美学 6
2013-01-23 | 美術
ここで、ちょっと一休み
綺麗と美しいの違いを考えてみる。
人は、色が鮮やかなことを綺麗という傾向がある。
また、花が見事に咲くと人々は綺麗だなあと言う。
桜の花などは、花見と言ってみんなが綺麗だなあという。紅葉もそうである。
私も同じように言うことがあるが、やや疑問に思うこともある。
私の住んでいる本庄市児玉町は、小山川という川があり、そこには千本桜と言われる木が植わっている。
川の両側にズラッと桜の木である。それが春には一斉に花が咲く。当然だ。
それを人々は綺麗だなあと言って、集まり、桜祭りのような催しをやるらしい。
話題を呼び、人を集めるには良いことなのだろう。人集めのイベントだから、私が何かを言うことはないが、
本当は、おいおいと思っている。あれは美しくない。
あれを見ると、桜の花のラインである。帯と言ってもいい。実は絵にならない。
画家の眼で見ると、どうしても絵にならない。美しいと綺麗を混同している。
人は綺麗なものと美しい物とは同じだと思っているかもしれない。
しかし、私はみんなが綺麗だと言う物の中に、美しくないものがあることを言いたい。
それは、配置の問題である。いくら綺麗でも一面にあったら、見事ではあるが、美しいとは思わなくなる。
赤い壁の前に、赤い花があってもあまりきれいに見えないのと同じようなことだ。
多すぎると、綺麗さが減少する。
実は、絵の場合もそういうことがたくさんある。
同じものをたくさん並べたような絵を見た時、私は最近「これはAKB48だね」と言っている。
みんな同じで誰を見ていいのかわからないのだ。
やはり、主役脇役を組み立てるなら、主役は他の人と同じ服装をしていてはダメである。
まあ、AKB48の場合は、入れ替わり立ち替わりメインを取り替えて演じるからあのようにしているのかもしれない。
目的が違うのだからしょうがない部分があるが、絵の場合はあれではダメである。
リーダーがリーダーとして目立たなければならない。
あの集団と出会って話をする場合、誰と話したらいいのだろうと思ってしまう。
人気NO,1は、前田敦子か大島優子だと聞く。しかし、どの人がその子だか、見つけるのに苦労する。
リーダーは誰ですか?と尋ねなければならない。人間だから尋ねることができるが、絵の場合は答えてくれない。
口で言わなくても分かるようにしてほしいと思ったりする。
だから、その人(物)の美しさを見せるには、周りとの関係が大切だと思っている。
赤い花の美しさを見せるには、赤い壁の前に置いたのではダメだと言うことだ。
桜の美しさを見せたいなら、千本桜では配置的にダメである。
あの発想は誰が考えたのだろう。
ただ、多ければいい。たくさんあれば驚くだろう。とにかく目立つように特徴を持たせて話題を呼べばいいというもので、
品のないことを忘れていると私は思う。
白い箱の絵も、白い箱がたくさん並んでいたら、絵にするのは大変である。
ランプの絵も、同様である。同じランプが20個くらいあったら、メインにするのが大変だろう。
ゴッホのひまわりの絵も、10個くらいの花が全部こちらをむいて同じ大きさで迫ってきたら、ダメだろう。
一つ一つは綺麗でも、全体として見た時に、品がないと思ったら、それは美しくはないのである。
私は、美しいとは周りとの関係がとても重要だと考えている。
ーーーーーーーーーーーー
ただ、一言付け加えたいのは、オールオーバーの絵の場合がある。
私も若いころ、ポロックのような感覚の絵を描いていた。
現代絵画に置いて、主役脇役のない絵画がたくさん出て来ている。
あれは、目的が違うと思う。敢えて主役脇役を作らないことで見せる作品である。
目的が違って、その違う目的のために敢えてそうしたという意図が見えると
それならそれでいいということになる。
しかし、主役脇役が必要な絵なのにもかかわらず、それが見えてこないと
言いたいことがボケた絵になるのだと思う。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
つづく
綺麗と美しいの違いを考えてみる。
人は、色が鮮やかなことを綺麗という傾向がある。
また、花が見事に咲くと人々は綺麗だなあと言う。
桜の花などは、花見と言ってみんなが綺麗だなあという。紅葉もそうである。
私も同じように言うことがあるが、やや疑問に思うこともある。
私の住んでいる本庄市児玉町は、小山川という川があり、そこには千本桜と言われる木が植わっている。
川の両側にズラッと桜の木である。それが春には一斉に花が咲く。当然だ。
それを人々は綺麗だなあと言って、集まり、桜祭りのような催しをやるらしい。
話題を呼び、人を集めるには良いことなのだろう。人集めのイベントだから、私が何かを言うことはないが、
本当は、おいおいと思っている。あれは美しくない。
あれを見ると、桜の花のラインである。帯と言ってもいい。実は絵にならない。
画家の眼で見ると、どうしても絵にならない。美しいと綺麗を混同している。
人は綺麗なものと美しい物とは同じだと思っているかもしれない。
しかし、私はみんなが綺麗だと言う物の中に、美しくないものがあることを言いたい。
それは、配置の問題である。いくら綺麗でも一面にあったら、見事ではあるが、美しいとは思わなくなる。
赤い壁の前に、赤い花があってもあまりきれいに見えないのと同じようなことだ。
多すぎると、綺麗さが減少する。
実は、絵の場合もそういうことがたくさんある。
同じものをたくさん並べたような絵を見た時、私は最近「これはAKB48だね」と言っている。
みんな同じで誰を見ていいのかわからないのだ。
やはり、主役脇役を組み立てるなら、主役は他の人と同じ服装をしていてはダメである。
まあ、AKB48の場合は、入れ替わり立ち替わりメインを取り替えて演じるからあのようにしているのかもしれない。
目的が違うのだからしょうがない部分があるが、絵の場合はあれではダメである。
リーダーがリーダーとして目立たなければならない。
あの集団と出会って話をする場合、誰と話したらいいのだろうと思ってしまう。
人気NO,1は、前田敦子か大島優子だと聞く。しかし、どの人がその子だか、見つけるのに苦労する。
リーダーは誰ですか?と尋ねなければならない。人間だから尋ねることができるが、絵の場合は答えてくれない。
口で言わなくても分かるようにしてほしいと思ったりする。
だから、その人(物)の美しさを見せるには、周りとの関係が大切だと思っている。
赤い花の美しさを見せるには、赤い壁の前に置いたのではダメだと言うことだ。
桜の美しさを見せたいなら、千本桜では配置的にダメである。
あの発想は誰が考えたのだろう。
ただ、多ければいい。たくさんあれば驚くだろう。とにかく目立つように特徴を持たせて話題を呼べばいいというもので、
品のないことを忘れていると私は思う。
白い箱の絵も、白い箱がたくさん並んでいたら、絵にするのは大変である。
ランプの絵も、同様である。同じランプが20個くらいあったら、メインにするのが大変だろう。
ゴッホのひまわりの絵も、10個くらいの花が全部こちらをむいて同じ大きさで迫ってきたら、ダメだろう。
一つ一つは綺麗でも、全体として見た時に、品がないと思ったら、それは美しくはないのである。
私は、美しいとは周りとの関係がとても重要だと考えている。
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ただ、一言付け加えたいのは、オールオーバーの絵の場合がある。
私も若いころ、ポロックのような感覚の絵を描いていた。
現代絵画に置いて、主役脇役のない絵画がたくさん出て来ている。
あれは、目的が違うと思う。敢えて主役脇役を作らないことで見せる作品である。
目的が違って、その違う目的のために敢えてそうしたという意図が見えると
それならそれでいいということになる。
しかし、主役脇役が必要な絵なのにもかかわらず、それが見えてこないと
言いたいことがボケた絵になるのだと思う。
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つづく