絵画指導 菅野公夫のブログ

大好きな絵とともに生きてます

麓原会の歴史的存在意義

2013-01-07 | いろいろ
麓原会の存在意義

私は、以前ブログで麓原会について書いた。
その続きを書いてみようと思う。

麓原会は、初め古川先生を中心にして、4人の画家によって作られたと聞いた。
それは、古川弘、堀英治、山田鶴佐久、金井邦松というメンバーだった。
会の発足に当たっては、私の父(菅野鈾一)もいたらしい。創立会員という時、父も含まれるのはそのためだ。しかし、父はまだ絵を描き始めたばかりだったので、創立会員の一人というには、おこがましいと言って、遠慮している。

会の歴史について描きだすとかなり長い文になってしまうので、一つだけ歴史的意義という点に触れて置きたい。

それは、水彩画において革命をもたらしたという視点である。

実は、これは、麓原会が始めたことではなく、日本では古川先生の先輩である小堀進先生が古川先生たちと一緒に行なったと言うべきかもしれない。

その運動を古川先生は、自分の仲間である麓原会のメンバーに広め、それを見て憧れたその後の弟子たちが発展させて行った。
全国的に見れば、古川先生の他には、小堀進さん、柴田祐作さんが有名である。

水彩画の革命とは?

水彩画と言うと、一般には、軽くて遊び気分の絵という印象がある。
本格的に絵を描くには、油絵が主流で、水彩画はその下絵という位置づけである。
風景などでも、時間と共に直ぐに変わってしまうので、油絵でじっくり描くには間に合わない。しかし、水彩画なら素早く描ける。デッサンだけより色をつけて記録できるので便利だ。だから、現場では水彩で描いて、それを持ち帰ってアトリエで油絵を描くという具合に使われた。
だから、水彩画で展覧会に出そうという人は少なかった。
また、材質の点で、どう描いても油絵のような重みや強さが出ないと思われ、展覧会に出すと油絵に負けてしまうと思われていた。

それに対して、いや、そうではない。油絵に負けない水彩画が描けると主張したのが、先にあげた古川先生や小堀進先生であった。
そして、それを世の中に示した。

前回のブログで、お話したように、麓原会は水彩画の全国でも珍しい拠点になった。
それは、古川先生が水彩画の魅力を仲間に見せて、この本庄という地域で絵を描く人たちに広めたからに他ならない。




麓原会のメンバーは、ほとんどすべてのメンバーが、古川先生の弟子と言ってもいい。
先にあげた堀英治、山田鶴佐久のお二人は、仲間という感じで語られるが、そうは言っても古川先生に教えられた部分は大きいだろう。

児玉では、土曜会という会があり、土曜日の夜、古川先生の家に集まって、デッサンの勉強会が開かれていた。これは、約30年続いた。その弟子たちが、私の父と中兼久偉、持田泰の三人であり、私は勝手に児玉三羽ガラスと呼んでいる。
その土曜会には、たまに本庄の中村民夫さんが参加することもあり、遠く熊谷からも古沢正守さんが三羽ガラスに負けないくらい多くの回数参加していた。

私は、その位置づけから言えば、孫弟子にあたるのだろう。
私の父が古川先生の弟子で、そのまた弟子と言えば、そういうことになる。
ただ、私は高校時代直接古川先生に美術部で教えてもらった訳で、土曜会にも高校から大学にかけて参加していたので、直接の弟子でもある。(孫弟子であり、後に直接の弟子になったと言えばいいのか。)


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古川先生が亡くなったのは、私が大学の3年の時なので、私が本庄第一高校で美術部を作ったことは、全く知らない。しかし、私の作った美術部は、この古川先生がいなければありえないものである。

私の生徒たちが、油絵に負けない水彩画を描くのは、そのためである。

生徒たちが描く絵を見て、「これは、水彩画ですか?」と不思議な顔をして尋ねる人がいる。
「水彩画でこんなに描けるんですか?」とも言われる。
私は、極当然のように、「はい」と答える。

そのくらい、私の生徒たちが描く水彩画は、世間の人たちを驚かせる。その質問をされる方たちの中には、プロの画家の人もいる。
だから、私の大学時代の絵の先生が、「菅野は日本をリードするだろう」とおっしゃったと間接的に聞こえてきたが、それは、この水彩画の歴史的革命とも言えることについてではないかと思う。

ただ、それは、説明したように、小堀進先生と古川先生が始めた油絵に負けない水彩画を描くという運動の流れを受けての結果なのである。

水彩画でも油絵に負けない描き方ができるという実践を私の生徒たちがしてくれたのである。

本庄第一高校の生徒たちは、そんな歴史的な意義などは知らない。
私もほとんど分かっていなかった。私は古川先生だけでなく、麓原会の先生方が当たり前のように描いていた水彩画を生徒たちに教えただけである。

ただ、本庄第一高校の存在意義を言うならば、絵を始めたばかりの高校生たちがあれだけのレベルの水彩画を描いたという点で、前代未聞の珍現象だっただろうと思う。
そして、そのレベルとは、水彩連盟という東京のプロの画家の公募団体の展覧会に10人出品して、全員が入選してしまうというレベルであったのだから、半端ではない。

本庄には、このような水彩画に革命を起こした麓原会という絵の会がある。
これは、歴史的な意義のある革命である。これも本庄の魅力の一つとして多くの皆さんに知っていただきたいことだと思う。


コメント (4)
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