ついつい最近(1990年代前半)まで、鉛活字と凸版(とっぱん)、黒インクを使って活版で組みあげていた新聞。
僕たち新聞社整理部から見た、活版鉛活字組み版から第1期CTS(コンピューター組み版・編集)までを後世に書き遺しておこうかな、と。
*
お断り=紙面は「激動の昭和史を読む/太平洋戦争の記憶」(アシェット・コレクションズ・ジャパン発行)の毎号コレクションズから。当時の社会情勢や政情などには言及せず、ただ単に
「60年以上前の、昭和初期の鉛活字組み活版新聞紙面はどーなっていたのだ?アーン?」
に注目しました。
「倍」「凸版」など新聞製作で使う用語は、繰り返し(クドイかもしれないけど )注釈をつけました。
というわけで、昭和の復刻版新聞紙面を見た!読んだ!うなった!第58回。
◉昭和12(1937)年7月9日付(8日発行)復刻版「國民新聞」夕刊=写真
初めて目にした「國民新聞」。
日の丸の下にある題字下を見ると、
「定價一ケ月 金九十錢」
「東京市京橋區(以下、判読不能)株式会社・國民新聞社」
「編集印刷發行人・楓井金之助」
(「祖父が國民新聞にいたんだ」と知り合いのかたに聞いたことがあるけど、この発行人なのかしらん)
芦溝橋事件を報じる78年前の紙面。
1ページ全13段組み。
現在の12段組み新聞の1段より少し小さいのだけど、「13段組み」紙面があったことには驚いた。
1段(1行)15字詰めで、扁平文字ではないようだ。
現在の倍数(*1)活字とは違うスケールをつかっていたのだろうか。基本行間は不明。
見出しが乱立する、熱気あふれる紙面構成。
目に飛び込んできたのは、トップ横凸版地紋見出しのスゴさ。
「戰激大支日で外郊平北」
(→北平郊外で日支大激戰)天地17倍・左右94倍
バックに花柄スクリーン地紋らしきものが敷かれ、太M体(明朝体)黒字が躍っている。
さらに、筆で描いたような黒線が上下に引いてあるが…………強調の意味なんだろうか。
当時、当たり前の手法だったのかなぁ。
さらにのさらに、
左カタ写真に凸版を切り込んでいる。
当時は、写真も地紋見出しも金属製だったから、ギーコギーコ切る(*2)のが大変だったと思う(けど、無理して切り込まなくてもよかったよーな気がしないわけでもない、笑)。
(*1)倍数
「倍」は新聞編集・製作でつかう単位。
CTS(コンピューター組み版・編集)移行後の現在でもつかっているが、U(ユー・ユニットの略)という単位に変わりつつある。
1倍=88ミルス=全角=8U(11ミルスを1Uと換算)
Uは文字・見出しサイズ、写真サイズのほか、行間設定でもつかう。
(*2)ギーコギーコ切る
僕は活版組み版時代に(面倒くさいし、手を切るおそれがあったので)凸切り込みはやらなかった。
整理部ド新人のころ、降版直前に先輩整理が糸ノコを持ち出して、写真板や凸版に印をつけてギーコギーコ切っているのを見て、
「うわっ、こりゃ大変!(おまけに、労多くしてナンとやらだし……… ←こらっ)」
と手を出さなかった(笑)。
なぜ、時間が厳しい降版時間直前にギーコギーコするのか?
組み上がった段階で、ようやくP台や凸台の正確なサイズが決まるから。
その後、CTS移行の一時期、ただカッターで印画紙(写真・地紋見出し)を切るだけになった。
こりゃ、ラクじゃん……と、僕は初期の切り貼りCTSが好きだった(けっこうズボラな組み方でも何とかなったし)。