降版時間だ!原稿を早goo!

新聞編集者の、見た、行った、聞いた。
「降版時間」は新聞社整理部の一番イヤな言葉。

★さらば、桃井課長。

2013年08月31日 | 新聞/小説


先日、近鉄京都駅ふたば書房の平積みで、僕を呼んでいる本があった。
大沢在昌さん(57)の『新宿鮫X/絆回廊』(光文社カッパノベルス、999円)=写真。
単行本の時は途中で読めなかったけど、10冊目の鮫を再読した。

▼2つの思い違いをさせた巧さ
22年間服役した大男(62)が、新宿東口で「刑事を殺(や)りたい。銃を欲しい」と、新宿署刑事・鮫島の情報屋に言ってきた。
謎の大男の調査をするうちに、ヤクを扱う暴力団と、「金石(じんし)」と呼ばれる残留三世犯罪集団が浮上した。
殺りたい刑事とは誰なのだ?
謎の大男の身元保証人となっている「わたし」とは誰なのだ?
........え~、まさかぁ!の謎が解けるのは、234ページ以降。
イッキ読み。僕は、違う人物を想定していた。

▼すべては263ページ以降のため
大沢ハードボイルド最高傑作『新宿鮫』シリーズは、最新の新宿情報を取り込んでいるので、都市情報小説とも読める(2年ぐらいのズレはあるけど)。
今作は、大震災があった2011年の新宿を舞台に、フーズ・ハニーの晶、警視庁公安、千葉県警、新宿署、天敵・香田元捜査官、桃井課長、内閣調査室、昔気質の暴力団らが絡み合う。

歌うことをやめようとした、晶。
警官を辞めようと決意した、鮫島。
ふたりを護ろうとした、桃井課長。
タイトル『絆』の理由が分かった、泣けた................さらば、桃井課長。敬礼。

ちなみに、1993年に「眠らない街/新宿鮫」(東映)として映画化されたが、
鮫島=真田広之さん(当時33歳)
は現在も適役として、
桃井課長(当時は室田日出男さん)は今なら、大杉漣さん(62)が適任だろうなぁと思うのであります。


(^○^)

★新聞を鉛活字で組んでいた頃(17)

2013年08月30日 | 新聞

【8月25日付の続きです。写真は本文と関係ありません。草間彌生さんバージョンの新宿スタジオ・アルタです】

新聞を活版・鉛活字で組んでいた頃を、後世のために書き遺しておこうかな──の第17回。


ときは、「平成」初め。
とある新聞社の整理部は、最終版の降版時間(25時10分=午前1時10分)へ、編集のピークだった。

▼ 24時30分。最終版降版時間まで40分────
整理部サブデスクがあれやこれや最も忙しい時間帯。
担当する紙面のチェック、新原稿、モニター出しのほかに、
翌日(既に日は変わっているのだけど)の整理部面担と広告段数予定に加え、
製作局大組みグループ、製版部、印刷局のほか、サテライト(衛星)印刷工場宛てに、整理部から各種「業務連絡」を流すのだ。
自社(製作局・製版部・印刷局)には先の全替え・一部替え・赤字処理など大雑把な版替え連絡でいいのだけど、
離れているサテライト印刷工場にはカラー(色刷り)連絡もしなくてはならない。

活版印刷当時【注・下段】でも、カラー印刷は行われていて(←当たり前)
▽題字含む1面&対抗最終面のラテ面はカラー通し(1面のカラー写真変更のときは「替え」)
▽中面X&対抗Y面もカラー通し、
▽広告A、B、C面は全通しだが、地域面の下5段広告は「替え」
など、綿密に連絡しないと大変なことになるのだ(事実、僕は大事故を起こしたけど........後日書きます)。

▼ 24時35分。最終版降版時間まで、35分────
先の版の出稿部デスク(←遅いサンと呼ばれたデスクですね)から、
僕と同じように処理能力が高い(←だはははははははははははは。言ってみただけぇ)と言われる早井デスクに代わっていた。
即応力があり、共同通信ほか他社にネットワークがある出稿部デスクだと、
整理部はかなり時間が助かるのだ。
よーし、最終版は楽勝だぁ~、かな?(続く)

【活版印刷=かっぱんいんさつ】
CTS編集で先行していた朝日新聞東京本社などは本社&郊外工場で全面オフセット印刷に移行していた。
1985年ごろから、僕の社も本社輪転は活版印刷、サテライト印刷工場は高速オフセット印刷という二本立てになっていた。
だから、印刷局は紙型とネガ撮り(サテライト向け送信)を同時に行っていた。
さらに、本社輪転はのちに軽量刷版印刷に代わり、全紙をサテライト工場で印刷するようになると、その役目を終えた。



(-_^)

★向田邦子さんに会いに行った。

2013年08月29日 | 新聞/小説


向田邦子さんが衝撃事故死されてから、33年──。
八重洲ブックセンター本店(東京・中央区)で開かれていた
「素顔の向田邦子/向田邦子33回忌展」
に行った=写真。

1981(昭和56)年8月、台湾旅行中に飛行機墜落事故死。同展開催中の22日は命日だった。
「どこで死ぬのも運命です」
と三女・和子さん宛てに生前、遺言メモらしきものを遺していたが、
直木賞を受賞された翌年の悲報だから、実に悔やまれる。佳人薄命。
ご存命なら84歳。
たぶん、エッセイ・小説で健筆をふるわれ、直木賞選考委員のほか各賞委員もされていただろう。

向田さん関係のイベントや展示会に行って、いつも驚くのだけど、向田さんは実に多くのプライベート写真を残していた。
鹿児島時代、東京・杉並区本天沼時代、実践女子大時代、映画記者時代、シナリオライター時代、そして直木賞受賞時代........。
「初めてのボーナスで買ったジャンセンの水着」姿では海岸の岩場でポーズをとられ、
昭和30年代の映画記者時代、バーのカウンターらしきところではWinstonの煙草を吸われている(←向田さん、愛煙家だったのですねぇ。お会いしたかったなぁ)。
いずれも撮影されていることを意識しているものだが、凛とした美しさと知性が感じられる。

ただ、会場で見た
「昭和37年、本天沼自宅の居間で」
と記された1枚だけが、珍しくボサボサ頭で真ん丸に太った姿なのだ。
高円寺(東京・杉並区)のN氏のもとに通われていたころだろうか。
ほかにイワキ眼鏡、執筆用鉛筆、万年筆パーカーなど愛用品のほか、出世作となった「銀座百点」自筆原稿も見られた。

和子さんと共同経営していた
「酒・惣菜の店ままや」(1978~1998年)
の開店20周年記念テレホンカードをいただいた(→繰り返します、あの時代でも貴重だったテレカですよ!)。
ことしさいりょうの日(わらい)、ぼくは宝ものにしま~す。
とてもうれしいいちにちだったです(←まるで小学生の夏休み課題作文)。


(^○^)

★今月も堂場瞬一さん凄いなぁ。

2013年08月28日 | 新聞/小説

読売新聞を退社したY野辺さん=堂場瞬一さん(50)、またまた新刊ラッシュではないか。
読売グループの中央公論新社から去る24日、分厚いのが2冊同時発売(写真)──買ってしまった。
▽『沈黙の檻』(中公文庫、840円)=2010年に単行本で発売。
▽『Sの継承』(中央公論新社、1995円)=書き下ろし。
これは書きも書いたりの572ページ。厚さ4.1cm。
▽『検証捜査』(集英社文庫、861円)=7月刊。文庫書き下ろし。

いずれも警察小説。
読売在社中も毎月新刊(文庫含む)を出すほど驚異の量産だったけど(→繰り返します、毎月新刊ですよ、毎月!)、
専業作家になっても、月刊小説誌に連載、来月発売の講談社文庫情報誌では、吉祥寺(東京・武蔵野市)を舞台にした新連載まで!
読売新聞、日刊ゲンダイなどにも連載をもっているし、刑事ものを軸とする作品は一冊一冊がそれなりに長いし(文庫で平均400ページ以上! 繰り返します、400ページですよ!)スピンオフを除き他の作品とダブリもないし、
圧巻の量産、凄い筆力なのだ。

ただ、堂場さんの作品は単行本で出すより初めから「文庫書き下ろし」にした方がいいのではないだろうか──ということは、さておき。
▽中央公論新社
▽PHP研究所
▽角川春樹事務所
▽文藝春秋
▽角川書店(KADOKAWA)
▽集英社
▽実業之日本社
▽講談社
▽小学館
▽徳間書店
▽幻冬舎
▽双葉社
▽朝日新聞出版
▽早川書房
▽東京創元社(順不同)
あと新潮社、光文社、岩波書店から出せば大手出版社制覇ではないか!
とにかく、スゲー量産でございます&読む方も大変でございます。



(≧∇≦)

★この訂正は誰の責任なのだ。

2013年08月27日 | 新聞

【写真は本文と関係ありません 】

とある新聞8月26日付2社(第2社会面)左下に掲載されていた「訂正」。
訂正記事と、元記事は下記のとおり。

【訂正記事・全文】
訂正=25日のテレビガイド「森山未來」の記事で、『淡路恵子』とあるのは『淡島千景』の誤りでした。

【元記事・一部引用】
「(前略)原作は織田作之助が1940(昭和15)年に発表した同名小説。森繁久彌と淡路恵子が共演した映画版(1955年)は名作としても知られている。(後略)」


僕自身の訂正掲載体験をかんがみて、勝手に「責任度数」を考えてみた。
▽出稿部=責任度数65%。
基礎データで書き間違えると、アウト。
だけど、この映画版は「名作」なので、校閲部はなぜ確認作業をしなかったのだ──と指摘される事例なり。

▽整理部=責任度数5%。
手を入れていない限りは、整理部に責任はないだろうと思われる事例ですな。

▽校閲部=責任度数40%(→必ずしも100%にはなりません)。
「名作」なので一応、奥にある事典や基礎用語を調べなくても、スマホ検索でもチェックはできたはず。
「なぜ、確認を怠ったのだ? あーん?」
と、いろいろなセクションから突かれやすい事例なり。


さらに、この記事が「別刷り日曜版」に掲載されていたことが、ちょっと問題。
もしかしたら、早い段階でこのミスには気づいていたのではないだろうか。

日曜版は部数が多いうえ販売店に先配送になるので(←新聞社によって違いますが)、
数日前に校了→印刷→配送が完了している。
印刷後にミスに気づいたら、
数百万部を刷り直さないといけない→こりゃ、大損失じゃん!
ということになり、
「んまあ、そこまでやる必要はなかろう。月曜日付で『訂正』出せばよかろう。でも、書く方も確認する方も、しっかりしなさい!」(新聞社上層部談)
となったこともあり得る。

さらに、テレビガイド記事なので、自社の文化芸能部出稿ではなく、
外注プロダクション扱いだったかもしれないし──。



(-_^)

★新聞を鉛活字で組んでいた頃(16)番外編

2013年08月25日 | 新聞

【8月22日付の続きです。写真は本文と関係ありません。
先の台湾旅行で見かけた台北駅構内のキオスク。現地セブンイレブンが営業していました】

新聞を活版・鉛活字で組んでいた頃を、後世のために書き遺しておこうかな──の第16回。

ときは、平成初め。
とある新聞社の整理部。
▼ 24時25分。最終版降版時間(25:10=午前1時10分)まで45分────
最終版編集に向け、モニターと赤鉛筆、倍尺(ばいじゃく=行数や倍数が分かる新聞社用物差し)が忙しく動く整理部。
差し替え原稿や赤字追加記事、写真部オススメ写真などは、すでに集まっている。
各紙面をチェックしていた整理メーンデスクから、それぞれ各面担に
「見出し再考! 付け直したら持って来い!」
「ハコ組み直し!」
「A記事に段見出しを立て、B記事をベタに!」
「写真トリミングがおかしいぞ。エトキ確認!」
次々「!」(←約物で、アマダレとかビックリマークとか言う)付き指示が飛んだ。

▼ 24時30分。最終版降版時間まで40分────
この時間帯、新聞社編集局には誰が残っているのか。
▽整理部・出稿部=翌日付新聞を作っている僕たちのほか、前出し企画もの編集をしている特集班も数人残っている。
▽校閲部=社員デスクらは必死に紙面ゲラを再校中。版替えをしない担当は帰宅していた。
▽出稿部記者=追い込みものを書く記者、電話取材中の記者、何やら話し込んでいる記者、チェックのため待機中の記者........十数人仕事中なり。
▽局長・局次長・編集長=ご在席なり。

▽庶務さん=整理部の原稿出しなど、社内を走り回ってくれるバイトくんたち。大学生や、今でいうフリーターくんがいた。

新聞社によって違いますが、この庶務さんについて書いておきます。
【 勤務とギャラ 】編集局に16人ほどがいて、朝刊番(夕方→深夜)夕刊番(午前→夕方)中継ぎ(お昼ごろ→夜)のローテーションを組んでいた。
僕の社では活版編集だった昭和終わりごろで、月手取り16万円以上&年2回ボーナスもあったというから(元バイトくん談)、けっこういいギャラだったかも。
各部からの原稿出稿と回収、大刷りゲラ各部配布、新聞整理(←レイアウトではなく文字通り回収・廃棄ですね)スクラップなどが主な仕事。
勤務が終われば、社のタクシーで帰宅していたが、不規則深夜勤なので20代後半フリーターが主、現役大学生は少なかったと思う。

【 休刊日旅行・忘年会費用も整理部が面倒みました 】平成初めごろまで休刊日ごとに「全舷(ぜんげん)」と称した整理部ご一行さま観光1泊旅行があり、
仕事をきちんとしていた庶務さんたちを、同旅行に連れていっていた。
また、整理部有志の忘年会や打ち上げ会にも無料招待&飲み放題、なぜかたまに女子大生もいたし(笑)。
──いまのコなら、絶対イヤがるでしょうね、休刊日旅行なんて。(続く)



(≧∇≦)

★新聞スタンドがまた消えていた。

2013年08月24日 | 新聞


東京・西新宿の大ガード交差点角、思い出横丁側の地下鉄出口横にあった、新聞販売スタンド店がなくなっていた=写真。
分厚い透明ビニールで覆われた、1.5メートル四方のスタンドだった。
僕の記憶では、平成初めごろから同じ場所で店を構えていたと思う。
一般紙、スポーツ紙、夕刊紙、競馬専門紙、週刊誌(怪しげ系雑誌も、笑)を、黒ぶちめがねのおじさんが一人で販売していた。

以前は繁華街の交差点などで多く見受けられた新聞販売スタンド、地権問題などあるのだろうけど、最近ほとんど見かけなくなった。
この西新宿スタンドでは夕刊紙B版や、一般紙夕刊が駅キオスクよりなぜか早く売られていたし、
文春などの週刊誌も前日発売が多くて、重宝していたのだけど........。

僕の通勤圏内では、渋谷マークシティ前のスタンドだけになってしまった。
僕「あれ? まだB版こないの?」
おじさん「うーん、なんかねぇ遅れているようです。すみませんねぇ」
コンビニで買わず、このスタンドで週刊文春、アエラを買うようにしようっと。


…>_<........

★きっと石破茂さんも読んでいる『人類資金』

2013年08月23日 | 新聞/小説

福井晴敏さんの書き下ろし最新刊『人類資金1・2』(講談社文庫=写真)を読んだ。
スゲー。軍事オタク&諜報大好き福井晴敏エンターテインメントの到達点! という感じ。

終戦の日、日銀地下金庫から消えた莫大な金塊は混乱と復興の名のもとに膨張し、「M資金」と囁かれるようになった。
それから70年を経て、金融詐欺師・真舟の前に「M」と名乗る男が現れた。
「閉塞と混迷の今だからこそ必要。M資金を盗み出してほしい。報酬は50億円。一緒に世界を救いませんか」
M資金に関係する組織に師を殺害された真舟は、地下に蠢いていた巨大組織と、知らず知らずのうちに対決するようになった........。

国防をテーマにした『亡国のイージス』、戦争を描き切った『終戦のローレライ』もすごかったけど、
最新作は、経済と革命をテーマにした、空前絶後の骨太ストーリー。福井さんでないと書けません(かな)。

映画原作として書き下ろされているが、
例えば、文庫『2』の、福井エンタメ真骨頂99ページ以降をどう実写で見せるのだ──以下、引用します。


いきなりバイクの前に飛び出してきた五十絡みの女性が、辛うじてブレーキをかけた400Rの鼻先で呆然と立ち尽くしていた。(中略)
脂肪を蓄えた体に野暮ったいパンツという出で立ちは、近所のおばちゃん以外の何者でもない。(中略)
怪我はないか、とかけるつもりの声を待たず、おばちゃんは不意に形相を変え、無言で400Rのハンドルに手をのばしてきた。(中略)
今度は鋭い蹴りがおばちゃんの足から繰り出された。なんだ、こいつは。(後略)


まるで戦闘マシンのように、殺意を持って真舟らを襲撃する御徒町のおばちゃん!
映画版では誰が演じるのだ? ハリセンボンでも面白いぞ(笑)。

講談社文庫のダブルカバーにも出ているけど、企画当初から
「主演・佐藤浩市しかいない!」
が、福井さん・阪本順治監督で決まっていたという(巨大組織に抗う、渋い40親父役なら、佐藤浩市さんしかいませんね、確かに)。
市ケ谷、桜田門がそれぞれ組織を挙げて真舟らを追跡する圧倒的スケールの『人類資金2』──とにかく早く『3』を読みたいし、早く映画を観たいのだ。
(この福井晴敏さん最新刊、きっと自民党・石破茂氏も読んでいると思う)。



^_^

★新聞を鉛活字で組んでいた頃(15)

2013年08月22日 | 新聞

【写真は本文と関係ありません。僕の好きな京都の建築物、中京郵便局です 】

8月21日付の続きです。
新聞を活版・鉛活字で組んでいた頃を、後世のために書き遺しておこうかな──の第15回。


ときは、平成初め。
とある新聞社の整理部。
▼ 24時28分。最終版降版時間(25:10)まで42分────
最終版をつくるため、僕をはじめ面担整理がB版大刷りゲラに
▽全アゲ→先の版で組んだ記事や凸台・写真台をすべて分解してアゲること。つまり、すべて組み替えること。
製作局の大組み担当者はハンコに水をかけながら、記事部分を棒ゲラに戻した。
▽部分アゲ→左カタなど紙面の一部を組み替えること。
▽赤字直し→見出しやエトキ、記事の修正をすること。
手直しなので、活字部分はアゲない。面担はいなくても、他の整理が確認作業を行うこともあった。
........と赤太ペンで書き、庶務さん(学生アルバイトくんたち)が製作局に下ろして【注・下段】いた。

▼ 24時30分。最終版降版時間まで40分────(番外編)
この時間帯になると、社内から人は少なくなっていた。
新聞社には自動車部があり、タクシー会社と契約して「自宅送り」「宅送り」と呼ばれる帰宅支援を行っていた(新聞社によって配車は違います)。
深夜で帰る電車がなくなった編集局&製作局社員のほか、新聞社近くで飲んでいた記者、社員食堂スタッフ、学生アルバイトくんたちを同乗させて、
深夜3時過ぎまで数回に分けてタクシーを出した。

例えば、東京・多摩方面なら調布・府中・小金井に自宅のある人たちを1台にまとめた(→だから、最後の小金井の人は毎晩、中央高速を使った深夜のドライブだった........笑)。
僕は宅送り(深夜ドライブ)で、政治部や経済部など異なるセクションの人たちと話すのが、いろいろ勉強になって楽しかった(その時の経済部の人が、先の衆院選である政党から出馬していたのにはビックリした)。
今では信じられないけど、当時のタクシーは車内喫煙OKで、喫煙者は冬でも窓を開けて吸っていた。
........おおらかな時代でございました。(続く)

【大刷りゲラを下ろす=おおずりゲラをおろす】
編集局整理部と製作局各部をつなぐエア・シューターという空気の圧力で原稿を入れた筒を運ぶ送受信管が、新聞社の天井部分に張り巡らされていた。
これは、活版編集時代どこの新聞社でも見られた。
このエア・シューターが、1960年代の朝日新聞東京本社をモデルにしたと思われる映画「マイ・バック・ページ」(川本三郎さん原作、山本敦弘監督=2011年公開)で登場していて、美術セットの細かさに唸った。



(≧∇≦)

★新聞を鉛活字で組んでいた頃(14)

2013年08月21日 | 新聞

【写真は本文と関係ありません。僕の好きな京都の建築物、威風堂々たる京都市役所です】

8月10日付の続きです。
新聞を活版・鉛活字で組んでいた頃を、後世のために書き遺しておこうかな──の第14回。

【前回までのあらすじ】
ときは、平成の初め。
とある新聞社の整理部、24時20分。
1960年代中ごろから朝日新聞東京本社、日本経済新聞社東京本社で着手されていたCTS(コンピューター・タイピング・システム=新聞コンピューター組み版&編集)計画は、
僕の社では設備投資計画の遅れから、従来の「活版・活字」編集と同時進行していた。
つまり、ホット(活版=注・下段)で日夜、新聞を作り発行すると同時に、
別フロアではコールド(CTS)の設営・始動準備も行われていた。
(僕はCTS開発室委員もやっていた。
でも今となれば、貴重な活版活字組み版編集をさせてくれた、社の設備計画遅れに感謝しているのである。だはははははははははははは)


▼ 24時20分。最終版降版時間まで、あと50分(←仮ですが、最終版降版時間を25時10分=午前1時10分にします)
僕たち整理部の英知と総力を結集して(←ただの小ずるい作戦、笑)なんとか降版遅れなく乗り切ったB版だったが、
最終版降版まで、60分を切っていた。

▼ 24時23分。最終版降版まで47分。
製作局から編集局に上がった僕たち整理は、製作局との一触即発的ドタバタB版編集に疲れ切っていた。
「ふぅ~」マイルドセブンに火を点けた僕【注・下段】、
原稿用紙で顔を拭いたり、バタバタ顔をあおぐ整理部員、
60円カップコーヒーを買いに行く整理部員がいるなか、帰宅支度を始めた早版担当の整理もいた。
「おい、△△ちゃん(←僕の名前)大変だったなぁ。あっちの出稿デスクの遅れだろ、あいつ遅いんだよな。
やられたら倍返しだなぁ、半沢直樹なら(←当時は放送してません!)
俺んとこは版を取らないから、あとは頼むなぁ」
と先輩整理のMさんはチェリーを吸いながら社内刷り紙面を見て言った。
最終版を作るのは、僕たち6人(6ページ)だけだぁ。おっと、早く組まないと........。
──長くなったので、続く。

【ホットとコールド=ほっととこーるど 】
以前にも書いたけど、新聞社によって少し説が違います。
▽ホット→鉛活字を鋳植する際、溶熱が出たから説。
▽コールド→コンピューターや組み版ディスプレー(LDT=レイアウト・ディスプレー・ターミナル)をクールダウンさせていたから説。
どっちも、とても分かりやすい(笑)。他社の整理部に聞いたら、また違うことを言っていた。

【マイルドセブン=まいるどせぶん】
当時、新聞社編集局で喫煙は当たり前だった。
くわえ煙草で電話、100円ライターと煙草を持ちながら編集会議など、局長・部長クラスでもよく見られた(←いい時代だったなぁ)。
整理部員の机には、それぞれアルミ製のペラペラ灰皿が置かれ、吸い殻で満杯になると、水が入った一斗缶にバイトくんたちが捨てに行ってくれた(←いい時代だったなぁ)。

関係ないけど、朝日新聞社時代の川本三郎さん(69)を描いた映画『マイ・バック・ページ』(山本敦弘監督、2011年公開)に、
白ペンキで「朝日編集」と筆書きされた、アルミ製ペラペラ灰皿が、乱雑な編集部に置かれていたシーンがあった。
「この映画、黒電話やエアシューターをはじめ、当時の新聞社の様子をよく取材しているなぁ」と思った。



(≧∇≦)