街道を歩く

旧街道を中心に歩く旅日記。歩行距離は、2021年11月以降は活動量計の表示にしたがっています。

高野街道(橋本~女人堂)

2016年10月02日 14時06分22秒 | 街道を歩く
昨日、高野街道(不動坂口道)を橋本から高野山の女人堂まで歩きました。

南海橋本駅から前回の到達地点に戻り、スタート。



紀の川の川縁に建つ東家渡場(とうげわたしば)大常夜燈籠。
「橋本」の由来となった橋が1587年に架けられましたが、3年後に流失したため以後は渡し舟で移動するようになりました。
川の北側の渡し場に建てられたのがこの常夜燈です。現在は、奥に見える橋本橋で渡ります。



橋本市清水にある西行法師ゆかりの西行庵。ここには「高野街道六地蔵」と呼ばれる6つの地蔵のうちの1番目が祀られています。



昨日は、橋本市が主催する「黒河道(くろこみち)世界遺産登録祈念・第2回はしもと歴史いきいきウォーク」の開催日でした。
高野街道がイベントのルートに入っているので、方々に矢印が設置されていました。



学文路(かむろ)の民家の玄関先に設置されている、高野山女人堂まであと3里を示す里程石。



里程石のある民家の向かいにあるかむろ大師。ここにあるかむろ地蔵の説明によると、この地域はかつては梅の名所で、
元は「香室」と書いて「かむろ」と読んでいたとのことです。



学文路駅近くの南海高野線踏切を渡り、上り坂に入る。



橋本市を臨む。



橋本市清水から紀の川市竹房を結ぶ紀の川フルーツライン(紀ノ川左岸広域農道)を跨ぐ。



九度山町繁野にある、高野六地蔵の第3の地蔵。



第3の地蔵を過ぎてすぐのところにある「ゆめさきトンネル」を横目に眺めながら先を進みます。



子安地蔵として信仰されている、九度山町河根峠にある第4の地蔵。



第4の地蔵は街道がヘアピンカーブを描く角に立っています。このあたりから急角度の下り坂に入ります。



下り坂が一段落したところにある女人堂まで2里の里程石。奥に見える千石橋(せんごくばし)を渡ると再び上り坂に入ります。



急な上り坂である作水坂を登り切ったところにある、高野町作水の第5の地蔵。



第6の地蔵を過ぎて、さらに山道を進みます。



日本最後の仇討ちである「高野の仇討ち」(1871年)で犠牲になった7人の墓。幕末に殺された赤穂藩の参政(家老)の遺族による仇討ちとのことです。
この事件がきっかけで、1873年に仇討ち禁止令が出されました。



「高野山女人堂江一里」の里程石(左から2番目)。



現在は指定避難所となっている、元白藤小学校。この界隈はかつては宿場町として栄えましたが、
高野山電気鉄道(現南海電鉄)高野線と高野山ケーブルの開通により寂れました。



南海極楽橋駅近くで、高野線と並走し跨ぐ。



極楽橋を渡る。この橋は、高野の聖域と俗界を区切る結界とされています。



極楽橋のたもとにて、極楽橋駅を出て橋本方面へ向かう特急こうや。



街道最後の坂となる不動坂に入ります。極楽橋駅を臨む。



高野山ケーブルの下をくぐる。



不動坂沿いにある清不動堂(きよめのふどうどう)。



参詣客が高野山奥の院に供えるための花を取ったという花折坂。



車道のある道に合流。左の道は、ケーブルカー高野山駅へつながるバス専用道路です。



ゴールである女人堂に到着。1872年までは高野山は女人禁制で、女性が入れるのはここまででした。
高野街道は58891歩、38.3kmでした。
鳥羽街道、京街道(納所~八幡市)、東高野街道を加えた、東寺から高野山を結ぶ広義の高野街道としては17万1724歩、111.6kmでした。
いずれも1歩65cm換算ですが、今回の区間に坂道が多かったため、実際はもう少し短いと思います。



もう少し歩いて金剛峯寺を訪ねました。



高野山の文化財を展示する博物館である高野山霊宝館を見学しました。
1921年開館で、今年で開山1200年となる高野山では新しい部類ですが、現存する日本最古の木造博物館です。
南海鋼索線高野山駅より帰宅。

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