ショートシナリオの館

ボケに抵抗するため、日常生活の中から思いつくままに書いています。月2回・月曜日の投稿を目指します。

日本橋から京橋へ 史跡探訪

2017-01-23 07:53:25 | 日記



首都圏に住んでいる高校の同級生3人が喜寿を迎えたことを契機に始めた街歩き。歴史探訪や文学史散歩を楽しんで
います。今回は「日本橋南側の史跡探訪」。日本橋南詰西側にある「日本橋由来」の碑に集まったメンバーは新年の
挨拶を交わしています。



ノブ:我々の街歩きも3年目に入ったね。第1回はここ日本橋から日本銀行や渋沢栄一の像がある日本橋北側の歴史
   散歩だったけど、覚えているかな?今回は日本橋南側にある史跡巡りだよ。

ヒデ:日本橋に来たのは、あの時以来だよ。一昨日だったかな?テレビで東京駅から京橋にかけてのエリアは2020年
   の東京オリンピックに向けて、再開発工事のラッシュだってレポートしていたぞ。超高層ビルが約20棟も建つ
   らしい。

ヤス:そんな工事ラッシュのエリアに史跡といえるものが残されているのかい?

ノブ:と、思うよね。そこで、今回は先端テクノロジーが詰まったビル建設の現場近くに、どっこい生きている史跡
   や老舗の名店を探索しながら歩こうじゃないか。先ずは、この日本橋のたもとから見える「野村證券」のビル
   に注目だ。昭和5年の建造物で、上中下と三層構造になっていて、特に最上部の意匠が魅力的だと思っている。

ヒデ:昭和の初期にこんなハイカラなビルを建てたんだね。今でも古さを感じない。



メンバーは中央通りを南下してコレド日本橋方面に向かいました。



ノブ:江戸時代創業の寝具の老舗「西川」と新しいランドマーク「コレド日本橋」の間にあるこの道は、かつて木原
   店(きわらだな)と呼ばれた横丁だ。ここには多くの料理店や寄席があって、志賀直哉の「暗夜行路」や夏目
   漱石の「こころ」「三四郎」にも登場しているんだ。「三四郎」では三四郎がここの寄席で落語を聴く場面が
   あるそうだ。

ヤス:あそこのオープンテラスは広いね。ビルの谷間にあるオアシスってとこかな。

ノブ:アネックス広場というんだ。この脇に「漱石名作舞台の碑」があるよ。平成17年に建立されたものだ。漱石の
   小説には日本橋が多く登場するから、よほど、日本橋が好きだったんじゃないかな。でも、漱石自身は日本橋
   に住んだわけじゃないので、「舞台の碑」としたんだろうね。並んでいる「名水白木屋の井戸の碑」も見てほ
   しい。コレド日本橋は白木屋の跡地だ。白木屋は近江商人・木村彦太郎の創業で、日本橋北側の越後屋と並ぶ
   呉服の大店だった。2代目彦太郎が水の悩みを解消するために井戸を掘ったら、一体の観音像が出てきて、さ
   らに清水が湧き出たといわれている。以来、「白木名水」と名付けられたそうだ。今では水は出ないから、こ
   の石碑がなかったら未来には伝わっていかないよね。

ヒデ:石碑で知る「過去」。今日の史跡巡りのテーマにぴったりだ。

ヤス:この辺りは名店がひしめいているね。洋食の「たいめいけん」、ラーメンの「ますたに」、和紙の「榛原」、
   和菓子の「とらや」、飴の「榮太郎本舗」がある。いずれの店も昔ながらの定番商品と時代に合った新商品が
   並んでいる。

ノブ:着いたよ。「延命地蔵尊」だ。ここは泉鏡花の名作「日本橋」と関わりがあって、新派の名優・花柳章太郎が
   ヒロイン「お千世の図額」を奉納している。次に紹介するのが「竹久夢二の碑」だ。大正3年に、この地で夢二
   の妻・彦乃が夢二の作品を扱うお店を開業している。夢二が描く小首を傾ける女性たちは独特の魅力があるよ
   ね。この場所は商業美術史上重要な意味を持つ場所だから、こうして石碑が建てられたのか、夢二の人気が高
   いからなのか・・・僕は知らない。

ヒデ:意識して探さないとわからないけど、史跡って、結構あるものだね。

ヤス:僕は、この辺りの店については詳しいんだよ。あそこが徳川家のお菓子司を務めた「長門」、中央通りには本
   の日本橋「丸善」、その向かいは百貨店建築の傑作「高島屋」、ちょっと先にお茶と海苔の「山本山」がある。

ノブ:その中でも日本橋「丸善」が漱石・鴎外・龍之介をはじめとする日本近代文学史の発展に果たした役割は大き
   いよね。それでは次に向かうよ。ここが「秤座(はかりざ)跡の碑」だ。ビル工事で隠れていたけど、やっと
   塀がとれて姿を現したんだ。「秤座」とは聞きなれない言葉だけど、江戸時代に「度量衡」の制度を支えるよ
   うな組織があった場所だ。徳川幕府から東国三十三ヵ国で用いる秤の製造と販売、および検定権の独占を公認
   された守随家がこの地にあったんだ。西国の「秤座」は京都にある。次は「歌川広重住居跡」の標識だ。ビル
   建築中のため標識がフェンスに貼られているので味気ないけど、寛永二年(1849年)から亡くなるまでの十年間、
   ここに広重は住み、「名所江戸百景」などを描いている。

ヒデ:今、歩いていて気付いたけど、建て替えでブリジストン美術館が無くなっていた。都会の喧騒の中、全くの別
   空間で憩うことができて好きだったんだけどな。

ヤス:今回は常に建築現場の脇を歩いている感じだよ。変化の真っただ中だな。

ノブ:さあ、史跡めぐりの最終ポイントに来たよ。中央通りと八重洲通りの交差点に分離帯があるだろ。あそこに
   「ヤン・ヨーステン記念碑」がある。慶長五年(1600年)航海長のイギリス人ウイリアム・アダムス(三浦按針)
   とともに豊後に漂着したオランダ人航海士ヤン・ヨーステンが、家康から屋敷を与えられて暮らしていた。
   八重洲という地名は、このヤン・ヨーステンのヤ・ヨ・スに由来するといわれている。同じ場所に「平和の鐘
   のモニュメント」があるね。この平和の鐘は中央区が1980年に日蘭修好380年を記念し世界平和を願い設置し
   たもので、一定時刻になると26個の鐘が美しい調べを奏でるよ。オランダとの縁の深さを感じるな。

ヒデ:あそこの「明治屋」本店のビルがいいね。昭和初期の名建築が都心部で次々と姿を消しつつあるなか、往時の
   面影を色濃く今に残す、この建物は存続してほしいな。

ノブ:野村証券や明治屋のような名建築は探すとまだあるよ。実はパイロット万年筆の本店にあったギャラリーで万
   年筆の名品を紹介したかったけど、本店そのものが引っ越しちゃった。残念だな。ビル建設ラッシュの影響が
   こんなところにも現れている。
   今回の史跡探訪は以上。お疲れさま!

元気な3人、次回はどこを巡るのでしょうか?

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