降版時間だ!原稿を早goo!

新聞編集者の、見た、行った、聞いた。
「降版時間」は新聞社整理部の一番イヤな言葉。

★軍艦島は今日も壊れている=上陸編❸

2014年09月30日 | 新聞


軍艦島(正式名は端島)は、きょうも壊れつづけている。
僕たち上陸グループは安全誘導員とともに、唯一上陸できるドルフィン桟橋から、パイプとコンクリートに固められた見学通路に従い、第3見学広場まで行ける。
最大40分ほどのコースで、主に鉱業所エリアしか見ることができない。
反対側の住居エリアは、崩壊・損傷があまりに激しく立ち入れないのだ。

写真右奥の建物は、端島小中学校舎。
最上階の部分が、やや凹んだように倒壊している。
「アレは、先日の台風前は崩れていなかった。
私たちは上陸するたびに、可視範囲をチェックしていますが、風や高波を受け、いろいろな建造物が日々崩れているのが分かります」
と安全誘導員はポツリ言っていた。

不法上陸なんてありませんか?
「今はできないですが、以前は上陸できました。
軍艦島で唯一閉山後に建てられた建造物がありますが、それがあの白い灯台なんです」
「照明の役目もあるんですが、アレで24時間監視もしているんです」
と、安全誘導員は言っていた。
確かに、上陸ポイントは現在も昔もドルフィン桟橋だけ。
波が高いときは接岸どころではないけど…………。
長くなったので、続く。


【軍艦島=ぐんかんじま】
長崎半島から南西約19kmの沖合に浮かぶ南北480m、東西160m、周囲1.2km、面積約63,000㎡、島高47.5mの、半人工海上炭鉱遺構「端島」の俗称。
炭鉱が操業していた頃は、島全体が三菱の社有地だったが、
2001年に行政に無償譲渡され、現在は長崎市の管轄。

▽1810(文化7)年、石炭発見。
当時の端島は草木のない水成岩の瀬にすぎなかった。
▽1890(明治23)年、三菱が佐賀藩深堀領主鍋島孫六郎から10万円で買収。
▽1916(大正5)年、日本初の鉄筋高層アパート完成。
▽1974(昭和49)年1月15日、端島鉱が閉山し、同4月20日には全島民が退去し無人島になった。
▽2013(平成25)年6月、世界遺産の暫定候補にリストアップされる。

★軍艦島は4G圏だった=上陸編❷

2014年09月29日 | 新聞


【きのう9月28日付の続きです】
観光クルーズ船に乗り、長崎港から約40分、
日ごろの行いがいいのか、晴天と穏やかな波に恵まれ、上陸することができた軍艦島(正式名は端島)。
ドルフィン桟橋から見上げた僕たちに、ドーンと〝廃墟〟が飛び込んできた。

写真は、三菱が炭鉱操業していた時代から実際に使われていたドルフィン桟橋から見上げたところ。
(左下から)
(ブロック状施設)竪坑坑口桟橋跡
第2竪坑に行くために造られた昇降階段部分。

(山の上に見える)鉄筋コンクリート造の職員住宅
軍艦島は住居エリアと鉱業所エリアに分かれていた。
さらに、住居エリアは波が直撃する低地棟は炭鉱員、高い棟は三菱社員・医師らが居住していた。
住む場所の標高でヒエラルキーを表していたことになる。

(数本建つ、鳥居のような支柱跡)貯炭ベルトコンベア
棄てられ、今も高波に打たれながらも建ち続ける姿にもののあはれを感じてしまった……。

(右奥に見える)端島小中学校舎
設立時は三菱社立校で、のちに町立。
昭和初期の子どもたちの遊ぶ声とパイプオルガンの音色が聞こえるよーな気がした。


空はひたすら青く、残墟はひたすら灰色。
ところどころに煉瓦の赤茶が入るが、色が無い軍艦島。
上陸クルーズ船のスタッフ(安全誘導員)は続けた。
「操業時の住民たちは緑を欲しがったようで、外壁に一部緑ペンキを塗っていた跡があります。
それほど、緑が欲しかったんでしょう……」。

上陸グループごとに、数人の誘導員が付き添い、
第1~3見学広場で説明をしてくれる(エリア内写真撮影は可)。
見学所用時間は最大40分ぐらい。
僕たちの他に、大型クルーズで来た130人グループもいたから、天気のいい時は、けっこう込み合うよーだ。

外洋にある無人島・軍艦島。
僕のiPhone(au)は、アンテナマークが3(5が最高)で
「4G」
表示だった。
へぇ~!
当たり前だけど、島内には携帯基地局もWi-Fi設備も無い。
ただし、アレは、あった。
………長くなったので、続く。

★軍艦島は好天だった=上陸編❶

2014年09月28日 | 新聞


つ、ついに、念願の軍艦島(長崎県・端島)に上陸した!(←ツアーだけど)
添乗員さんが
「私は5回来ていますが、上陸できたのは、今回で2回目。それほど、天候などに左右されやすいところなんです」
と興奮しながら言っていた。

観光上陸クルーズ船は長崎港の大波止桟橋、常盤桟橋から出航しているが、
出発できても外洋にあるため、
軍艦島船着場のドルフィン桟橋に接岸・係留できないことが多々あるという。
やったぜ、日ごろの行いがいいから(笑)超ラッキー!


【軍艦島=ぐんかんじま】
長崎半島から南西約19kmの沖合に浮かぶ南北480m、東西160m、周囲1.2km、面積約63,000㎡、島高47.5mの、半人工海上炭鉱遺構「端島」俗称。
炭鉱が操業していた頃は、島全体が三菱の社有地だったが、
2001年に行政に無償譲渡された。
現在は、長崎市の管轄。

▽1810(文化7)年、石炭発見。
当時の端島は草木のない水成岩の瀬にすぎなかった。
▽1890(明治23)年、三菱が佐賀藩深堀領主鍋島孫六郎から10万円で買収。
▽1916(大正5)年、日本初の鉄筋高層アパート完成。
▽1974(昭和49)年1月15日、端島鉱が閉山。4月20日に無人島→ゴーストタウン。
▽2013(平成25)年6月、世界遺産の暫定候補にリストアップされる。


ってことは、さておき。
長崎港から(船内で予習的ビデオを見ながら)約40分ほどで到着。
外洋に出ると、けっこう揺れてツアー客数人が船酔いでダウンした。
クルーズ船は島全体を周遊してから=写真、操業時代から実際に使われていた船着場ドルフィン桟橋に係留した。

おっと~、その前に、
出航前、必ず誓約書を書くのだ。
▽島内、乗船時の飲酒はダメ。
▽島内、禁煙。
▽日傘を含め、傘の使用・持ち込み禁止。ハイヒールも不可。
▽無断行動は厳禁。
ハイ分かりました、と住所・氏名を記入し提出。

「波が穏やかですので、これから上陸しま~す。お一人ずつですよぉ~」
とクルーズ船スタッフ。
波しぶきがきついドルフィン桟橋から、我ついに上陸せり!
いきなりドーンと頂上の職員住宅跡、学校跡、コンベアの支柱跡が目に飛び込んできた。
廃墟はグレー、瓦礫は黒く、空は真っ青。
………長くなったので、軍艦島上陸編❷に続く。

★讀賣報知を初めて讀んだ・見た❺止

2014年09月26日 | 新聞

ついつい最近(1990年代前半)まで、鉛活字と凸版、インクを使って活版で組んでいた「新聞」。
僕たち新聞社整理部から見た、活版鉛活字組み版から第1期CTS(コンピューター組み版・編集)までを後世に書き遺しておこうかな、と。


【きのう9月25日付の続きです。
◆お断り=当時の政治情勢や世情などは考慮せず、ただ単に
「昭和初期の、鉛活字組み活版新聞紙面はどーなっていたのだ?」
に注目しました。
紙面は「激動の昭和史を読む/太平洋戦争の記憶」(アシェット・コレクションズ・ジャパン発行)の毎号コレクションズから。
というわけで、復刻新聞紙面に驚いたぁシリーズ第18回】


【 讀賣報知新聞・昭和二十年二月十八日付篇⑤止 】=写真
● 活版で、途中から倍半(1.5倍)変換はけっこうタイヘンなのだった、の続きの続きなのだ

1990年代、文字拡大化で生まれた1段(15倍)13字詰め鉛活字。
昭和20年代「讀賣報知」紙のよーに、ベタ活字の途中から倍半(1.5倍)活字に差し替える(*1)のは、
かなり組み版技術が進歩したと思われる、昭和後期の活版部でも手間のかかる作業だった。
なんたって、オール手作業だから。
以下は、きのう9月25日付の製作局大組み班での変換作業の続き(………ダラダラちょっと長かった m(__)m )。

鉛活字ゲラからベタ活字を抜いてポイッ、倍半活字に差し替えるのだが、
先にも書いたよーに文字サイズが違うのだ。

1段13字詰め活字サイズ=天地101ミルス・左右121ミルス
倍半(1.5倍)活字サイズ=天地132ミルス・左右132ミルスの正体(せいたい)

左右幅11ミルスの差があるのだけど、行数インテルは55のままだから、多少凸凹とヨレができてしまう。
社の製作局は〝行数組み〟(*2)だったから、大組み工員はイヤがっていた(→職人だからね)。

「むぅ、多少ゲラにヨレができるなぁ………まっ、いいかぁ。時間ないし、水をかければ(ゲラが)締まるかぁ」
と大組み者は言って、ゲラを小刷りに回したのであった。


人の力に頼る活版組み版で、これほど面倒で手間のかかる(→ということは、事故が起きる確率増)
〝ベタ活字の途中から倍半組み〟
が、昭和初期の全紙で日常的に行われていたのは、何故だったのだろう。


(*1)ベタ活字の途中から倍半活字に差し替える
ニュース面では絶対やらないが、あらかじめ組んでおく特集面などでやると、結構面白い効果があった(→今なら、1.8Gだと読みやすいかな)。

(*2)行数組み
以前にも書いたけど、活版組み時代の新聞社大組みでは、
上段から最下段まで行(ぎょう)がピシッとそろった組み方をしていた社と(行数組み)、
とにかく記事が入りゃあいいじゃん的インテル抜いちゃえ入れちゃえ的・上段→下段まで行が不揃い型の社(倍数組み)
があった。

今では信じられないかもしれないけど、
コンピューター組み版CTSに移行後は端整なレイアウトを展開している産經新聞。
活版時代は、それはそれはスゴい倍数組みだったのだ(活版時代の題字は横置き「サンケイ」)。

★讀賣報知を初めて讀んだ・見た❹

2014年09月25日 | 新聞


ついつい最近(1990年代前半)まで、鉛活字と凸版、インクを使って活版で組んでいた「新聞」。
僕たち新聞社整理部から見た、活版鉛活字組み版から第1期CTS(コンピューター組み版・編集)までを後世に書き遺しておこうかな、と。


【きのう9月24日付の続きです。
お断り=当時の政治情勢や世情などは考慮せず、ただ単に
「昭和初期の、鉛活字組み活版新聞紙面はどーなっていたのだ?」
に注目しました。
紙面は「激動の昭和史を読む/太平洋戦争の記憶」(アシェット・コレクションズ・ジャパン発行)の毎号コレクションズから。
というわけで、復刻新聞紙面に驚いたぁ~シリーズ第17回】


【 讀賣報知新聞・昭和二十年二月十八日付篇④ 】=写真
● 活版で、途中から倍半(1.5倍)変換はタイヘンなのだ、の続きなのだ( 活版時代での作業工程⑴~⑷はきのう9月24日付に )

⑸ 製作局文選課が手拾いした1.5倍活字を受け取った植字工員(*1)は、
鉛活字ゲラと整理発モニターの指定行を探す。

⑹ ベタ鉛活字を抜き取り、ポイッ(捨てちゃう)して、
拾われた1.5倍活字を差し替えていく。

⑺ この作業で少し〝問題〟になるのは、インテル(行間をつくる金属片)。
1990年代には、
15倍1段13字詰め・行間55インテル
の頃があり、同鉛活字1文字の左右幅が121ミルスだった(*2)

当然、1.5倍(天地左右132ミルス)活字を差し替えると、きれいに揃わないことがあった(当然、天地もやや不揃い)。
▽1段13字詰め鉛活字サイズ=天地101ミルス・左右121ミルス
▽倍半(1.5倍)活字サイズ=天地132ミルス・左右132ミルスの正体(せいたい)

⑻ キレイな紙面づくりを心がける大組み工員(*3)は、
「むぅ~………」
と、鉛活字ゲラをにらみ唸るのであった。
…………長くなったので、続く。

(*1)植字工員
新聞社によって製作局の体制は異なるが、植字だけを行う工員がいた社はすくなかったのではないか。
だいたい、大組み工員が時間によってシフトしていた(大組み開始時間になると、大組み専従)。

(*2)13字詰め鉛活字1文字の左右幅が121ミルスだった
整理部と大組み工員には評判が良かった文字サイズ。
この13字詰め文字と55インテルを合わせると、ぴったり2倍(176ミルス)になるという、かなり計算しやすい左右幅だった。

(*3)キレイな紙面づくりを心がける大組み工員
〝倍数組み〟を行っていた新聞社の活版から来られた途中入社のかたは融通をきかして組んでいたが、
〝行数組み〟をしてきた工員のかたは、ゴム製エプロンに白墨を持っていて、大組み台でよく計算していた。
例えば、左右121ミルス文字に33インテルを合わせて組むと、差はいくつか?と
ぴったり合うインテルを計算して組んでくれた。
ド新人の頃、計算していた大組み者を見て
「職人だよねぇ~」
と思った。



★讀賣報知を初めて讀んだ・見た❸

2014年09月24日 | 新聞


ついつい最近(1990年代前半)まで、鉛活字と凸版、インクを使って活版で組んでいた「新聞」。
僕たち新聞社整理部から見た、活版鉛活字組み版から第1期CTS(コンピューター組み版・編集)までを後世に書き遺しておこうかな、と。


【きのう9月23日付の続きです。
お断り=当時の政治情勢や世情などは考慮せず、ただ単に
「昭和初期の、鉛活字組み活版新聞紙面はどーなっていたのだ?」
に注目しました。
紙面は「激動の昭和史を読む/太平洋戦争の記憶」(アシェット・コレクションズ・ジャパン発行)の毎号コレクションズから。
というわけで、復刻新聞紙面に驚いたぁ~シリーズ第16回】


【 讀賣報知新聞・昭和二十年二月十八日付篇③ 】
● ベタ活字の途中から倍半を組むのはタイヘンなのだ。
讀賣報知だけでなく、朝日、東京日日などで見られた、ベタ活字(*1)の途中から、倍半(1.5倍)活字を組み込む手法(写真)は、当時の流行りだったのだろうか。

【いま】
コンピューター組み版CTSでは、超簡単だ。
T(テキスト)データの、12U(=倍半)にしたいところに、
「1.5M」あるいは「1.5G」
ファンクションを入れれば変換される(→指示エンドで基本文字サイズに戻すことを忘れないでね。僕は忘れてしまい、何回もとんでもない行数になってしまいました、笑)。

【ちょっと昔】
鉛活字を使っていた活版では、下記のように組んでいた。
さすがに、降版時間に余裕がないときは製作局からクレームが来るので倍半変換指定はしなかったけど、
わりと時間のあるときは短い行数(*2)で〝途中から倍半〟変換指定をした。

僕たち整理部がモニターに〝1.5G〟と赤サインペンで指定。指定モニターは製作局に流れる。

流れてきたモニターを見た製作局文選デスクは
「チッ、またアイツだなぁ。こんな手数のかかることやるのは……」
とタメ息をつくが、鋳植の大きな音で上階の僕には聞こえません(笑)。

整理発モニターを片手に、倍半活字棚から文字を拾い、モニターとゲラを植字工員に渡す。
「おい、コレまたアイツ(←僕のことらしい)だよ。悪いけど差し替えてよ。
1度、整理デスクに言わなきゃなんねーな。
新人整理のくせに(←僕のことらしい)、忙しいときに手数のかかるコトやるなって。なぁ!」
とブチブチ言ったが、鋳植の音で上階の僕には聞こえません(笑)。

ゲラを整える植字工員は、モニターを見ながら………

……長くなったので、続く。

(*1)ベタ活字
新聞社製作によって、あるいは人によって、意味合いが異なることがある。
15字組み時代の〝1倍88活字〟を指す人(←だいたい年配層ですね)と、
自紙記事で組んでいる〝基本文字〟を指す人がいるので、ちょっとだけ要注意。

(*2)時間のあるときは短い行数
コンピューター組み版CTSならともかく、人力で鉛活字を差し替える活版では、やはり気くばりが大事だと思う(笑)。
数十行も差し替え指定しては、活字さし間違いやコボシなどの事故のもと。
だから僕は、倍半変換指定は5行ぐらいにしておいた。
1段15倍組み時代なら、
5行=倍半10字 × 5=50字
だから大したことない?

★讀賣報知を初めて讀んだ・見た❷

2014年09月23日 | 新聞


つい最近(1990年代前半)まで、鉛活字と凸版、インクを使って活版で組んでいた「新聞」。
僕たち新聞社整理部から見た、活版鉛活字組み版から第1期CTS(コンピューター組み版・編集)までを後世に書き遺しておこうかな、と。


【きのう9月22日付の続きです。
お断り=当時の政治情勢や世情などは考慮せず、ただ単に
「昭和初期の、鉛活字組み活版新聞紙面はどーなっていたのだ?」
に注目しました。
紙面は「激動の昭和史を読む/太平洋戦争の記憶」(アシェット・コレクションズ・ジャパン発行)の毎号コレクションズから。
というわけで、復刻新聞紙面に驚いたぁ~シリーズ第15回】


【 讀賣報知新聞・昭和二十年二月十八日付篇② 】=写真
● 「反転」のよーな〝大本榮發表〟
リード(前文)の初めに、白抜き地紋
「大本榮發表」
がカブセてある。当時としては、かなり画期的ではないだろーか(→たぶん)。
いまのコンピューター組み版CTSでいうなら
「シロクロ逆版」「反転」
に当たる。
《入力は→2G/ファンクション白黒S(スタート)大本榮發表/ファンクション白黒E(指示エンド)/12U・十二U……》

この白抜き地紋は金属製の凸版。
カブセ7字分をクワタ(*1)にして金属製凸を上から乗せたのか、
かなり使用頻度が高そうだから、台ツキ(*2)にしたのかもしれない。
この白抜き凸カブセ方式を考えた(当時の)整理部員のかたは頭いいですねぇ(←大・大先輩に失礼な言い方だぞ⁈)。

● ベタ活字組みの途中から倍半が入るのは、流行りだったのだろーか⁈
讀賣報知だけでなく、昭和初期の朝日、夕刊國民、毎日(東京日日)など全紙で見られた
「ベタ活字組み途中から、倍半(1.5倍)組み」。

僕も鉛活字組みの頃、特集面や前組み面などでやってみたことがあった。
〝効果〟〝インパクト〟は確かにあるし、読みやすいのだけど、手間がかかるので途中で飽きちゃった(笑)。
CTSならとても簡単なんだけど、コレを活版でやると…………
長くなったので、続く。

(*1)クワタ
元巨人の桑田氏………とは全く関係なく、鉛活字でつくる〝アキ〟のこと。
1字分アキを全角クワタ、
半分アキを二分クワタ、
三分アキを〝ワリ〟
と呼んでいた。
なぜクワタというのか、整理部先輩や製作局大組み者に尋ねたことがあったけど………忘れちゃいました(笑)。

(*2)台ツキ
金属製凸版の場合、1回だけ使用するときと、図版カットなど何回も使うことがある。
この「大本榮發表」は毎日使うであろーから、たぶん凸の下に台(アシとも)
を付けていたのではないだろうか。
製版部から
「整理さん、同じ凸を何回も何個も使うんだったら、台ツキにしてよ。毎回つくんの面倒だしぃ」
と整理部に要請があったはず。
整理部は凸個数を書いた「台ツキ製版・製作依頼伝票」を製版部に出していた(→新聞社によって違いますけど)。

★讀賣報知を初めて讀んだ・見た❶

2014年09月22日 | 新聞


つい最近(1990年代前半)まで、鉛活字と凸版、インクを使って活版で組んでいた「新聞」。
僕たち新聞社整理部から見た、活版鉛活字組み版から第1期CTS(コンピューター組み版・編集)までを後世に書き遺しておこうかな、と。



【9月16日付の続きです。
お断り=当時の政治情勢や世情などは考慮せず、ただ単に
「昭和初期の、鉛活字組み活版新聞紙面はどーなっていたのだ?」
に注目しました。
紙面は「激動の昭和史を読む/太平洋戦争の記憶」(アシェット・コレクションズ・ジャパン発行)の毎号コレクションズから。
というわけで、復刻新聞紙面に驚いたぁ~シリーズ第14回】


【 讀賣報知新聞・昭和二十年二月十八日付篇① 】
● 何回数えても1ページ16段編成なのだ。
以前、整理部大・大先輩に
「戦前は13段組みの、少し天地が小さい新聞もあったのだよ」
と聞いたが、この「讀賣報知」は何回数えても16段編成なのだ。
うーむ………どうして?なのだ。

讀賣報知(よみうりほうち)=1943年8月5日、新聞統制により讀賣新聞社が報知新聞社を吸収合併して「讀賣報知」に改題して誕生。
同紙の編集・発行は讀賣新聞社が手掛けた。

● 1段15字組みなので、どこで大きくなっているのだろう?
やや偏平体の、現在の1倍フォント(*1)に近い鉛活字が15本入っている。でも、15倍ではないのだろーか。
僕は当初
「1段14字組みで、1段分稼いで16段にしたのだろうか」
なんて安直に思ったが、どーも違うみたいだし。
現在の倍半(*2)活字が10本入っているので、やはり1段15倍なのだろーか。
…………16段編成のナゾ、分かりません(復刻版なので印刷サイズを修正してあるのかも、と考えたけど、どーも違うみたいだし)。

● 横組み活字見出しも〝右→左読み〟なのだね←当たり前か(笑)
最上段の凸版地紋見出し
「退撃敵の寇來島黄硫」
は〝右→左読み〟は分かるとして、横組み活字見出し
「へ戰血出大を力全」
「る到秋の軍進總億一」(←この場合の〝秋〟は〝とき〟と読むのかしらん)
も同じであった(初め何が何だか分からなかった、笑)。
当時の文選工員は、整理部出稿見出し伝票(*3)を逆から拾って植字したのだろうか。
うーむ。
………長くなったので、「讀賣報知」編つづく。

(*1)現在の1倍フォント
新聞社によって呼び方は異なるが、現在も人事面・欄などに使われている小さな文字。
天地88ミルス、左右110ミルス。この88ミルスが「1倍」で、新聞編集の基本サイズだった(コンピューター組み版CTSでは11ミルスを1U=ユニットとしているから、88ミルス=8U)。

(*2)倍半=ばいはん
1倍88ミルスの1.5倍サイズ。偏平ではなく、天地132ミルス・左右132ミルスの正体(せいたい)文字。
CTSでは12U。

(*3)整理部出稿見出し伝票
信じられないかもしれないけど、鉛活字組み活版時代、ほとんどの新聞社は、わら半紙が〝出稿伝票〟だった(←もちろん、きちんとした伝票用紙をお作りになった社もあると思うけど)。
B5判の半分に、
版数・面数・段数・見出し・文字サイズ(何倍の明朝体かゴチック体か)
をグニャグニャ書き込めば、ちゃんと文選課が拾って植字で見出し体裁になっていたから、今から思うと
「超すげえ~」
なのだ。

★アノ人を見たのだ=初秋の京都・番外編③止

2014年09月20日 | 新聞


【きのう9月19日付の続きです。
写真は、本文と関係ありません。
送り火から1カ月、左上に見える東山・大文字山には今もうっすらと〝大〟が見えた】

祇園の愛人(←1度ぐらい言ってみたかっただけ)と京都駅で別れ、新幹線で東京駅に戻った。
JR線に乗り換えようとして自動改札口に向かったら、目の前を〝黒い、あやしいおじさん〟が横切った。
ん? あの日焼けして苦み走った顔で、太い腕を見せつけるかのよーなTシャツ&ジーンズ姿の長身の、ずんがずんが歩いていく人は………。

旅する作家・椎名誠さん(70)だった。
お声をかけようかと思ったけど、
「いま急いでいるのだ!
17番線ホームは、どっちなのだ!」
と、哀愁の低い声で言われそーでやめた。
それにしても、バッグ一つ&Tシャツ&ジーンズ姿とは。
地球どこでも不思議旅作家なのだった。

以前、雑文で
「新幹線のホットコーヒーは、なかなか美味いのだ。むはははは」
と書いていらしたから、きっとグリーン車で原稿を書きながら飲まれるに違いない、と東京駅でわしも考えたのだ。

★哲学の道の紅葉は……=初秋の京都編②

2014年09月19日 | 新聞/小説


「8月16日の送り火さんが終わると、京の夏は終わり。秋が来るのおすえ」
と祇園の愛人(←1度言ってみたかっただけどすえ)が言っていた。
だから、秋。
やや汗ばむものの、ときおり銀閣寺から吹く風が心地いい。愛人と(笑)若王子神社から哲学の道を歩いた=写真

どっこい!
秋が来る………どころか、ミーンミーン蝉しぐれ。
色づく木々………どころか、葉は青々してるじゃん。

近所の方々が清掃され、丹精こめた花々や木々に囲まれた哲学の道。
途中すれ違った27人中、欧米の方々が16人だった。
どの方もガイドブック代わりなのかiPhoneやiPadを持っているけど、
「iOS 8.0にアップデートしました?
今度の、余計なのが多くて使いにくくないですかぁ?」
とは聞けなかった。