前回に続き宇宙の話。宇宙というのは不思議なものだ。星空を見上げているだけでも自分の枠組みが緩んでいく気がする。まして宇宙に関する科学的な話しなどは全く整理がつかない。怒られていることはわかっているが、なぜ怒られているかわからぬまま頷いている子どものようなものだ。
ただ宇宙の説明について確信していることが1つある。それはどのような説明であれ、それは人間が理解できる形の説明でしかないだろう、ということだ。人間は自分が理解できる形でしか何も理解できない。これは当たり前の事実だが、案外見落とされている。(例えば、私たちが宇宙の始まりより以前を上手く想像できないのは、私たちが自分が生まれるより前の自分を想像できないのと同じことである。)
さて、だいぶ前のテレビ番組で天体望遠鏡か何かの特集を見た。たしかその望遠鏡では46億(だっけ?)前の宇宙の姿を見ることが出来る、などと言っていた。「私たちが今、見ている星は10億年前の姿です」というのは奇妙な言い方が、宇宙を巡る話題ではそういう言い方が許されるのだ。
私が今、目にしているのは今ではなく昔である。奇妙な言い方である。今、目にしているのはやはり今の姿だろう、私たちの日常の感覚では自然とそう思えてくる。奇妙な言い方になるのは理解できる。地球とある星には二十億光年の距離がある。二十億光年とは光の速さで二十億年かかる距離である。だから今、地球に届いている光は二十億年前に発されたものなので、目にしているのは今の星の光ではなく二十億年という昔の光である、と。
なるほどその通りである。でもね、という気がしなくもない。上の説明の仕方を日常に置き換えればその奇妙さがわかる。例えば、2日前に知り合いが宅急便でブドウを送ってくれたとする。2日経って僕の手元に届く。僕はそれを見て「おっ、2日前のブドウが届いた」と言うだろうか。まあ言わないだろう。
2日前に発送されたブドウが、今、手元に届いた。今目の前にあるのは2日前のブドウだろうか。今のブドウだろうか。きちんと考えてみると面白いに違いないが、それはさておく。宇宙の話しが奇妙に感じるのは、それを丁寧に説明しようとすると、日常感覚で使われている言葉使いとはズレた表現が論理的に出て来てしまう点にあるのだろう。感覚的には、私たちが今見上げている星空は今の星空だ、そういう言葉遣いになるはずである。
しかし日常感覚の言葉遣いをあえて「今目の前にあるのは2日前のブドウである」というような奇妙な言い方に揃えてみると、それはそれで面白い。私たちが目にするもの、耳にするもの、手に入れるもの、これらはすべて私たちから離れたところに位置する。つまり離れたところから私たちに届くのである。(あたかも星の光が届くように)。
もちろん二十億光年というような時間がかかることはない。ほとんどの場合は時間的な差異は感じられない。しかし厳密に言えば、わずかであれそこには時間的な差異が存在する。光が放たれる、言葉が発される、モノが投げられる、わずかではあるが時間が経過してからそれらは私たちの手元に届く。
そう考えれば、私たちが今捉えたものはすべて過去のものと言える。私たちの手元には過去のものしか届かない。過去を捉まえる〈今〉という場所が私ということになる。
この考えに乗っかって、自分が何かを発信する側に立つことを考えてみよう。私が手を振る、声をかける、モノを渡す、これらの行為はすべて未来への働きかけということになる。なぜなら、私たちがそれらの行為をしてから相手に届くまでにはわずかであるが、時間がかかるからである。未来に向かって発信する〈今〉という場所が私ということになる。
しかし受け取る相手から見れば、立場は逆転する。相手からすれば、私とは相手に向かって何かを発信した〈過去〉であるか、相手が何かを発信するための〈未来〉ということになる。
これらをまとめると、私という存在は、過去からの働きかけを受け入れたり、未来に向かって働きかけたりする意味で〈今〉という存在である。同時に他者にとっての私とは、他者に働きかける〈過去〉だったり、他者から働きかけを受ける〈未来〉ということになる。
このように考えると〈私〉というものは〈今〉〈過去〉〈未来〉を同時に生きている存在ということになる。(そして深く掘り下げていけば、時間の発生という問題にまでいけそうである)。それはさておき、この考え方に乗っかれば、「今私が見ているのは2日前のブドウである」という言葉遣いは何ら不思議でもなくなる。
ただ宇宙の説明について確信していることが1つある。それはどのような説明であれ、それは人間が理解できる形の説明でしかないだろう、ということだ。人間は自分が理解できる形でしか何も理解できない。これは当たり前の事実だが、案外見落とされている。(例えば、私たちが宇宙の始まりより以前を上手く想像できないのは、私たちが自分が生まれるより前の自分を想像できないのと同じことである。)
さて、だいぶ前のテレビ番組で天体望遠鏡か何かの特集を見た。たしかその望遠鏡では46億(だっけ?)前の宇宙の姿を見ることが出来る、などと言っていた。「私たちが今、見ている星は10億年前の姿です」というのは奇妙な言い方が、宇宙を巡る話題ではそういう言い方が許されるのだ。
私が今、目にしているのは今ではなく昔である。奇妙な言い方である。今、目にしているのはやはり今の姿だろう、私たちの日常の感覚では自然とそう思えてくる。奇妙な言い方になるのは理解できる。地球とある星には二十億光年の距離がある。二十億光年とは光の速さで二十億年かかる距離である。だから今、地球に届いている光は二十億年前に発されたものなので、目にしているのは今の星の光ではなく二十億年という昔の光である、と。
なるほどその通りである。でもね、という気がしなくもない。上の説明の仕方を日常に置き換えればその奇妙さがわかる。例えば、2日前に知り合いが宅急便でブドウを送ってくれたとする。2日経って僕の手元に届く。僕はそれを見て「おっ、2日前のブドウが届いた」と言うだろうか。まあ言わないだろう。
2日前に発送されたブドウが、今、手元に届いた。今目の前にあるのは2日前のブドウだろうか。今のブドウだろうか。きちんと考えてみると面白いに違いないが、それはさておく。宇宙の話しが奇妙に感じるのは、それを丁寧に説明しようとすると、日常感覚で使われている言葉使いとはズレた表現が論理的に出て来てしまう点にあるのだろう。感覚的には、私たちが今見上げている星空は今の星空だ、そういう言葉遣いになるはずである。
しかし日常感覚の言葉遣いをあえて「今目の前にあるのは2日前のブドウである」というような奇妙な言い方に揃えてみると、それはそれで面白い。私たちが目にするもの、耳にするもの、手に入れるもの、これらはすべて私たちから離れたところに位置する。つまり離れたところから私たちに届くのである。(あたかも星の光が届くように)。
もちろん二十億光年というような時間がかかることはない。ほとんどの場合は時間的な差異は感じられない。しかし厳密に言えば、わずかであれそこには時間的な差異が存在する。光が放たれる、言葉が発される、モノが投げられる、わずかではあるが時間が経過してからそれらは私たちの手元に届く。
そう考えれば、私たちが今捉えたものはすべて過去のものと言える。私たちの手元には過去のものしか届かない。過去を捉まえる〈今〉という場所が私ということになる。
この考えに乗っかって、自分が何かを発信する側に立つことを考えてみよう。私が手を振る、声をかける、モノを渡す、これらの行為はすべて未来への働きかけということになる。なぜなら、私たちがそれらの行為をしてから相手に届くまでにはわずかであるが、時間がかかるからである。未来に向かって発信する〈今〉という場所が私ということになる。
しかし受け取る相手から見れば、立場は逆転する。相手からすれば、私とは相手に向かって何かを発信した〈過去〉であるか、相手が何かを発信するための〈未来〉ということになる。
これらをまとめると、私という存在は、過去からの働きかけを受け入れたり、未来に向かって働きかけたりする意味で〈今〉という存在である。同時に他者にとっての私とは、他者に働きかける〈過去〉だったり、他者から働きかけを受ける〈未来〉ということになる。
このように考えると〈私〉というものは〈今〉〈過去〉〈未来〉を同時に生きている存在ということになる。(そして深く掘り下げていけば、時間の発生という問題にまでいけそうである)。それはさておき、この考え方に乗っかれば、「今私が見ているのは2日前のブドウである」という言葉遣いは何ら不思議でもなくなる。