明け方、ふくらはぎがつる。その痛みで目が覚める。ほとんどランニングをしていないからだ。不思議なことに、ランニングをしばらくサボると寝ていて脚をつることがある。相方も同じことを言っているし、ランニングをしている友人も経験している。夏のランニングは厳しいので、ついついサボりがちになってしまう。その報いである。
ランニングをサボると頭の整理が追いつかないというデメリットもある。正確に言うと、頭の中の整理が追いつかないというより、身体に溜まった雑多なものを走ることで仕分けして頭に届けることができないという感じだ。頭に届けば言葉になる。だからすぐに文章に置き換えられる。頭に届かないと、もやもやした念のようなものが身体に残る。その分、身体が重くなる。という訳でブログが追いついていない。
1週間も前のことだが、友人の天祖神社で中学生に話しをした。職場体験で神社にやって来た15名の男女の中学生に対して1時間ほど授業のようなものをもった。昨年に続いて2度目である。2度目だから慣れたかというとそんなことはない。1年前にやったことなどすっかり忘れている。そんな訳でしっかりと準備していく。
自分が中学2年生の時を思い出す。リアルに仕事について考えてなどいなかった。ましてや神社を職場とすることなど考えたことがなかった。おそらく今の中学2年生もそれほど変わらないだろう。職場体験の授業を学校がやると決めたから参加しただけ。別に神社を職場としようと思ってなどいない。そういう中学2年生の男女を15人相手にするわけだ。
誰も積極的に僕の話しなど聞こうとしないだろう。となれば基本は力技、気分は辻説法である。自分が話をすれば誰かが耳を傾けてくれるなどと思わないこと。誰も聞いていなくても大きなはっきりとした声で話し続けること。それが何よりも大切になる。話し終わった時に5人以上を引き込んでいれば僕の勝ち、という目標を勝手に立てる。
宗教を機能面から見た時に神社が共同体のバインド機能を歴史的に持っていたこと、現在のビジネスではコミュニケーション能力が必要とされていることから、コミュニケーションの話しをした。コミュニケーションとは情報伝達だと言われる。でも情報を伝達するだけなら機械にもできる。そこでコミュニケーションとは「情報」と「感情」を伝える技術だと説明をする。
その上で「僕は勉強が嫌いです。だから夏休みはすべて遊びます」といった類いの例を挙げる。感情も情報も入っている、おそらくこの言葉を聞いた人(親とか先生だろう)でその意味が理解できない人はいないだろう。ただ、おそらくその言葉は却下されるだろう。ということは、情報と感情を述べてもコミュニケーションが成立したことにはならない。「意味」を理解できることと、「分かってもらう」ことは違うことだからだ。
そうコミュニケーションで人が求めるのは「分かってもらう」ことである。言葉の意味を理解してもらうことだけではない。そこで「分かる」という言葉を「分ける」という言葉と絡めながら話しを進める。私たちは物事を「分ける」ことによって「分かる」ことができる。そして何かを「分ける」際には、そこに必ず基準が存在する。自分の用いている基準を相手に伝えること、相手の用いている基準をきちんと聞き出すこと、それらの同じところと違うところを確認して、双方が納得のいく落とし所を見つけることがコミュニケーションであると説明する。
極めて初歩的な具体例を挙げる。「昼/夜」は、1日を太陽が出ているか否かの基準で分けている。「大人/子ども」は、人間をある年齢を基準に分けている。「男/女」は、人間を性別という基準で分けている。「分かる」ということは「分ける」ことである。そして「分ける」ためには何らかの「基準」が必要である。その基準をやり取りするのがコミュニケーションである。
では「鶏肉、豚肉、レタス、キャベツ、リンゴ」とある。これを2つのグループに分けてみよう、と少しずつ生徒を引き込む。ある生徒は(鶏肉、豚肉)と(レタス、キャベツ、リンゴ)分けた。別の生徒は(鶏肉、豚肉、リンゴ)と(レタス、キャベツ)に分けた。これは誰もが理解できる。「では、(鶏肉、豚肉)と(レタス、キャベツ、リンゴ)に分けた基準は何だろう?」と本人以外の生徒に尋ねる。
当然のように「肉とそれ以外の野菜みたいなもの」という答えが返ってくる。みんなもふむふむと納得している。まあそうだろうなと思い本人に「それでいい?」と尋ねると、「漢字とカタカナで分けた」と答える。ナイスである。物事の流れが僕の方にやって来ている。このチャンスを一気につかむことにする。
ほら、違ってたでしょ。言葉になった意見は同じでも基準が違っていることがあるんだよ。これって同じ言葉を使って話していても違うことを考えているってことだよ。たとえば「僕たち(私たち)ともだちだよね」「そうだね」とか話していても、実際にはぜんぜん違うことを考えているようなことなんだ。そういう経験したことないかな?彼らの日常の出来事に重なるように話しを持って行く。
いつの間にか、何にもの生徒が顔を上げてこっちを見ている。自分から発言してくれる生徒も出てくる。どうやら5人以上こっちを向けるということには成功したようだ。用意したことの半分もできなかったけど、彼らがコミュニケーションについて考えるときの材料にはなっただろう。次回はもっと上手くやれそうだ。来年が楽しみである。
ランニングをサボると頭の整理が追いつかないというデメリットもある。正確に言うと、頭の中の整理が追いつかないというより、身体に溜まった雑多なものを走ることで仕分けして頭に届けることができないという感じだ。頭に届けば言葉になる。だからすぐに文章に置き換えられる。頭に届かないと、もやもやした念のようなものが身体に残る。その分、身体が重くなる。という訳でブログが追いついていない。
1週間も前のことだが、友人の天祖神社で中学生に話しをした。職場体験で神社にやって来た15名の男女の中学生に対して1時間ほど授業のようなものをもった。昨年に続いて2度目である。2度目だから慣れたかというとそんなことはない。1年前にやったことなどすっかり忘れている。そんな訳でしっかりと準備していく。
自分が中学2年生の時を思い出す。リアルに仕事について考えてなどいなかった。ましてや神社を職場とすることなど考えたことがなかった。おそらく今の中学2年生もそれほど変わらないだろう。職場体験の授業を学校がやると決めたから参加しただけ。別に神社を職場としようと思ってなどいない。そういう中学2年生の男女を15人相手にするわけだ。
誰も積極的に僕の話しなど聞こうとしないだろう。となれば基本は力技、気分は辻説法である。自分が話をすれば誰かが耳を傾けてくれるなどと思わないこと。誰も聞いていなくても大きなはっきりとした声で話し続けること。それが何よりも大切になる。話し終わった時に5人以上を引き込んでいれば僕の勝ち、という目標を勝手に立てる。
宗教を機能面から見た時に神社が共同体のバインド機能を歴史的に持っていたこと、現在のビジネスではコミュニケーション能力が必要とされていることから、コミュニケーションの話しをした。コミュニケーションとは情報伝達だと言われる。でも情報を伝達するだけなら機械にもできる。そこでコミュニケーションとは「情報」と「感情」を伝える技術だと説明をする。
その上で「僕は勉強が嫌いです。だから夏休みはすべて遊びます」といった類いの例を挙げる。感情も情報も入っている、おそらくこの言葉を聞いた人(親とか先生だろう)でその意味が理解できない人はいないだろう。ただ、おそらくその言葉は却下されるだろう。ということは、情報と感情を述べてもコミュニケーションが成立したことにはならない。「意味」を理解できることと、「分かってもらう」ことは違うことだからだ。
そうコミュニケーションで人が求めるのは「分かってもらう」ことである。言葉の意味を理解してもらうことだけではない。そこで「分かる」という言葉を「分ける」という言葉と絡めながら話しを進める。私たちは物事を「分ける」ことによって「分かる」ことができる。そして何かを「分ける」際には、そこに必ず基準が存在する。自分の用いている基準を相手に伝えること、相手の用いている基準をきちんと聞き出すこと、それらの同じところと違うところを確認して、双方が納得のいく落とし所を見つけることがコミュニケーションであると説明する。
極めて初歩的な具体例を挙げる。「昼/夜」は、1日を太陽が出ているか否かの基準で分けている。「大人/子ども」は、人間をある年齢を基準に分けている。「男/女」は、人間を性別という基準で分けている。「分かる」ということは「分ける」ことである。そして「分ける」ためには何らかの「基準」が必要である。その基準をやり取りするのがコミュニケーションである。
では「鶏肉、豚肉、レタス、キャベツ、リンゴ」とある。これを2つのグループに分けてみよう、と少しずつ生徒を引き込む。ある生徒は(鶏肉、豚肉)と(レタス、キャベツ、リンゴ)分けた。別の生徒は(鶏肉、豚肉、リンゴ)と(レタス、キャベツ)に分けた。これは誰もが理解できる。「では、(鶏肉、豚肉)と(レタス、キャベツ、リンゴ)に分けた基準は何だろう?」と本人以外の生徒に尋ねる。
当然のように「肉とそれ以外の野菜みたいなもの」という答えが返ってくる。みんなもふむふむと納得している。まあそうだろうなと思い本人に「それでいい?」と尋ねると、「漢字とカタカナで分けた」と答える。ナイスである。物事の流れが僕の方にやって来ている。このチャンスを一気につかむことにする。
ほら、違ってたでしょ。言葉になった意見は同じでも基準が違っていることがあるんだよ。これって同じ言葉を使って話していても違うことを考えているってことだよ。たとえば「僕たち(私たち)ともだちだよね」「そうだね」とか話していても、実際にはぜんぜん違うことを考えているようなことなんだ。そういう経験したことないかな?彼らの日常の出来事に重なるように話しを持って行く。
いつの間にか、何にもの生徒が顔を上げてこっちを見ている。自分から発言してくれる生徒も出てくる。どうやら5人以上こっちを向けるということには成功したようだ。用意したことの半分もできなかったけど、彼らがコミュニケーションについて考えるときの材料にはなっただろう。次回はもっと上手くやれそうだ。来年が楽しみである。