とんびの視点

まとはづれなことばかり

ゆらぐ

2010年04月07日 | 雑文
すでに起こったにもかかわらず、思い浮かべるとそれは起こっていなくて、いずれ確実に起こる出来事のように思えてくる。そういう感覚にとらわれることがある。現在を中心に考えれば、過去と未来はまるっきり逆の方向を向いている。しかし現在から離れているという点ではどちらも同じである。過去を思い出す。未来を思う。どちらも現在における言葉と映像だ。

現在における言葉と映像という意味では、過去も未来も同じ、だから時おり、すでに起こったことがいずれ起こる出来事のように感じられるのかもしれない。こういうことに引っかかっている時期、言葉は内向きになる。書いて外に出すというより、黙して内に言葉を溜めるという感じだ。

サロマ湖ウルトラマラソン。あのことを思うと、自分が走っている映像は浮かぶのだが、それが想像された未来の映像のように感じられる。頭ではわかっている、実際に走ったということを。でも、自分がこれから走らなければならないのだと、どこかで感じる。そういう時、レースのことをじっと思い出す。やがて自分が走ったという実感がわいてきて、いい感じになる。

近ごろでは、ゆらゆら帝国の解散を思うとわからなくなる。それはすでに起こったことのように感じるが、いずれきっと起こる出来事のような気もする。不思議なもので、ゆらゆら帝国の解散を思い浮かべても、彼らが演奏している姿しか思い浮かばない。解散するということは、そのかたちでの演奏をこのさき目にすることがないということだ。にもかかわらず、思い浮かぶのは彼らが演奏している姿だ。演奏を実際には見ることができないとい不思議な形でしか解散はイメージできない。それはイメージですらない。いまこのブログを書いている時もその演奏を見ていないのだから。

思い浮かべることで過去と未来を現在に確認する。過去と未来を方向をもった直線としてイメージすれば、両者は現在を中心に反対方向に位置する。でも繰り返される出来事という点から見れば、過去と未来は現在で一つに重なる。春ごとに繰り返し咲く桜。過去の桜と現在の桜と未来の桜。すでに咲いたにもかかわらず、いま咲いているし、いずれ咲くことになる。過去と現在と未来が桜という一点で重なる。

桜の花びらが風に舞うのを眺めながら、ヘッドフォンでゆらゆら帝国を聞く。解散する前と同じ音楽が聞こえる。3人が演奏している姿が浮かぶ。解散、ということすら頭の中からなくなっている。
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