絵画指導 菅野公夫のブログ

大好きな絵とともに生きてます

狭山のKさん 布のデッサン

2013-01-03 | 通信指導
狭山のKさんが、布のデッサンをしてくれました。



布のしわが多いので大変ですが、よくがんばってくれました。

このデッサンは、やや鉛筆の線が残った描き方をしています。
ボールペンなどの描き方でよく見られますが、鉛筆でもその表現ができますね。
これも一つの味だと思います。

せっかくいい味が出たので、このまま残してみるのも良いのではないかと
思って、もう一枚描いて、他の表現もしてみてくださいと言いました。
これは、これで止めて置いて、二枚目を描いて比べてみるということを勧めました。

もっと、鉛筆をギュッと強くして、黒さを増した描き方と比べてみてほしいのです。
同じものを何枚描いても良いと思います。

デッサン会のFNさんなどは、いま、同じ顔だけ10枚とか描く練習をしています。
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白虎隊2

2013-01-03 | ドラマ
岩倉具視が孝明天皇を暗殺して、薩長と手を組み、倒幕に動いたと会津では見ている。
これは、どこまで本当だろうか?
しかも天子様をお守りするという名目で会津藩は京都へ行ったのに、その後の展開で薩長が優位に立ち、岩倉のたくらみで会津は朝敵にされてしまう。

新鮮組を使って、薩長の脱藩浪士をたくさん殺したのが会津藩だということなのだろう。

岩倉のたくらみに対して、会津が朝敵でなくなるためには、孝明天皇の弟を天子に立てて、東国で国を作れば良いという考えが出て来る。なるほど、これはいい案だと思った。しかし、実現しなかった。

土方歳三は、欧州連合に北陸連合が加担するという情報を持って、会津にやって来た。
(私は、この辺の歴史を知らない。)
「翔ぶが如く」に書いてあるだろうか。(10巻全部読んだのだが、忘れてしまった。)
その北陸連合に河合継之助がいた。あの「峠」の主役じゃなかったかな?(私は「峠」を読んでいない。)

西郷頼母は、松平容保の子を宿しているという女の人を連れて、米沢に送り届ける。
その途中、峠で会津の農民が関所を作り、落ち武者狩りをしていた。
そこを通る時、その連中から殺されそうになる。

しかし、そのリーダーらしき人が、頼母を知っていた。
 1、容保にくわを持って農民と一緒に働けと言った。民のための領主だと教えた。
 2、税金が払えないために牢に入れられた農民を牢から出してくれた。
 3、時には、農民の手伝いまでしてくれた。
こんなお方に乱暴してはならないと言って、道を通してくれた。

これは、ドラマを感動的にするための脚色だろうか。
もし脚色だとしても、頼母がそういう人だったということを言いたいためのものである。

私の先祖は、このような落ち武者狩りをしている中にいたのだろうかと考えた。
そうじゃなければいいなあと思いながら見ていた。

松平容保は、ここで籠城した後、どうなったのだろう?
捕まって、さらし首だったのか、捕まる前に切腹したのか。後で調べてみたい。

西郷頼母は、米沢に女性を届けた後、仙台に行くよう容保から言われていて、息子も一緒だった。
その後、また米沢だったか?戻ったというような記述があった。
あれだけの状況の中にいて、生き残ったというのは不思議な気がする。

ーーーーーーーーーー
この後、土方歳三は、函館まで行き、戦争をして亡くなる。
西郷隆盛は、西南戦争で死ぬ。大久保利通は、路上で暗殺される。
ずっと後に、伊藤博文は、ハルピンで暗殺される。

勝っても負けても、みんな若くして死んだ。

いま、「坂の上の雲を読む」を読んでいて、幕末から日露戦争までを概観している。
全体の流れが良く見えて、とてもすっきりしている。このドラマは有難かった。













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白虎隊

2013-01-03 | ドラマ
昨日、「白虎隊」をテレビでやっていた。
6時間50分のドラマだった。これは歴史だから実話である。

幕末の様子を会津藩から見るとこう見えるということがわかった。
白虎隊と聞くと、少年隊が無残にも自害するということだけが頭に浮かんで、その一人一人についての話かなと思うが、このドラマは幕末全体の様子が走馬灯のように語られたので、時代全体をつかむのにとても良いと思った。

約7時間のドラマが、長いと感じなかった。あれ?もう竜馬が死んじゃうの?と思ったくらいだ。
竜馬が行くなどを見ていると、相当な時間がかかると思われるが、このドラマではあっという間に感じた。

主役の西郷頼母については、私はほとんど知らなかった。
松平容保は京都の警備で薩長の浪士をたくさん殺したから、いかに憎まれたか、その辺はあまり語られなかったが、容保だけは許さないと言っている様子から分かった。

最後に会津の城下町に火を放つとき、目的は、焼け野原にすれば、敵の隠れるものが無くなって攻め難いからと考えてのことだと知った。
私の父方の祖父は会津の出である。だから、菅野という。その時、私の先祖はどうしていたのだろう。庄屋をしていたという。農家だから城下町より外だったのか。

つづく


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