絵画指導 菅野公夫のブログ

大好きな絵とともに生きてます

KHさんの静物画のモデル組み

2013-01-20 | 絵画指導
KHさんが、県展制作のテーマが決まらず、苦心していました。
昨年は人物で入選を果たしたので、また今年も人物でいくのかと想像していましたが、
先日、尋ねた時、静物を描いてみたいと言うようなことを言っていて、ここなら車椅子で入ってもらえるかなと
いう話だったので、静物画を描く場所としてふさわしいかどうか見てくださいということらしいと思い、行ってみました。

初めて中へお邪魔しましたが、入ってみたら、半分はアトリエ、半分はカラオケルームでした。
ご主人がカラオケの師範ということで、すばらしいセットがありました。

KHさんは、以前は、外で材木などを描いていたのですが、一昨年は港の風景、昨年は人物がで、ご主人をモデルに描きました。
だから、風景と人物で県展に入選したことになります。大体、人物で入選するということは、静物は入選できる力があることを意味します。人物の背景や洋服などは静物を描く力ですから。

部屋に入ってみると、結構いろいろすばらしいものがありました。静物画を描くには、なかなかいろいろ揃っています。
しかし、メインを考えると、なかなかそれにふさわしいものが、どれにしたらいいのかと迷います。

あるものを主役にしたら、それ以上目立つ物を置く訳にはいきません。それによって、どんなに素敵なものでも使えなくなるということがおこります。

今日は、石膏像をメインに置いたらどうなるかということで、モデル組みをしてみました。

完成はこれです。



いろいろやりました。写真は36枚撮りました。
そして、最後にここにたどり着きました。
全てご紹介したら、このページが写真だらけになってしまいます。
一つ一つ、物を置いたり外したりの取り換えっこをたくさんしました。
ビンも前に置いたり、後ろに置いたり、今は、二本のビンのラベルが同じように見えるので、後で微調整が必要です。
石膏の中の明暗の差が少ない部分はやや強めに描くとか、周りの物も、目立ち過ぎるものはやや落とすなどの生かす殺すという作業が必要になってきます。

途中から、MNさんとESさんもやって来て、いろいろ話しながら検討しました。

石膏をメインにした構成です。いかがでしょうか。



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美学 1

2013-01-20 | 美術
美学ってなんだろう?
まあ、哲学の一つだろう。美術史と言えば、歴史学だから、美学と言えば「美とは何か?」ということになる。

私は画家の立場だから、美を考えて絵を描いているはずだ。しかし、それを言葉でしっかりと体系づけてはいない。
しかし、絵の指導者でもあるので、生徒さんたちに、偉そうに「そうじゃない、こうだ」などと言っているのだろう。

もちろん、芸術はその人の創造なので、教えることではないかもしれない。
しかし、もしこうしたいならこうだよという指導はできる。

だから、大前提は、その人が何を学びたいかでその目的に即した指導をしているということだ。
具体的には、写真みたいに見える通りに上手に描けたらいいと思って教えてくださいというなら、美大受験生が美大に合格するような技術力を指導することはできる。印象派みたいに綺麗な風景画が描きたいと言えば、その方向で指導することはできる。

今まで誰も描いたことがないような凄い絵を描きたいと言えば、そこからは自分でやってくださいとなる。

私は指導者だから、つい絵を教えるときのことが例に出てしまう。ただ、その指導の時に、私なりの美学が含まれているだろうと思うので、そう言ったことを例に取って、話すことになるだろう。

ーーーーーーーーーーーーー
ただ、今漠然と思うことを思いつくままに書いてみたい。
人間はいつから美しいと感じるようになったのか?そう考えてみると、人類学の問題か?それとも脳科学の問題だろうか?

あまり難しく考えなくても、具体的にラスコーやアルタミラの洞窟壁画などは、美しさを考えて描いているのだろうか?と思ってしまう。私の想像では、美しさを考えていたとは思えない。何か別の目的で描いていたのだろうと想像する。

明日の糧が得られますようにという祈りで描いたのか?魚拓のように、俺はこんなすごいやつを捕まえたんだという記念で残したかったのか?
どちらにしても、こんなやつというときに、そのものに似ていないと満足しないことは確かだ。ということは、似ているように描きたいとなる。描いている内に、そうじゃないもっとこうかな?となる。その内、この方が近いとか感じる。描き方によって、そのものらしくなる。近づくことによって満足度が違う。

なぜなら、俺はこんなすごいやつを捕まえたんだぞと自慢したいとき、それに似ていないと説得力がないし、自慢にもならないからだ。また、それはじっとして動かないものよりも、動いている姿の方がいい。今で言えば写真とビデオの違いのように、躍動感が伝わるほうがいい。俺はこんなすごいやつが、こんな風にすばしこく動くやつをこのようにして捕えたんだといいたいだろう。
そうなると、そのような絵を描きたくなる。

絵は描くことによって、目的が出て来る。こうしたいということからその目的に即した表現になっていくのだ。

この方が、自分が言いたいことが伝わる。自分でもこの方が満足だ。ということが、対象物に迫るリアルさにつながっていく。
このリアルさが一つの美しさなのだろう。

描いた絵の生き物に生命を与えると言う場合、そのリアルさは美しさではないだろうか?

今では、見える通りのリアルさというものは、写真でできてしまうということもあって、あまり価値を感じないという見方がある。指導する時も、「写真みたいでつまらないね」と言ったりする。

しかし、リアルさというものは生命感を感じるという点で一つの感動であるし、それは一つの美しさだろうと私は思う。

ただ、厳密には現代においては、そのものに似ていると言うことの中に、良い悪いの両面がある。
上手だけれどつまらないねという絵がある。下手だけど味があるねという絵がある。
その上手さが、上手であるがゆえに、対象物をまるで生きているかのように感じるということなら、
そのリアルさは、一つの美しさだろうと思う。

だから、美しいとはどこから出て来たか?と考えてみた時、この「本物みたい」というリアルさから始まる気がする。

この問題は、簡単に語れない。もっともっといろいろな角度から考えなければならないだろう。
今は、単に思いついた洞窟壁画から考えてみただけである。

つづく












 



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