あの頃、ボクは空腹を我慢できなくて、母へ食べ物をねだっていた。母は決まって「縄でもかじっていなさい」という返事をしていた。駅の売店(キオスク)にニッキというものが売られていた。木の小枝を鉛筆ぐらいの太さに割ったようなもので、その皮を歯でしごくと良い香りと味がした。ニッキの木をかじったりしゃぶったりして空腹を紛らわしていたのだ。
ボクは母に呼ばれて台所へ行った。そこには姉と母が深刻な顔つきをして座っていた。ボクも正座した。母は米櫃を見せた。米櫃を傾けると米は箱の片隅によった。米は、ほんの僅かしかなかった。「お米は6月までこれしかない」と母が言った。ボクは暦が理解できず、6月という日まであと何日あるか分からなかったが、ご飯を食べられなくなることは分かった。いつも、食べ物をねだっていたボクに母は困っていたのだろう。あとで姉から聞いたことであるが、姉は弁当を持たずに学校へ行っていたし、また、父も弁当なしで勤務に出かけていたそうである。
ボクが1年生の時は弁当の時間に先生は食事をせずにピアノを弾いていたが、2年生になってからはピアノの記憶がない。弁当の記憶もない。2年生になってからは弁当の時間がなかったように思う。当時、兵隊が校舎を使うようになったので、教室が不足し、午前と午後の2部授業が行われ、低学年の生徒には弁当の時間がなくなったような気がする。弁当を持っていかなかった姉はどんな気持ちで昼の時間を過ごしたのであろうか。ボクはお昼に家でジャガイモを食べたことを覚えている。母がホタテ貝の貝がらをお皿にして、ジャガイモを二つ食べさせたくれたことがあった。父や姉が食べなくても空腹を我慢できないボクにお昼を作ってくれていたのだろう。
米が食べられなくなった。代用食としてカボチャを食べた。これも配給券を持っていかなければ買うことができないのだ。カボチャを食べるようになってから、手を握ってから開くと、手の平が黄色く変わった。顔が黄色くなっている人もいた。「何が何でもカボチャを作れ」というポスターを見たような気がする。ボクの家でも軒下にカボチャを植えていた。鉄道官舎の人たちが空き地を分け合ったのであろうか、官舎の各家には畑があった。ボクの家の畑にジャガイモを掘るに行くと芋の茎が萎れていた。引き抜くと土の中の芋が盗まれたあとだった。畑を割り当てられた家はまだよかったが、街の中心地の人たちはどうであったろうか。ボクのクラスの子が学校の畑のカボチャを盗んで家へ持ち帰っていったこともあったのだから、食糧には極めて困窮していたことだろう。
ボクの家の畑に人参があった。子供たちがまだ学校へ上がっていないボクの妹に人参を採らせて、生で食べている所を母が見つけた。ひもじいと子供たちの心も貧しくなってしまうのだ。
父に頼まれてボクはタンポポを摘んで花びらを乾燥させ、タバコを作った。当時のほとんどの成人男子は喫煙者でありタバコの配給があったが、これでは不足だったからであろう。空襲や警戒警報の合間に、食べられる草を探して歩いた。皆がひもじい思いをしていたのだ。
まともなご飯がなくても、よもぎや大根の葉や大豆などの入ったお粥が食べられるのは良い方だった。大豆の油を搾った残りかすが食料として配給された。 大豆かすである。直径20~30センチ、厚さ10~15センチ程だったろうか、灰色で石臼のような形をしたものだった。岩のように硬いものだ。それを鉈で削って食べた。人間の食べ物ではない。本来は粉末にして豚や牛に食べさせる餌なのだ。ボクたちは豚の餌を食べて生き延びてきたのだ。
当時の新聞を調べると、代用食の紹介が載っていた。よもぎ、つゆくさ、いぬたで、いのこづち、いたどりなどの雑草やどんぐりの粉などである。それに、カエル、カタツムリ、トカゲ、イモリなどだ。コオロギやバッタは乾燥して粉末にしてから食べるようにと紹介している。戦中戦後ボクたちは、食べ物がなく、ひもじかったから家畜の餌や野鳥の餌までを食べて生きようとしてきたのだ。
飽食の時代「ひもじい」は死後になった。しかし、いつか戦争が起きれば庶民はボクたちが食べてきたものを食べざるを得なくなるであろう。戦中戦後の食べ物を体験しようと「すいとん」を試食するイベントがある。すいとんは贅沢な食事なのだ。現代風に味付けし、ただ一度だけ、すいとんを食べただけで、戦中戦後の食事が理解できようか。ボクたちが食べてきた野草の入ったお粥や豚の餌を一口でも味わっていただきたいものだ。特に戦争を知らない国会議員の先生方には一食分を残さずに食べてから、戦争を論じていただきたいと思う。
今、食べ物がなくてひもじい思いをしていた頃を記録しているうちに、思い出したくない出来事を思い出してしまった。記録にとどめたくない思いもあるが、これが戦争なのだということを今の若者たちに伝えたい。戦争が起これば子殺しも起きることを!
子殺しがあったことが子供たちの噂になった。多分、父や兄たちが戦地へ召集されたであろう母子家庭で子殺しがあったというのだ。食料が底をついたとき、待っているのは飢え死にである。母と年長の姉は空腹をうったえている弟妹たちが飢えで苦しんで死ぬ前に毒殺したというのだ。多分残された二人も後を追うであろうが、すぐ他人に知れて警察に逮捕されたということであった。幼い子供たちは敵兵に殺されたのではない。他人に殺されたのでもない。もっとも頼りにしていた母や姉に殺されたのだ。思い出すのもつらくなる事件だ。その毒はネコイラズであったが、ボクはネコヤナギと聞き違えていた。ネコヤナギの芽には毒があると思い込んでしまった。だから土手のネコヤナギの蕾が芽吹くころ、この事件を思い出してつらかったが、いつしかこのむごい記憶を封印してしまったのだ。戦争のことを話したがらない人は大勢いる。彼らも思い出すと苦しくなるので記憶が呼び起されないように封印してしまっているのであろうか。
ボクは栄養不足でやせ細り顔色も悪かったのであろう。秋田へ疎開したとき、同学年の子から「青い顔して幽霊みたいだ」と言われた。幽霊と言われボクは気持ちが落ち込んでしまった。
時は変わって戦争を知らない若者たちが、ケーキなどの食べ物を顔に投げつけるような遊びがテレビで放映された。ボクは無性に腹が立った。そして悲しくなった。
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追記(2017-02-17)
昭和20年 現在の北海道函館市立亀田小学校での記録です。
【ボクの見た戦中戦後=砕氷船亜庭丸で疎開】
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