正しい食事を考える会

食が乱れている中どういう食事が正しいのかをみんなで考え、それを実践する方法を考える会にしたいと思います。

稲作伝来ー弥生時代の米の生産と村の発生ー2

2009-11-11 | Weblog
 「稲作伝来ー弥生時代の米の生産と村の発生ー1」の続き

 お米の生産は、土地の性質、多量の水、土地、温暖な気候を要し、日本には適していました。

 収穫が安定し、また長期に保管が出来るので、大切な財産となりました。米の生産は自然に左右されるので、豊作や不作がでたり、人口の増加でさらなる食料確保の道を考えなければならなかったり、ということは豊かな国は周囲から狙われたり、村と村の争いが起きるようになり、戦国時代を迎えました。

 村と村は争いつつ大きくなり、だんだん統合されて国になり、国は大きくなって行きました。

 ここに戦争の根本原因があるのです。食がない国は、生きるための食料の獲得が必要となりこれが争いの元となるのですが、それが水の権利であったり、土地であったり、境界であったり、いろんな欲望が生じ争いの元となったのです。

 攻められるから防衛策を考え無ければなりません。防塁を築いたり、塀を作ったり、武具を用意したり、見張り台を作ったり、高台に村を作ったり、・・・しかし、餓えているものは、欲望が強く、欲望が強いものは必死で奪いにかかります。

 戦争のない世界ということを言う人がいます。それは衣食住が足りている人が言うことであることが分かります。

 今、日本ではリストラで住がない人が増えています。職が無いので食も確保できない人も出てきました。この生活の元は現代ではお金があれば確保できます。

 ということは、歴史に学べばこのお金を獲得するため、自分の土地でお米を生産しようとしても土地がなければ、しばらくは腹を減らして辛抱しても、他人のものを奪う方向に進みます。

 また、十分に食が満ちているのに、生活基準を上げているため、欲望のために高い収入を欲することも生じ、合法的に奪取するのが官僚の天下りです。或いは違法な手段で他人の財産を奪うこともします。

 ともあれ戦争というのは無くならないと考えられます。

 中国でも紀元前500年前頃春秋戦国時代、王と王の争いが激しい時代でした。この時孔子は争いの原因を考えたのです。その原因を「欲望」と考え、人々は欲望を抑えることが大切だと説き、欲望を抑えると礼が生じる。礼の精神が平和を招くと考えました。

 しかし私はこの思想には問題があると考えます。いくら礼を説いても、極度に飢えている人、欲が強い人は礼を無視して奪うのです。それは歴史が証明しています。
 今日本でも平和を訴える人がいますが、「衣食足りて礼節を知る」で衣食が足りていないところで平和平和って言っても説得力はないのです。平和を崩す原因を解決しなければならないのです。
 
 日本は何故太平洋戦争を起こしたのか、弥生時代の中頃の状態と同じです。
戦争責任は誰に」「欲望が世の中を動かすが・・・少欲知足のすすめ」等に少し書いていますので読んでみて下さい。

話が横道にそれますので、元に戻します

弥生時代中頃

 武力に長けたもの、多くの集団になったものは勢力を拡大し大きな国へと発展しました。
しかし、国と国の争いは続き、何とかこれを抑える方法はないかと考えたのが、中国の後ろ立てだったのです。王として権威を貰いそれで全国支配をしようと考えました。

 倭の南端にある奴国の国王は、紀元57年中国の後漢に使者を出し、倭の国の王と認める金印を授かりました。(「漢委那国王」福岡の志賀島島出土)
奴国は金印をちらつかせ、漢帝国がバックにいることを誇示して、まわりの国を従え、強大になって行きました。

2世紀後半の日本ではその後も各地で国同士が戦いあって、地域を統一する王は生まれませんでした。
 
 毎年戦いが続いて米は作れないし、若者は戦死して働き手がいなくなったりしました。

 戦乱が続く中、神の言葉を聞いて伝える卑弥呼が出現しました。そこで卑弥呼を女王に仕立て回りの国をまとめて平和の暮らしをしたいという気運が高まり回りの国に呼びかけられ、邪馬台国に連合国の王達が集まりました。
 戦乱をおさめ、平和を築くために邪馬台国を盟主として各国が連合して争うことがないように申し合わせました。

 こうして、3世紀のはじめ、女王卑弥呼が誕生し、30あまりの国々が連合を結びました。
女王卑弥呼のお告げに従って農作業をするようになりました。

 しかし、狗奴国は女王に従いませんでした。そこで女王は狗奴国と戦う前に魏に使いを出し後ろ盾とする事にして、大夫ナシメを魏に使わし、「親魏倭王」の称号と金印、100枚の銅鏡、絹織物等を授かりました。
卑弥呼は銅鏡を同盟国に授けたと言われています。

 三世紀の終わり頃、奈良盆地で豪族達が連合して「大和政権」を作りました。
大和政権は豪族同士で話し合って大王をたてて、政治を行っていました。

大王はその年取れた米を大王家の神々に供える儀式、新嘗祭を行いました。

古墳時代それまでの炉にかわって大陸からかまどが全国に広まっていました。
古墳時代の終わりになると。全国に鉄の刃を付けた鋤などの農具が行き渡り、沢山の田や畑が開発されました。

 こうして稲作は日本では無くてはならない者になったのです。瑞穂の国、日本なのです。人々は田畑を開墾することに努力しました。

この世に大切なお米を現代人は何とも考えていないに等しいのです。
食生活の歴史からお米を見直すべきです。
この古墳時代の食事が日本の食事の基本です。体質にあった食事なのです。
肉も、牛乳も、小麦粉もありません。米が獲れないところでは麦、粟、キビ、そば等の雑穀を植え、庶民はそういう雑穀を食べました。

 しかし、美味しさは米には遠く及びませんでした。
近年、そば、うどん、らーめん、パン・・等の粉食が勧められていますが、砂糖、バター、肉、がなければ食べられない食品です。

 その点ごはんは玄米でも食べられます。玄米の法が美味しいくらいです。
人口が増え家畜が減少し(エサが無くなるのです)てくると砂糖で食べるパンは残りますが、後は残らないでしょう。その時米をと言っても田んぼが無くなっているのです。

 未来の日本人は世界に食糧を恵んで貰う情けない国になり、国では飢えが広がり食料の奪い合いが起きるのではないでしょうか。

丁度弥生時代のように
 



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