降版時間だ!原稿を早goo!

新聞編集者の、見た、行った、聞いた。
「降版時間」は新聞社整理部の一番イヤな言葉。

★新聞を鉛活字&活版で組んでいた頃(35)

2013年10月31日 | 新聞

【10月30日付の続きです。
写真は、本文と直接関係ありません 】

つい最近まで、新聞は鉛活字・活版で組んでいたのだよ────後世に書き遺しておこうかな、の第35回。
番外編の、これまた番外編として
「1990年ごろまで、なんと!なんと!手拾い文選で新聞を作っていた新聞印刷会社もあったのだよ=完結編(全3回)」
を書いておきます。


▼夜10時ぐらいまで、文選職人は活字を拾いに拾いまくった。

東京・新橋のS印刷工業【注・下段】
夜10時、蛍光灯が明るい2階の文選・植字課では、8人の職人たちがカキゲン(手書きされた原稿)を片手に、
活字棚から活字を拾いまくっていた。
「ふぅ~、今日はこのぐらいで止めようか」
文選課長が言うと、職人の方たちは手拾いした活字の入った「木箱」と、カキゲンをまとめてゲラ刷り棚にしまった。
「さーて、新橋駅前の焼き豚まこちゃんで、ちょっと飲んでいこーかい」

▼ 1.5日でカキゲン手拾い完了────

残りは翌朝から、また手拾い作業に入り、翌金曜夜までに入稿された分を100%活字化するのだ。
僕が副業バイトしていた政党機関紙の工程は下記の通り。
オール手拾いだから、これぐらいは日数が必要だったのだろう。
▽ 木曜日午後=党本部からカキゲン80%入稿
▽ 金曜日=カキゲン残り20%もすべて拾い上げて、小ゲラ刷り。
定型ものは組み版課に回り、小組みされてゲラ刷り。
▽ 土曜日午前=僕ら整理、校閲スタッフらが校正室にどやどや集まり、レイアウトや校正の編集作業開始
同午後=決まりものページ読者の声欄や、コラムページは大組みスタート
▽ 日曜日=工場全休
▽ 月曜日午前=校閲の小ゲラ赤字を反映させながら、僕ら整理が8ページ組み上げる。
同午後2時=党本部での紙面チェックのため、全8ページを大量に大ゲラ刷りしてS印刷工業工程部が搬送。
同午後4時=僕たちバイト整理は、それぞれの新聞社へ「本業」仕事に向かう( だはははははははははははは )。
たまたま休みの整理は
「A新聞のBさん、ちょっと新橋駅ビル地下で軽くどーすか」
「おー、いいすね。Cさんとこはアケ休みが多くていいね。んじゃ、お先に失礼しまーす」(→駆け出し整理だった僕もよく誘われて、あの新橋駅ビル地下居酒屋で、レイアウトや紙面構成などいい勉強させていただいた)
同夕方=党本部での「直し」を入れて仮校了(←このあたりまで校閲デスクや整理デスクが残っていた)

【S印刷工業=えすいんさつこうぎょう】
徳間書店グループは当時、新橋ヤクルト本社隣にも日刊新聞社「Tタイ印刷」をもっていた( だから、S印刷工業で使う鉛活字は、一部がTタイ印刷工場で鋳植したものだった )。
90年代、この徳間系列2印刷社が統合、徳間事業団関連会社として別法人化し、
東京・江東区に最新鋭のCTS編集&オフセット印刷工場「徳間プレスセンター」を稼動させた。
その後2001年、まったく違う業種の企業に売却され、社名変更。
現在は読売新聞ほか他新聞の資本参加を受け、従来の賃刷りのほか、日刊紙サテライト印刷工場になっている。


(^○^)

★新聞を鉛活字&活版で組んでいた頃(34)

2013年10月30日 | 新聞

【10月28日付の続きです。
写真は、岩波写眞文庫復刻版『本の話』から】

つい最近まで、新聞は鉛活字・活版で組んでいたのだよ────後世に書き遺しておこうかな、の第34回。
番外編の、これまた番外編として
「1990年ごろまで、なんと!なんと!手拾い文選で新聞を作っていた新聞印刷会社もあったのだよ=中編(全3回)」
を書いておきます。


▼ 東京・新橋の徳間書店系列S印刷工業は、活字オール手拾いだったのだ。

毎週木曜日午後、国会近くの政党本部広報室で、党機関紙「書き原稿」(寄稿者・記者の手書き原稿。以下、カキゲン)8ページ分近くを受け取ったS印刷工業工程部の人は、急ぎ同社に戻った。
3階工程部で仕分けし、膨大な量のカキゲンを分割し「ノンブル」を振っていた【注・下段】

▼ 同社2階では大ベテラン文選職人8人が待ち構えていた。

ここからが、スゴイのだ!
日本の活版印刷を支えた職人技を、僕はミタ!
20字詰め、あるいは15字詰めカキゲンを受け取った文選職人の方たちは、拾った鉛活字を入れる「木箱」と「55インテル」を片手に=上写真の右下、
一瞬パッと原稿を読み込み、千手観音のごとく手を上下左右自在に活字棚に走らせた=上写真の右上
1字目に「クワタ」【注・下段】を掴み、残り14字をパパパパパパパパパパパパパパと拾い上げ、サッとインテルを挟み、また15字を拾い上げ、インテルを挟み................
この神技的作業を、数人がそれぞれの鉛活字棚で展開していた!
速い速い速い速い速い速い、きっとリニア中央新幹線より速い(←言い過ぎ)────。

ちなみに、当時の新聞社は下記のシステムで新聞を編集していた。
▽朝日新聞社=初期のキャッチフレーズ「光と電子の新聞編集」CTSネルソンシステム(1980年9月始動)
▽僕の新聞社=漢テレ経由の鉛活字自動鋳植・活版組み
まぁ、差はあるけど(笑)ほとんど自動化・機械化されていたのだ。

────長くなったので「完結編(全3回)」に続く。

【カキゲンを分割し、ノンブルを振っていた=かきげんをぶんかつし、のんぶるをふっていた】
1 )20字詰め、あるいは15字詰め原稿を3分割ぐらいにして
2 )それぞれの1枚目に「宮澤3の1」「宮澤3の2」「宮澤3の3止」と朱色筆で大書(→これが現在の仮見出しに当たるかな)
3 )原稿を受け取った文選職人はまず「宮澤3の1」と拾ってから、本文を拾っていた。

【クワタ=くわた】
PL学園から巨人に入団した桑田氏────とは全く関係なく、「1字アキ」に用いた活字。改行アキ。
初期CTSでも、1字アキ部分に小さく「クワタ」と印字されていたこともあった。




(≧∇≦)

★痛い訂正!訂正!訂正!訂正!訂正!痛い!

2013年10月29日 | 新聞

【10月26日付の続きのよーな感じです。
重ねて書きますが、他意は全くありません。また、写真は本文と関係ありません 】


10月、驚異のハイペースの「訂正」連発ではないだろうか────とある新聞。

▽訂正=4日朝刊の「遷宮参列 首相止まらず」の記事で、「浜田雄幸」とあるのは「浜口雄幸」の誤りでした。
→これは、整理部が気づいたという。他部に指摘されるのは、かなり痛い。

▽訂正=5日26面「踏切救助女性に紅綬褒章」で「日本人カメラマンを救助しようとして死亡した韓国人留学生」とあるのは「男性を救助しようとして死亡した日本人カメラマンと韓国人留学生」でした。
→誰が・どうしたがメチャクチャなのですね........。

▽訂正=12日30面「最も暑い10月下旬」の見出しは「10月上旬」の誤りでした。
→整理部・校閲部の確認ミス。

▽訂正=16日の「大会理念に共感広がる」の記事で、「全国障害者スポーツ協会」とあるのは「日本障害者スポーツ協会」の誤りでした。
→固有名詞は、送稿時に確認しましょう。「協会」もミスしやすいです。

▽訂正=18日「南京市長、汚職疑い」の記事で、「李建業市長」とあるのは「季建業市長」の誤りでした。
→前日までの新聞を読んでいれば、未然に防げたミス。自紙をよく読みましょう。

▽訂正=25日朝刊21面「ドラフト会議1位指名の流れ」の表で、楽天の球団名が抜け落ちていました。
→優勝球団をなぜか落としてしまった。「抜け落ちていました」はいいけど、正表は再掲載しないのかしらん?

知人に聞いたら、
「実は大きな声では言えないのですが、早版でも『訂正』を掲載していますから【注・下段】、何回出しているのか分からないのです........」
ひえっ、編集でも分からないくらい訂正を出しているの!

上の「訂正」の書き方フォーマットがバラバラなのも気になるけど、
確かに(僕の「訂正」経験上→)あまり続くと、
「うーむ、これ以上『訂正』を出してはならない。
じっくり読まなくてはならない信用してはならない再確認しなくてはならない再チェックしなくてはならない」
の「しなくてはならない」地獄スパイラルに入って編集局全体が変に萎縮してしまい、さらに訂正を重ねてしまうこともあるのだ(←繰り返します、僕の経験上です)。
僕も、訂正の「訂正」を出したこともあって、かなりヘコんだし。
ドンマイドンマイドンマイ、としか言えません。

【早版でも『訂正』=はやばんでもていせい】
以前にも書いたけど、間違いのあったA記事を、例えば
10版=掲載した
11版=外した
11版S=掲載した
12版=外した
という場合(→編集・校閲は、各版ゲラなど1週間分は保存してある)
10版=「訂正」掲載
11版=「訂正」外す
11版S=「訂正」掲載
12版=「訂正」外す
と、かなり面倒くさい出し入れを紙面左下でしなくてはならないのだ。



(・ω・)ノ

★新聞を鉛活字&活版で組んでいた頃(33)

2013年10月28日 | 新聞

【10月25日付の続きです。写真は本文と関係ありません】

つい最近まで、新聞は鉛活字・活版で組んでいたのだよ────後世に書き遺しておこうかな、の第33回。
番外編の、番外編として
「1990年ごろまで、なんと!なんと!手拾い文選で新聞を作っていた新聞印刷会社もあったのだよ=上編(全3回)」
を書いておきます。


1980年代後半、僕が副業として編集・整理のバイトをしていた(←今でこそ言えるけど)ある政党機関紙【注・下段】の編集&印刷は、読売新聞をパージされた徳間康快さんがつくった新聞印刷会社で行っていた。
東京・港区新橋のS印刷工業────。
道路を挟んだ隣には徳間書店ビル( 当時)、目の前には小学校グラウンドがあって、駅から歩いて数分だった。
ちなみに、作家の椎名誠さん(69)も近くの会社に通っていた、とエッセイに書いていた。

S印刷工業の人は当時
「この印刷社こそ、徳間発祥地なのだ。ウオッホ~ン」
と言っていたということはさておき。
▽S 印刷工業1階。
輪転機と発送部門。1階といっても輪転機を設営するぐらいだから、普通のビルの2階ぐらいの高さ。
( 新橋のど真ん中で、グオーングオーンと騒音を出していた印刷工場があったなんて信じられないけど )

▽ 同2階。
細い階段を上がって左側が、文選と植字・組み版部。
右側には、大組み台と紙型どりプレス機があった。

▽ 同3階。
工程部と、さまざまな業界紙(ほとんどが隔週紙か月1発行紙)の編集校正室。印刷部数に応じて、校正室の広さに差があった(シビアです)。
僕が副業バイトしていた新聞の校正室は
「当印刷社最大の校正部屋」(当時の工程部の人、談)【注・下段】
で、約8畳ぐらい(爆笑)。なぜか電話は使い放題だった(と思う)。

▽ 同4、5階は資材部屋だったような記憶があるので、省略。


僕が副業バイトしていた新聞(機関紙)は週刊で、基本8ページ建て。
毎週木曜日午後、党の整理デスク(大手紙整理部から来た人 )が手を入れた8ページ分の原稿を、国会の近くにあった党本部広報室までS印刷工業工程部の人が受け取りに行っていた。
地下鉄に乗ってですよ!
さらに、原稿といってもフロッピーでも入力パンチテープでもなく、
書き原稿ですよ! 人が書いた手書き原稿ですよ!だから、膨大ですよ!
────で、それら書き原稿を、新橋のS印刷工業に持ち帰り................長くなったので「中編(全3回)」に続く。

【政党機関紙=せいとうきかんし】
以前にも書いたけど、僕の新聞社の人だけでなく(なぜか)各新聞社整理部の人がいた。他社整理のデスクの人もいて、僕はいろいろ勉強させていただいた。
名付けて、新聞社整理部ドリームチーム!

【当印刷社最大の校正部屋=とういんさつしゃさいだいのこうせいへや】
たいした印刷部数でもないのに(→あ、ごめんなさい)なぜ厚遇されたのか。
一つは徳間康快さんからの指示もあったのだろうけど、政党機関紙には選挙ごとに「紙爆弾」を刷って刷って刷って刷りまくるというオマケがおいしかったのだ(と思う)。



(・ω・)ノ

★「訂正」明日は我が身なのだ。

2013年10月26日 | 新聞

【写真は、本分と直接関係ありません】
................あっと、訂正します。「本分」は「本文」の誤りでした。

新聞の紙面左下によくある「訂正」は、明日は我が身だから見ないようにしているのだけど、たまに見ちゃう。
「どうして、この字なのだ?」
と思うことがある。
入力文字変換は、どうなっているのだろう、と。

ある新聞の早版@運動面。
「訂正 『▽▽投手降版』は『降板』の誤りでした。」
「こうばん」と入力すれば、降板・交番・鋼板あたりが出てくるけど、「降版」はそう簡単には出てこないし、運動面なら尚更だと思うけど........。
これは、校閲面担【注・下段】の超・初歩的ミス。

例えば、上の写真
「浜田雄幸は『浜口雄幸』の誤りでした。」
のミス責任度数は、下記ぐらいではないか(足して100にはなりません)──────
▽出稿部=50%(人名・固有名詞は気をつけましょうね)
▽整理部=30%(モニターを読んだ段階で気づいたら直しましょうね)
▽校閲部=80%(ちと、言い訳できないレベルのミスですね)

────おっとぉ~、明日は我が身明日は我が身明日は我が身。

【面担=めんたん】
その紙面を担当する人。
校閲の場合、新聞社によって校正方法が異なるが、初校は校閲スタッフ全員で流れてきたゲラを「それっ~」って見て、降版時間前に面担があらためて小ゲラをチェックする社もある。
でも、僕は初校~大刷りゲラまで同じ人が見た方がいいと思う。
紙面の表記統一ができない場合があるから。
ただ、「運動面15段と経済面10段は、原稿量と密度が違うよなぁ」と文句を言いやがる........じゃなくて言う人もたま~にいやがる........じゃなくて、いる。



(・ω・)ノ

★新聞を鉛活字&活版で組んでいた頃(32)

2013年10月25日 | 新聞

【10月20日付の続きです。写真は本文と関係ありません。京都の紅葉色づきなう!です】

つい最近まで、新聞は鉛活字・活版で組んでいたのだよ────後世に書き遺しておこうかな、の第32回。
番外編として、
「2000年初頭、とある新聞社の製作局はこうして活版時代の幕を閉じた」
について、僕自身が忘れないうちに書いておきます、の Part 4。

▼ CTS(コンピューター編集・組み版)始動まで10カ月になった。だから、僕は「ある提案」をした────

製作局はCTS化をにらみ、様々な機器を入れ替えはじめた。
以前は休刊日ごと突貫工事的に端末を搬入していたのだけど、あと10カ月ともなると、かなり急ピッチ。
「ありゃ~、なんでたった1日であんなデカいのが入るのぉ?」
と思える巨大機器が出社時、突然設置されていてビックリしたことも。

────ということは、さておき。
CTS開発室、製作局、編集整理部を交えてのCTS会議で、僕(←一応、開発室委員なんです)は提案をしてみた。
「あの~、ちょっといいでしょうか。
間もなく30年以上にわたって新聞を作ってきた鉛活字と活版が、その役目を終えてしまうわけですが、
やはり今から『鉛活字よ、さようなら』メモリアル的なことを準備すべきではないでしょうか?」
CTS開発室長(副社長)「おおおっ、いーですね。で、具体的には?」
「いろいろ聞いたところでは、CTS先駆者の朝日新聞社では、実際に使用されていた鉛活字見出しを組んで『鉛活字よ、さようなら』という文鎮【 注・下段】を作って関係職員に配布したとか」
開発室長「おおおっ、いーですね。
でも、先日デカ見出し鋳植を停止してしまったので。間に合いますかね、製作さん?」
製作局長「実は、その話は私たちも聞いていたのですが、なにぶん機器撤退が早すぎまして........うーん、なんとか考えてみましょう」

▼「提案」は承認され、ホッ────

「ほかには、活版終了~CTS始動までの全社的な動きを記した『ドキュメント』冊子を作った社もあったそうです」
開発室長「おおおっ、いーですね。
それ、やりましょうよ。それぞれの部署の職員全員の実名出して記録しましょうよ。ねっ」

────というわけで、CTS開発室が冊子を作る予算を改めて計上、開発室スタッフが慌てて議事録や関係者の記憶を調べて記録していくことになった(←まあ、調べて書くのは得意なはずの業種だけど、開発室は理系が多かった、笑)
CTS開発室、製作局、製版・画像部、編集整理部などのほか、
組み版や印刷局など消えていく職場を軸に、役職名・実名でドキュメントを記録しておこう、ということになった。(続く)

【鉛活字で文鎮=なまりかつじでぶんちん】
4倍(32U)以上の活字見出しの場合、アシ(活字部分を支える金属製の柱)がなく、平べったい文字活字を拾い、インテルのような金属板を使って支えていた(→この工程、新聞社によって異なります)。
例えば、8倍活字を使って組み上げると、それなりの重さが出て文鎮状のものができた。
いま考えると、文選棚からデカ活字見出しを数十本チョロまかしておけば良かったなぁ、と思う私(笑)。


( ̄ー ̄)

★京都新聞だからこそ!=初秋編(3)

2013年10月24日 | 新聞

【 10月23日付の続きです 】
すべて、まるごと、ぜーんぶ京都ネタ(当たり前)────。
23日付の京都新聞(写真=即売130円)を見て
「わっ、オール地場ネタ。張り切っているなぁ」
と思った。

▽1面トップ「和食 無形文化遺産に」
▽同左カタ「福知山爆発/露店主『缶ふた開けた』」
▽右下・社告「京都新聞大賞」
▽ヘソ(中央)「闇夜 炎きらめく/鞍馬の火祭」
▽左下「京都市バス/6系統新設、深夜便も」

だから、整理部も張り切っている(のか、「もっと目立たせろっ」と言われたのか分からないけど=注・下段)。最近は見かけなくなった太ゴチック見出しなのだ。
「ユネスコ補助機関」
「12月登録へ勧告」

和食イコール京料理ではないと思うけど、京都の料理人らでつくるNPO法人「日本料理アカデミー」が提言し、政府が登録を提案したから「内定」が出たのだろう。
ちなみに、アカデミー理事長は、あの村田吉弘さん(61)だから万感でしょう。

【もっと目立たせろっ=もっとめだたせろっ】
整理部は明朝体で見出しをつくっても、早版を見た事業やら販売やら他局から
「もう、ちょっと........」
と、つまらない圧力がかかることがなきにしもあらず、なのです(→僕も事業局から何回かありました)。
面倒くさいから「じゃあ、太ゴチックにしましょうか」ということもなきにしもあらず、なのです。


(・ω・)ノ

★京の紅葉なう!=初秋編(2)

2013年10月23日 | 新聞

【10月22日付の続きです 】

京都の紅葉は、どうなのだ。
市内、鴨川、岡崎の琵琶湖疏水、丸太町あたりを、
京都の愛人........じゃなくて、知人と歩いた。

鴨川沿いのイロハモミジは上部がほんの少し色づいて木もあった=写真は御池大橋辺り。
四条→三条→御池→二条→出町柳と鴨川を北上するにつれ、木々の色づきが濃くなっているような気がする。
地元タクシーの運転手さんは、
「今年の発色は、どうなんでしょうかねぇ。いずれにしても、見ごろは11月下旬から12月第1週でしょうなぁ。
年ごとに遅くなり、師走に紅葉ですから慌ただしいですな」
と言っていた。
────お楽しみは、これからだ。


(・ω・)ノ

★「大阪毎日」は生きていた=京都初秋編(1)

2013年10月22日 | 新聞


京都に来た。
新幹線京都駅には一時期あまり見られなかった欧米の旅行者が多く、
「お・も・て・な・しの国へ、ようこそ」
と挨拶しようかな、と思ったが、逆に日本の印象が悪くなるおそれがありそうなのでやめたのどすえ(←ニセ京ことば)。

知人と、寺町のスマートコーヒー(京都・中京区)で待ち合わせ。雨が小降りになったので、近くの「1928ビル」に行った。
1928ビルは三条通りのランドマーク的建物で、元は大阪毎日新聞京都支局だった。
アールデコ調デザインの佇まいがいい。
ビルの窓やバルコニーには社章・星(☆)マークが残り、往時の「大毎」の面影を見ることができる=写真。
武田五一氏の設計。現代建築家の若林広幸さんが買い取り(現オーナー)複合施設として生き残ったのだ────感謝。

知り合いが、若き日この支局ビルで働いていた。
その人が新人支局記者として、耳に赤鉛筆をさし(←たぶん、ね)、白いワイシャツ姿で15字詰め原稿用紙【注・下段】を片手に(←たぶん、ね)、このビルをバタバタ走り回っている様子を想像したら、微笑ましくもあった。
ちなみに、同ビル地階は支局時代、食堂やシャワー室があった。

【15字詰め原稿用紙=15じづめげんこうようし】
昭和50年代、新聞社によって原稿用紙のサイズや体裁は多少異なるが、
▽10字詰め( B5判の半分サイズ)
▽15字詰め( B5判)
があった。いずれも、ファクス送信用に薄い青い罫線が引かれていたはず。



(・ω・)ノ

★新聞を鉛活字&活版で組んでいた頃(31)

2013年10月20日 | 新聞

【10月18日付の続きです。写真は本文と直接関係ありません 】

つい最近まで、新聞は鉛活字・活版で組んでいたのだよ────後世に書き遺しておこうかな、の第31回。
番外編として、
「2000年初頭、とある新聞社の製作局はこうして活版時代の幕を閉じた」
について、僕自身が忘れないうちに書いておきます、の Part3 。

▼ CTS(コンピューター編集・組み版)開始まで10カ月。製作局はてんやわんや、整理部はドタバタ────

始動10カ月前、3倍見出し活字以上の鋳植が停止、見出し製作は画像部のHCS(ヘッド・カット・システム)に移行した。
製作局は、次々組織変更を行い、大きくCTSグループと活版グループに分かれていった。

日々の新聞編集・製作は、30年以上にわたり新聞をつくって印刷してきた「活版組み版グループ」が行っているが、残り10カ月ほどで全工程がストップするのだ。
新聞製作にさほど関心のない人(→オフセットと活版の違いが分からない人なんか、編集にはけっこういるのです)でも、
「そうかぁ、いよいよ『鉛活字に、さようなら』なのかぁ........」
と感じる、ちょっとアンニュイなもの思いの秋です........と言いたいところだけど、
製作局からの「業務連絡・通達」が次々来て作業が変わるのでそれどころではないのでございました。

【 製作局=業務連絡・通達No.24 】
「CTS始動を控え、次の休刊日【注・下段】前日△日をもって、印刷局の紙型どり工程を停止、機器を入れ替えます。
今後は、下記の工程に変わります。
A )活字大組み後、校正用大刷りは大型コピー機で必要枚数をとる。
B )地紋や写真部分はスペース(凸台で空白)組みして活字部分の校了をする。
C )同組型の清刷りをとり、約3分乾燥後、写真(P)、地紋(J)などの印画紙を整理部立ち合い指示のもと、両面テープで張り込む。
D )整理部は校了紙コピーに『降版OK』と赤字大書し、製作デスクに渡す。
E )清刷りは印刷局員が各サテライトに送信指示をする」
──以上が、降版までの作業になります。これらは、CTS始動までの暫定作業です。
従来の紙型どりに比べ、約5分以上時間がかかりますので早め降版を徹底してください。
──製作局長・精作局太郎(←仮名です、笑)」

この工程改変が、僕たち整理部には大きかった。
ついに紙型どりもストップかぁ。印刷局も大変だなぁ(→実は、この間に人員配置転換などで組合はバタバタしていたのだけど、そこはムニャムニャということで)。

▼ だから、僕はCTS会議で「ある提案」をした────

以前にも書いたけど、僕たち整理部と毎日毎夜一緒に仕事をする鉛活字組み版スタッフ(←つまり、大組みの方たちですね)は、
すでに定年目前な人、他社からの活版経験者(バイト・契約)だけになっていた。
特に、降版時間遅れなどで何回か睨み合った(笑)こともあった製作局デスクの田島さん(←仮名ですから)は、
「俺は高卒で入社以来ずっと、この鉛活字・活版と歩いてきた。俺の定年と活版終了が重なったのは何かあるのだろう。
活字組み版の最後(←最期と書くべきか?)は、俺が看取る!」
と言っていた( 泣ける................僕は、この手の話にとても弱いのだ)。
ある日のCTS会議で、僕はある提案をぶつけてみた。(続く)

【 休刊日=きゅうかんび】
例えば、今月10月15日「休刊日」の場合。
普通は、宅配など朝刊を休む日( 15日)なんだけど、
編集局では「15日休刊日→15日は編集しなくていい・休みかぁ嬉しいなぁ」と認識している人が結構いて、会議などで何回も「14日夜が休みなんだからなっ」と確認しなくてはならないのだ(電子版グループ除く)。
ちなみに、現在はスポーツ新聞は特別版として休刊日ごと発行・発売しているけど、15年以上前は「3紙ごと交代発行」だった。
つまり、
▽日刊スポーツ、サンケイスポーツ、報知新聞
▽スポーツニッポン、デイリースポーツ、東京中日スポーツ(いずれも順不同)
で交互に発行していた。これは、たいして意味がないじゃん、と1年やって全紙発行になったけど。




(・ω・)ノ