とんびの視点

まとはづれなことばかり

言葉と出来事のズレ

2010年04月19日 | 雑文
さてさて『1Q84 book3』を読み終える。金曜日、子どもが寝てから2時間ほど読む。中断されずに読み進めるためには子どもが寝るのを待たねばならない。同じ理由で、土曜日も子どもが寝てから本を手に取る。布団に横になり読みはじめる。10ページも進まないうちに睡魔に襲われ、眠ってしまう。

2時間ほど眠っただろうか、夜中に目が覚める。体は眠ろうとしているのだが、意識がどこかで覚醒している。眠ろうと思うが眠れない。暗い天井をしばし眺めて本を手に取る。静かな夜中に時間を気にせずに本を読む。何年ぶりだろうか。ちょっと懐かしい気持ちになりながら一心不乱に読み進める。3時頃ちょっと眠くなるが、物語の面白さに引きずられて読み続ける。結局、空が少しだけ明るくなった5時頃に読み終わる。

とても良かった。とても。読みながらところどころ引っかかった。それらはやがて疑問として言語化されるだろう。でもそれらの疑問が解消されることもわかっている。それくらいの深みのある物語だった。これから読むことを楽しみにしている人もいると思うので、内容については書かないでおく。

読みながら感心したのは、村上春樹の言葉である。言葉と出来事のズレがほとんどない。だから言葉を追っていると自然と出来事の世界に引き込まれていく。現実と切り離された小説の世界を外から楽しむのではなく、現実と地続きの物語の世界の出来事を通り抜けているような気になる。良し悪しというより、好みの問題として僕は後者の方が好きだ。

少し前に三浦しをんの『神去りなあなあ日常』という本を読んだ。これは前者であった。この本は、高校を卒業した男子がひょんなことから紀伊半島で林業をするという小説だ。春夏秋冬と1年間のことが書かれている。小説は2本の骨組みから成る。1つは高校を卒業した10代終わりの男子がどこででも経験しそうなことである。例えば、恋愛であったり、大人の社会での未熟な自分の発見などだ。もう1つは、林業を行なっている田舎の生活である。(この本が読者を得ている理由は、この林業を中心とした田舎の生活が目新しいからだろう。そして小説が春夏秋冬の1年で終わるのは、田舎の生活の目新しさがひと通り終わってしまったからだろう)。

『神去りなあなあ日常』を読んだ時には言葉と出来事が離れていると感じ、『1Q84 book3』を読んだ時には言葉と出来事のズレがないと感じた。前者は現実とは切り離された小説の世界を外から楽しむように読めたし、後者は物語の出来事をかなりリアルに感じられた。考えてみると不思議なことである。『神去りなあなあ日常』は林業や田舎の生活をかなり取材した上で書かれたものであり、『1Q84 book3』は月が2つある何かが違う世界について書かれたものである。現実の話が作り物の話になり、架空の世界の話が現実の物語になる。しかしこれはあくまで僕の主観である。

結論から言えば反対のこと、つまり『神去りなあなあ日常』を現実の物語と感じ、『1Q84 book3』を架空の話と感じることもある。そのような主観を持つ人も必ずいるはずだ。なぜそのようなことが起こるかを考えたときに「言葉と出来事のズレ」という視点が有効ではないかと思った。(というか書きながら思いついた)

言葉と出来事には根源的にズレが存在する。それは語彙不足のために思っていることを言えないというのとは違う。言葉と出来事は根源的にズレているのだ。私たちは一般的に言葉と出来事はきちんと対応していると考えがちだ。そしてその対応を過たなければきちんとした言語運用ができると思っている。

しかし厳密にはそれは誤りである。私たちの目の前のさまざまな出来事をきちんと捉まえようとすれば、基本的には際限のない広がりを追いかけることになる。(それは自己の出自を極限まで想像したときに、生命の始まりまで行き着いてしまうのと同じである)。そのような広がりをつねに追いかけることは不可能だし、非生産的なので、私たちは適当なところで出来事を限定する。(父親と母親が疎開先で出会ったから私がいる、と出自を考えるように)。出来事を限定する時に使われるのが言葉である。言葉は出来事を限定するために使うのである。つまり原理的に言葉と出来事にはズレが存在する。

物書きにとって重要なのは、そのズレと自分がどのような関係にあるかである。出来事と言葉のズレにほとんど気づかない物書き、言葉と出来事のズレを意識して何かを表現しようとする物書き、言葉と出来事のズレをなくそうとする物書き。さまざまである。

『神去りなあなあ日常』を読む限り、作者は出来事と言葉の根源的なズレをほとんど意識していない。正しい語の選択というレベルでの言語運用を意識しているくらいだろう。言い方を変えれば、本人が正しい語の選択だという感覚を持てれば、きちんと表現できた実感を持つことになる。同時に、同じような状態の読者が読めば、その読者も実感を持てることになる。つまり作者も読者も小説の内容を現実の物語として感じられるわけだ。

村上春樹は言葉と出来事の根源的なズレをつねに意識している作家である。彼の小説に譬喩が多いのはそのためだろう。根源的なズレを無視し、正しい語の選択をいくら積み重ねても、ズレは広がるだけだ。だからそのズレを解消するために譬喩を用いる。譬喩によって言葉が出来事に行なった限定を解除する。上手くいけば、出来事は言葉によって言葉から解放され、出来事そのものを出現させる。そういう感覚を持っている読者にとっては、その内容はすごく現実的に感じられるだろう。しかし言葉と出来事の根源的なズレを感じない人にとっては、それらの譬喩は非現実的な言葉遊びのように聴こえてしまうかもしれない。

結局、何が言いたいのか。僕にとっては『1Q84 book3』は現実的であるが『神去りなあなあ日常』は作られた話しである。しかし人によっては『神去りなあなあ日常』は現実的だが『1Q84 book3』は架空の話しとなる。小説には正しい読み方はなく、人それぞれである。そういうことが言いたいのだろうか。そう言えるかもしれない。ただしこれは結論ではない。物事を考える出発点である。どちらか片方が正しくて、片方が間違っている。そんな単純な図式で物事を論じるのであれば何の苦労もない。やっかいなのは、相反するものが同時に成り立つような世界でその両者にどのような秩序を見いだすかだろう。(どうやら書きながら話しが柵を飛び越えはじめた。まだまだ続きそうなのでこの辺りで終わりにする。)

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