外に出て来て、最初に柏手を打つ真似をしたり、掃除をゴミが見えない夜にもホウキを掃いたりしたり、私が鈴(りん)を鳴らすかどうかの時を狙って、派手に鳴らす、等々、少々気にはなってはいたのだ。

 それに対して、御住職様にはこちらからは泣きながら、悔しくて悔しくて電話した事もあった。あんな、単立日蓮宗法久寺などにここまで蹂躙されるとは。(先方の車の後ろの窓には、堂々とその寺のステッカーが張り付けてある)。

 御住職様は心配為さっていた。私がいつか、朝の勤行中に、その一家目掛けて、「罪障積んでろ!」と獅子吼の如くに一喝の下、その一声で心が収まったが、それで済む程、事は簡単じゃなかった。

 中には、祈る声が折伏になるなど、ウソではないが、真実からも遠い事を言う信徒もいたが。それを御住職様には度々、お電話で、お話しはしていた。

 そうすると、御住職様は、相手の人は、wainai君(私)は、実際その一家にはどう思われていると思う?と聞かれて、私は「とてもうちを羨ましがってると思います。至上の、最高の仏法をこちらはやっているんですから」と言うと、御住職様は「さあて、それは、どうかな」とふいに不思議そうな言葉で言い含めて、御住職様は否定的だった。

 こちらが最高、至宝、至高の存在の仏法、天下の日蓮正宗を幾らやっているったって、そんなの判る訳ないわな。

 私からは、お寺のパンフレットを、その家のポストに過去、入れた事があったが、無記名、電話の連絡先も空欄であり、全然、その頃の私は折伏の精神がなっていなかった。それを折伏とは言わない。決して。無責任極まりない。

 だから、私のこれは負けである。どんなに勤行唱題で、こちらが「いいんだぞ、いいんだぞ」とがなった所で、どこ吹く風。馬の耳に念仏。柳に風。糠に釘、なのだ。

 そして、それらはただの騒音にしか過ぎない。残念ながら、全くの部外者にとっては。祈りが、折伏になるなどと考えたって、大間違いだ。

 それどころか、余計に本宗のイメージ、印象を悪くするのみ。悪印象、ダメージを日蓮正宗に与えるのみ。

 バカじゃないか。有難迷惑だろう。御宗門にとっても。御近所の人々にとっても。

 自分一人が有難がっていて、バカで仏様の顔に泥を塗っているのはこの、こっちの私だろう、まさしく。

 とにかく、今後は、常識のある範囲内でしか、声は極力、小さな声で、周りの迷惑にならないように気を付けてやる事にする。それ以外に方法は全然無い。

 それに対して、誰も、今では本宗から文句を言うものはいない。御住職様も同じ立場だ。かつての創価学会なんかもっと徹底して、騒音対策にはうるさかった筈である。

 住宅街なのである。私が住むのは。野中の一軒屋ではないのである。それをそんなにまでやりたいならば、この住宅密集地を飛び出して、山にでも引き籠るしかない。

 それが出来ないから悩んでいるのだ。それに文句をつける人がいたら、余程の田舎の良い環境に住んでるか、家の気密性、防音性に優れた家か、元々小声の人か、真症のバカか、いずれかだろう。

 とにかく、声を出す宗教って、これだから駄目ね、全く。と人様に言われぬ内に、退散だ。逃げるが勝ちだ。逃げなさい。逃げるんだよ。本当に。

 そこの所をちゃーんと弁えないと、私がバカを見る事になる。誰も責任など取ってやくれやしない。私の肩に全責任が伸し掛かるのだ。

 立場と言うものを弁え、考えろ。目立ちたがり屋精神じゃ、それだけじゃダメなんだって。

 他人事だから、そんな、大きな声でやるのがどこが悪い、等と言えるのだ。お前が責任とれるのか。私の身にもしもの事があれば責任取ってくれるのか!このおんつぁめが!(福島弁)。

 私ももう五十を超えた。子供じゃないんだ。当たり前だろ、そんな事!

 それだけは覚悟して、これからを見据えて、事を対処してゆきたい。

 とにかく、近所トラブルには、これは参った。白旗だ。降参だ。別に勝負なんか初めからしていない。負けて本望。悔しくもない。逆に、嬉しくもあるこの境地。負けるが勝ちなんだよ、何事も。泣く子と地頭には勝てぬってね。

 初めから、勝とう勝とうとするから、その害悪が身に及ぶ。徳川家康公も言っているではないか。「一、勝つ事ばかり知りて負くる事を知らざれば害其の身に至る」(徳川家康公遺訓)と。

 たまには負けてやれ、という事。連戦連勝なんて、創価じゃないんだから。
 創価は連勝と池田大作氏がほざいたが、その裁判結果の聖教新聞・創価新報等の機関紙はウソばかり述べていた。

 実際は、日蓮正宗側が勝利していたケースがほとんど。後のそれらペーパーフェイク悪徳デマ情報メディアは、ウソにウソを塗り固めた、創価プロパガンダ製造機・装置に過ぎなかったのだ。

 とにかく、夜も更けたので、これ位で、後は宜しく頼みます。夜の勤行唱題は声は極小さめ。音響機器・電子ピアノもヘッドフォン。後は人に迷惑を掛けずに静かに本など読んでいれば良いのだ。

 とにもかくにも、常識外れは、この世からも、仏法上からも、嫌われる事、必定。これがこの世の掟。

 仏法世法上の、身の処し方。一般人に受け入れられないものは、誰が見たって、受け入れるのは不可能。

 何も我々の広宣流布活動がダメだと言ってるのでは決してない。

 ただ、「ど」や「狂」が付く程の、やり過ぎた行為は、誰が見たって聞いたって、それは市民生活・国民感情が許さずに、そうは問屋は卸さない、はなからダメです、という事。

 逆効果で、逆に人並外れた常識外れは、不幸な結果、広布を阻害し兼ねない。

 御宗門もいい迷惑。

 そこをお寺の以前の、今も、菩提寺のお寺の重鎮の或る県の或る御方には、ムダな抵抗は止めて、黙って判って頂きたいな、とこれは私のたっての希望なのだ。

 頑固で言ってもムダか、判る相手なのか。そこは時の運としか言えないが。

 きっと判ってもらえると思う。うちの騒音問題を、その方は、信心で解決するしかない、などと仰っていたが、その信心が元はと言えば、騒音の原因、根源なんでしょうが。

 私の事など、こうなったら、どうでも良いのか。

 或いは…。

 どんな美談で言いくるめようとも、私の覚悟は変わらず。周りの邪教に屈したと取るならば、それで結構。

 それじゃあ、随方毘尼の法門はどうなるのか。仏法破戒につながってはおらずに、破和合僧でも、十四誹謗でも、十悪でも三毒でもない。そのどれにも当てはまらない。

 ただ、その方が頑迷に頑なに、おそらくその方は祈る声が、大聖人の「声仏事を為す」の御文を折伏になると、後生大事に抱えていると見える。

 それは、破仏法につながらないのか。「今生人界の思い出なりき」の、それら、他教徒の幸せを奪ってまで、詰まりはそこで我が家ががなり立てて、人一倍迷惑を掛けてまでやっていいことなのか?果たして。

 そういうのを「エゴ」「利己主義」といい、人迷惑であり、修羅道、修羅界、相争う、極悪道。下手をしたら、地獄道、地獄界への道真っ逆さまだ。

 そんなにカッコつけて、人の迷惑も考えないで、やりたい放題やるのが正宗式ならば、金輪際、私は正宗など辞めてやるわ。えい。

 それに、御住職様の、先の指導にも反するではないのか。御住職様ですら、込み入った住宅街での、大きな勤行唱題の声は慎みなさいと仰る。

 それとも、御住職様に逆らう気?言ってる言葉を用いないのかな?私はそれは話が違うと思うな。

 何でも、信徒の立場もあるが、出来得る限り、指導教師の説に従うのが弟子の役目。

 それらの事は、今現在の、寿海寺、お寺での朝の唱題行、夕べの勤行会でも使用中の「化義抄」の注解書、御説法で絶賛、使っている御本の中にもう、答えがある。日有上人の立派な書に、随方毘尼やら何やら満載であり、とても面白くていい本だ。買って損はない。

 こういう良書を日頃から読まない、遠隔地にいる為に、良くお寺の事情、現在の我が寿海寺を取り巻く情勢、現状に一歩でも十歩百歩とそうやって、一年二年とどんどんと乗り遅れてしまう。

 それではダメだ。それだったら、そんな間違った後輩への指導を、うちのお寺の御住職様始め、皆の信徒方が一決して申していて、誰一人異論なんか出ないのに。

 そんな大声で近所でやれ、なんて、誰も言わないのに、一人盛り上がって勝手な振る舞い。それを、同体異心、獅子身中の虫、というのでは。

 余りに言い過ぎたのでこれ位にする。この言葉で傷つかない様に。私はけれど、これは正論だと思う。「信心で解決」って、どうやっても解決付かずに、御住職、信徒、皆で出した答えに、一人逆らうんなら、それも仕方ない。その道をどんどん突き進んでいって下さい。御勝手に。後は保証はしませんよ。

 とにかく、破和合僧のにおいがする。このケース、御方は。破戒のにおいも。和合僧団の破戒を狙ってはいないのならば、私の言ってる事には一理あると、思うだけでも、今日の生きる糧にはなるとは思うんだが。

 私もあなたの頑迷さと理屈っぽさと、私の不用意さと攻撃性で、近所トラブルの、この問題に何度も対処しても埒が明かなかった。

 その解決の糸口の端緒がやっと見つかった所、段階、決して無理をしない、しかし相手に屈してもいない、ただ迷惑を掛けた何分の一かの非が私に現在ある。

 これは、僧俗、皆の一致した意見なので、これはそのままにして置いてやって欲しい。それが信徒間の友情、先輩後輩の、同志としての、力量、思いやり、慈悲行だろう。

 それでは、とにかく、そういう訳で、宜しく、ごきげんよう。お休みなさい。

 以上。よしなに。wainai


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