「意識を死に瀕したところまでもってゆく修練を積むと、概念はすべてイメージに転化されていく」。吉本隆明の『詩とは何か』という本にある言葉だ。出来事は徹底的に考えれば映像化されるということなのだろう。
考えと映像という問題が、近ごろコーチングの場面で話題になる。きちんと想像することが苦手な人が思ったより多いことに気がついた。想像するとは、像を想うこと、つまり何らかの映像を思い浮かべることである。
人々が口々に「イメージ」という言葉を使っているで、みんな映像を思い浮かべることがよっぽど好きなのかと思っていた。そんなことはなかった。「イメージ」というは見栄えの良いラッピングのようなものでしかなかった。よく分からない中身を「イメージ」という包装紙に包んで相互にやり取りしている。
「イメージ」という言葉を使うことで、指し示されている出来事の内容を深く考えずにすませているのだ。徹底的に考えれば出来事は「イメージ」に転化されるはずなのに、「イメージ」という言葉を使うことで出来事は「イメージ」に転化されないという自家撞着に陥っている。
というわけで、近ごろ「イメージの作り方」のトレーニングをすることがある。日常生活でイメージすることは、「いま・ここ」にはない何かを思い浮かべることである。仕事の場面で多いのは、将来の目標を考えることである。
将来の目標を尋ねて返ってくる返事のほとんどは、「抽象的な言語」か「現実不可能な妄想」のどちらかである。こういう答えはどれほど装飾されていても、「いま・ここ」との繋がりが感じられない。経験を積んでいると、話しの内容はよく分からなくても、そういう言葉がアンテナに引っかかってくるようになる。
将来の目標を立てるということは、将来をイメージするということである。将来というのは「いま・ここ」とは異なった時処であるが、「いま・ここ」と繋がりがある。「いま・ここ」とは異なっていながら繋がりのある時処をきちんと思い浮かべるのがイメージすることだ。それは結局のところ、将来の自分自身を思い浮かべることである。
きちんとイメージする際のポイントは、期待も悲観も交えずにこのままいったらどうなるかを素直に思い浮かべることである。今までやってきたようにこの先もやっていったら、自分はどんなになっているだろうか。このまま行ったら1年後はどうなっているか、2年後はどうなっているか、期待も悲観も交えずに素直に想像する。素直になれば大抵の場合は映像を思い浮かべることが出来る。
想像が出来ればあとは簡単である。その「イメージ」を自分が欲しているかどうか確認すれば良い。欲しているのであればいままで通りに進めば良いし、欲していないのであればそのイメージをたたき台に自分が欲するイメージを作り上げ、今までの自分とは異なったやり方で生きれば良い。ここまで行けばイメージを達成するための具体的なプログラムを作り上げることはそれほど難しいことではない。(実際は、プログラムを実践することの方が難しい。今までの自分と異なったやり方をするのはとても困難だからだ)。
厄介なのは素直に想像しない人間である。「このままいったらどうなると思う?」という質問を投げると、「どうせ上手くいかないに決まっている」と言いながら不平不満をのべたり、「きちんと出来てなければダメなんだ」と反対にこちらを説教する。「どうせ上手くいかない」という人間は、そう言うことで現状に向かい合うのを拒んでいるし、「きちんと出来ていなければダメだ」という人間は、そう言うことで将来に繋がる現状を見るのを避けている。
いずれも「いま・ここ」を正面から受けとめようとしない。話題がそこに及ぼうとすると、自分を取り巻く環境にさまざまな問題があることを話しはじめる。そしてそれらに評価を下す。そこには明らかに心理的な抵抗がある。自分から逃げようとしているのだ。「いま・ここ」を正面から受けとめることは、自分自身を正面から受けとめることになるからだ。
イメージするとは、「自分自身」と「自分に関わりのある出来事」が、いまどのように存在していて、このさきどのようになるかを素直に思い浮かべ、その思いとともに歩んでいくことである。道元が「しづかに思量すべし、いまこの生、および生と同生せるところの衆法は、生にともなりとやせん、生にともならずとやせん。一時一法としても、生にともならざることなし、一事一心としても、生にともならざるなし」と言っているのも同じことだ。
期待も悲観も交えず素直に想像してみる。「1年後の自分は、10年後の自分は、30年後の自分は、50年後は、100年後は」と。いま・ここの私と繋がっていながら、いま・こことは異なっている時処が上手く思い浮かべられるだろうか。どうだろう?「意識を死に瀕したところまでもってゆく修練を積むと、概念はすべてイメージに転化されていく」、とは吉本隆明の言葉である。
考えと映像という問題が、近ごろコーチングの場面で話題になる。きちんと想像することが苦手な人が思ったより多いことに気がついた。想像するとは、像を想うこと、つまり何らかの映像を思い浮かべることである。
人々が口々に「イメージ」という言葉を使っているで、みんな映像を思い浮かべることがよっぽど好きなのかと思っていた。そんなことはなかった。「イメージ」というは見栄えの良いラッピングのようなものでしかなかった。よく分からない中身を「イメージ」という包装紙に包んで相互にやり取りしている。
「イメージ」という言葉を使うことで、指し示されている出来事の内容を深く考えずにすませているのだ。徹底的に考えれば出来事は「イメージ」に転化されるはずなのに、「イメージ」という言葉を使うことで出来事は「イメージ」に転化されないという自家撞着に陥っている。
というわけで、近ごろ「イメージの作り方」のトレーニングをすることがある。日常生活でイメージすることは、「いま・ここ」にはない何かを思い浮かべることである。仕事の場面で多いのは、将来の目標を考えることである。
将来の目標を尋ねて返ってくる返事のほとんどは、「抽象的な言語」か「現実不可能な妄想」のどちらかである。こういう答えはどれほど装飾されていても、「いま・ここ」との繋がりが感じられない。経験を積んでいると、話しの内容はよく分からなくても、そういう言葉がアンテナに引っかかってくるようになる。
将来の目標を立てるということは、将来をイメージするということである。将来というのは「いま・ここ」とは異なった時処であるが、「いま・ここ」と繋がりがある。「いま・ここ」とは異なっていながら繋がりのある時処をきちんと思い浮かべるのがイメージすることだ。それは結局のところ、将来の自分自身を思い浮かべることである。
きちんとイメージする際のポイントは、期待も悲観も交えずにこのままいったらどうなるかを素直に思い浮かべることである。今までやってきたようにこの先もやっていったら、自分はどんなになっているだろうか。このまま行ったら1年後はどうなっているか、2年後はどうなっているか、期待も悲観も交えずに素直に想像する。素直になれば大抵の場合は映像を思い浮かべることが出来る。
想像が出来ればあとは簡単である。その「イメージ」を自分が欲しているかどうか確認すれば良い。欲しているのであればいままで通りに進めば良いし、欲していないのであればそのイメージをたたき台に自分が欲するイメージを作り上げ、今までの自分とは異なったやり方で生きれば良い。ここまで行けばイメージを達成するための具体的なプログラムを作り上げることはそれほど難しいことではない。(実際は、プログラムを実践することの方が難しい。今までの自分と異なったやり方をするのはとても困難だからだ)。
厄介なのは素直に想像しない人間である。「このままいったらどうなると思う?」という質問を投げると、「どうせ上手くいかないに決まっている」と言いながら不平不満をのべたり、「きちんと出来てなければダメなんだ」と反対にこちらを説教する。「どうせ上手くいかない」という人間は、そう言うことで現状に向かい合うのを拒んでいるし、「きちんと出来ていなければダメだ」という人間は、そう言うことで将来に繋がる現状を見るのを避けている。
いずれも「いま・ここ」を正面から受けとめようとしない。話題がそこに及ぼうとすると、自分を取り巻く環境にさまざまな問題があることを話しはじめる。そしてそれらに評価を下す。そこには明らかに心理的な抵抗がある。自分から逃げようとしているのだ。「いま・ここ」を正面から受けとめることは、自分自身を正面から受けとめることになるからだ。
イメージするとは、「自分自身」と「自分に関わりのある出来事」が、いまどのように存在していて、このさきどのようになるかを素直に思い浮かべ、その思いとともに歩んでいくことである。道元が「しづかに思量すべし、いまこの生、および生と同生せるところの衆法は、生にともなりとやせん、生にともならずとやせん。一時一法としても、生にともならざることなし、一事一心としても、生にともならざるなし」と言っているのも同じことだ。
期待も悲観も交えず素直に想像してみる。「1年後の自分は、10年後の自分は、30年後の自分は、50年後は、100年後は」と。いま・ここの私と繋がっていながら、いま・こことは異なっている時処が上手く思い浮かべられるだろうか。どうだろう?「意識を死に瀕したところまでもってゆく修練を積むと、概念はすべてイメージに転化されていく」、とは吉本隆明の言葉である。