とんびの視点

まとはづれなことばかり

難民条約について

2018年08月27日 | 雑文
「難民条約」という条約がある。正式には「難民の地位に関する条約」という。
第2次世界大戦後、急増した難民に対処するために作られた条約だ。
難民に対して不法入国や不法滞在の罪を問うてはいけないこと、その難民を迫害する国に送り返してはならないことなどが定められている。
日本は1981年に加入した。

しかし、どうやら日本はあまり難民を受け入れていないようだ。
日本の2016年の申請者に対する難民認定率は0.3%だ。
多い国と比べるのはなんだが、カナダは67%、アメリカは62%、ドイツは41%だ。
ケタ違いの数字だ。考えられる理由は2つだ。
1つは、日本とその他の国では難民の認定基準が異なっている。
もう1つは、なぜか日本にだけ偽装難民がやってきている。

条約の主旨に照らしても、難民の認定基準が受入国によって異なることは考えにくい。
難民認定基準が受入国によって異なれば、難民の地位が不安定になるからだ。
しかし日本にだけ偽装難民がやたらとやって来るというのも考えがたい。
偽装難民であれば、認定率の高い国を選ぶはずだからだ。
認定率が0.3%の国にわざわざ偽装してまで難民として申請する人(やブローカー)はいないだろう。
だとすれば、日本は難民条約に加入していながら、独自の基準で運用を行っていることが推論される。
技能実習生制度もそうだが、観光客でないような外国人に対して日本はかなり冷淡な扱いをする。

難民と認定されれば、永住許可への道が開かれ、日本国民と同様の手当などを受けられるようになる。もちろん日本での労働も可能だ。
認定されない場合は、そのまま入国者収容所に入れられるか、法務大臣から「在留特別許可」が下りるかだ。
在留許可は3〜6ヵ月おきに更新が必要で、特別な許可を得ないかぎり、いかなる労働も認められない。
その他に「仮放免」という不安定な状態もある。
ほんらい収容されているはずの入国者収容所から一時的に身柄の拘束を解かれた状態だ。
当然、労働はできない。また、何の違法行為をしなくても突然、収容されることがある。

難民とは、さまざまな理由で母国から逃げるようにして来た人たちだ。金銭的な余裕はないだろう。
(偽装難民も同じだ。偽装難民は仕事を求めて来ているはずだからだ。)
すでに日本で生活している同国人で、後から来た同国人をサポートできるほどの金銭的余裕のある人はそれほど多くはあるまい。
日本国からの公的な援助がなければ生活できるはずもない。
ほとんどの人は労働せざるを得ない。しかしそれは違法である。

違法なことをしなければ生活できない状態に「仮放免」する。あるいは「在留特別許可」を出す。
(違法なことをしていなくても、仮放免の人はいつでも収容できるのだが。)
少なくとも難民申請をして日本にいる多くの人たちの地位がそんな状況だ。
「難民の地位に関する条約」という名前から想像されるものとはだいぶ異なるのではないか。

1000人のうち3人しか難民認定しない。
言い方を換えれば、難民申請をした人の997人は難民ではないと認めたことになる。
難民でないなら、それは不法入国者や不法滞在者になるはずだ。
であれば、来た国に強制送還すれば良い。そのほうがすっきりしている。
しかしそれはできないのだろう。難民条約では、難民を迫害する国に送り返してはならないと決まっているからだ。

難民申請者の中には偽装をしている人もいるだろう。
しかしカナダやアメリカやドイツを基準にすれば、認定率が0.3%というはあまりにかけ離れている。
カナダやアメリカやドイツの認定機関があまりにも間抜けで、日本のそれはあまりにも優秀とでも言うのか。
おそらく、何らかの理由で難民を認定したくないのだろう。
その理由のひとつは簡単に推論できる。多くの難民を認定したときに生じる状況を避けたいのだ。
すなわち、永住権を持った外国人が日本社会にたくさん存在することだ。

もしそうであれば、この社会は、本当に助けを必要としている人たちを多く見捨てていることになる。
外国人だから見捨てるというなら、日本人であるという理由だけで、外国からそのように扱われること私たちは受け入れねばならない。
外国人だから見捨てるという社会は、いずれ同じように日本人も(たとえば、生産性がないという理由で)見捨てる社会を作るだろう。

そんな社会でも見捨てられないように頑張るのか、そんな社会を作らないように頑張るのか。
この社会で生きている人は、そんな選択を迫られている気がする。
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足りない頭で、頑張れ自分。

2018年05月05日 | 雑文
ゴールデンウィークの後半3日目。今日は夕方、相方と土手をランニング。ランニングのつもりが土手をゆっくりと歩く。個人的には、土手を歩くのはとても贅沢なことだ。土手をランニングするたびに、ゆっくりと散歩している人、ベンチに座って本を読んでいる人、家族で遊んでいる人、そういう人たちを見てうらやましくなる。自分にとって土手は走る場所だからだ。でもゴールデンウィークだ。少しはゆっくりとしてもよいだろう。そう思いながら、土手をゆっくりと歩いた。

夕方の土手の雰囲気はとても心地よい。太陽の光が柔らかく、濃い色になる。少しだけ冷たい粒子を含んだ風がやさしく吹く。長く伸びた自分の影がどこまでもついてくる。緩んて少し疲れた笑顔の家族が自転車で家に帰る。汗を流しながら黙々と走る人の顔が少しオレンジ色に見える。川面は穏やかにキラキラと輝き、たっぷりと水気を含んだ緑が風に揺れる。何というのか、これでいいじゃないか、と思う。こんな感じでいいじゃないか、と。

前回は、現実が複数化していると書いた。それは1つの現実に対して多様な解釈が存在しているのではない。単一の解釈しか許さない現実が複数存在していることだ。なぜそのようなことが起っているか。それは、言葉によって現実を1つにつなぎ止めることを放棄しているからだ(と思う)と書いた。このことをもう少し考えてみる。

現実が複数化すること自体は珍しくないだろう。冷戦時代、おそらく資本主義陣営と共産主義陣営の現実は異なっていた。また異なる国家は、基本的に異なる現実に存在してるだろう。(だから国家間では、起ったことに対しての解釈の違いではなく、出来事の事実性そのものに対しての対立がおこる。)その意味では、現実の複数化はそれほど珍しいものではない。

では、なぜ日本社会で現実が複数化していることを危機に感じるのか。それは日本社会という1つの領域内で現実の複数化が起っているからだ。資本主義陣営と共産主義陣営、異なる領域国民国家のあいだには、空間的に明確な線引きが存在した。自分たちとは異なる現実が存在するかもしれないが、それは自分たちの領域の外に存在するので、基本的には現実が複数化することがなかった。つまり1つの領域は1つの現実につなぎ止められていた。もちろんそれは言葉によってだ。イデオロギーやナショナルアイデンティティーの言葉だ。

冷戦が終ったことでイデオロギーの言葉が現実を1つにつなぎ止めることは出来なくなった。また世界がグローバル化したことでネーションの言葉も以前のようには機能しなくなった。経済のグローバル化により国内格差が生じたことで、国民経済という言葉はリアリティーを失った。その反動のようにナショナリズムの言葉が強まっているが、これなどは社会の分断につながり、現実の複数化を引き起こしている。

このようにイデオロギーやナショナルなどの現実を1つにつなぎ止める言葉が機能しなくなった。誰もが自分の現実を言葉で語るだけだ。その言葉は自分の現実だけを唯一の存在とし、他者の言葉に現実を認めない。財務官僚のセクハラ疑惑のように。他者の言葉があまりに面倒くさい時は、その場を収める程度の対応はする。でも自分の現実を語る言葉は否定しない。

言葉のやり取りを通して、出来事の整合性を確保する。それが言葉を通して現実を1つにつなぎ止めることだ。しかしいま行われているのは、言葉の整合性の破壊だ。場当たり的な言葉で、その場を乗り切る。言葉と向き合うことで、自分の現実と相手の現実を1つにつなぎ止めるのではなく、相手の言葉をバカにすることで、相手の現実をバカにし、自分の現実、自分の言葉しか見ない。そのことを数の力を背景に強行する。

僕が発足当時から安倍政権に批判的だったのは、彼が言葉に対する謙虚さを欠いていたからだ。このままじゃ、言葉が機能しない社会になると思った。論理的整合性が説得力を持たず、長期的な計画や思考が簡単に反古にされる、場当たり的なパワーゲームの世界だ。それはここ数年の日本社会で現実に起っていることだ。

とにかく国会で言葉が機能しなくなった。脱原発依存と言いながら原発をベースロード電源に据えた。自分が何で起訴されたかわからないまま裁判される特定秘密保護法。これまで違憲とされた集団的自衛権を可能にした安保法。中間報告という異様な手続で通過させた共謀罪。そして裁量労働制のデータ改ざん。誰かが止めないとこのまま憲法改正とまで進む。(おそらく財政的にもかなりまずいことになる。)日本社会は底抜け感満載だ。

「あとは国民の判断」と安倍首相は言った。でも、人々は平気そうだ。僕の周りには日本社会の現状を危惧している人はほとんど見かけない。そのことに不安を感じる。映画監督の相田さんは現状に「とても危険だ。ここで止めないと本当に日本は底が抜ける」と言っていた。僕もそう思う。それは杞憂であって欲しいが、たぶん無理だろう。

どんな状況になっても人は生きていける。そして、日本人はあらゆる出来事を天災のように受け止める傾向がある。何が起っても「そうなっている」から「しかたない」と自分の現実として受け入れるのかもしれない。(それを自己責任というようだ。)

一人ひとりが自己責任でそうなっている現実を受け入れる。しかたない現実が人の数だけ複数化する。複数化した現実の間では、言葉がうまく届かない。届かない気がするから、無数の孤絶した現実は何を口にすべきかわからなくなる。私たちは何を言葉にしよう。

つなぎ止めるための言葉を口にすべきなのだ。複数の現実を1つにつなぎ止めるような言葉を。それがどんな言葉なのかはわからない。時代が大きく変わるというのは、それまでの言葉が現実をつなぎ止められなくなることなのだろう。現実をつなぎ止める新たな言葉が求められている。それが善い言葉であれば、きっと現実も善いものとなるだろう。考えるに値しそうだ。足りない頭で、頑張れ自分。
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雑記、ラーメン一杯食べ放題、残したら昼休みは遊べません。

2018年05月04日 | 雑文
早いもので5月、そしてゴールデンウィーク。ゆっくり過ごそうと思ったが、なんだか忙しい。気付いたら、先週はブログを書けずに終っていた。気になる出来事は山のようにあるが、時間がとれない。とりあえず、なんでもよいから書く。

ラーメン一杯食べ放題。残したら昼休みは遊べません。
日本社会での自由と責任を考えると出てくる言葉。みんな、そんな日本社会を縦に横切れ。

さて、4月のランニング。たった60km。140kmが目標だったので80kmも少ない。3月の末日に次男のバレー部卒業生追い出し試合に保護者チームのメンバーとして参加し、ぴょんぴょん飛び跳ねて腰を痛めたのだ。だいぶ良くなったが、まだ痛む。今年の目標は1500km。5月の目標は150km。最初の山場だ。

ちょっと前、ビデオニュースのマル激トークオンデマンドで、映画監督の相田和弘さんの話を聞く。彼は大学卒業後、二十数年アメリカに在住しているが、日本に住んでいるかのように、日本の政治や社会の課題に関してツイッターなどで発言をしている。しかし以前はちがった。アメリカに渡ってからそれほど日本に関心がなかったという。ひとつには社会は時間とともに良くなっていくものだと、無邪気に思っていたから、とくに気にならなかったそうだ。(これは僕も同じだ。)
その思い込みが、東日本大震災で崩れる。震災や原発事故への対応などを通して、日本がかなりまずい状態だと気付いた。だから、震災以後、日本のことをきちんと観察して、自分なりにできることをしているのだという。そのことを彼は次のように言っていた。「一億分の一の責任を果たす」と。出来る範囲で、誰もが当事者として考え、行動せざるを得ないのだろう。

だいぶ前から、言葉が変なことになっていると思っていた。「自分的にはAはBでいいと思う」とか「俺の中ではAはBということになっている」などの奇妙な言い方を、ある時期からよく耳にするようになった。そのたびに「世界はお前の中ではなく外にあるんだ。外側の世界ではどうなんだ」と思ったし、実際に口に出したこともある。

これ、自分の見たい世界と、実際の世界のズレを埋めることを最初から放棄した姿勢だ。世界は世界、自分は自分。なんかきな臭さは感じていたのだ。「本人はセクハラを認めていないのに、財務省は処分する」「記憶の限りでは面会したことはないが、面会したことを認める方向で調整する」「自衛隊の日報で使われている〈戦闘〉という言葉は、一般的な意味での〈戦闘〉とは意味が異なる」などなど。

かなりまずい事態だ。言葉によって現実を1つにつなぎ止めることを放棄している。1つの現実にさまざまな解釈があるのは当然だ。しかしいま行われているのは、言葉を蔑ろにすることで、現実を複数化することだ。過去と現在の現実が複数化しているから、整合性がとれなくても構わない。立場を異にする人たちとは現実が異なっているので、相手の言葉が自分に届かず、矛盾を引き起こさない。

論理的な整合性とか、出来事の一貫性とか、そういうものが重要視されない社会になりつつある。「いま・ここ」という狭い時処での自己利益を追求することが当たり前になる。このあたり、真剣に考えねばならないと思う。でもその考えは、複数化された現実においては、届けねばならない相手には届かない。やれやれ、それが現状だとすれば、そこから考えるしかない。足りない頭でがんばれ自分。


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あとは自分で判断

2018年04月21日 | 雑文
「あとは国民の判断」という安倍首相の言葉に、すでに何回か触れた。その後いろんなラジオ番組で、たとえば元文科相の前川喜平氏、経済学者の金子勝氏、自民党の石破茂氏などが、いまの政治状況(あるいは日本社会)をよくする方法を問われたとき、そろって「国民の次第」と答えていた。

「あとは国民の判断」という安倍首相の言葉は、案外、いまの日本の課題の核心を突いていそうだ。国民は何らかの判断をし、その態度表明をしなければならない。世界的にも今までのシステムが持たなくなりつつあるし、日本もここ数年、戦後システムを大きく変えようとしている。こういう時期、たしかに「国民の判断」は必要だろう。

選挙のときに投票所に行くことだけが政治参加で、あとは任せっぱなし、気に入らなければブーたれる。日本人の民度はその程度だ、とは社会学者の宮台真司氏の言葉だ。

その通りだと思う。自分のことを振り返っても、震災前はそんなもんだった。新聞などで政治状況は把握していたが、とくに何をすることもなく、選挙で投票に行くくらいだった。そしてそれを不自然と思っていなかった。

ひとつには、政治が日常生活と切り離されたものだったからだろう。政治とは、政治家が国会などで行うものであり、日常生活とのダイレクトな接点はない。(たんに個人的に知識がなかっただけとも言える。)また、そのころ政治家以外で政治に係わるのは、思想的な組織や宗教的な組織に属している人という印象だった。(あくまで勝手な印象だ。)

とくに接点をもつきっかけがない人にとって、政治は日常生活からちょっと離れたところにあった。政治に関心のある人は投票に行くが、無関心な人は投票すらしない。投票所に脚を運ぶかいなかが、政治的関心の基準にすらなっていた。

経済成長が維持され、大きな問題が起っていないなら、国民の政治関心はその程度でも問題ない。しかし冷戦が終結し、バブルが崩壊し、経済は停滞した。東日本大震災ではこの国のシステムがかなり脆弱であることが明らかになった。

まじめに働いていても貧乏から抜け出せなかったり、生まれ育った土地でふたたび暮らせないようなことが起る。そのフレームを作っているのが政治だ。政治が日常生活と大きく関わっていることを実感する人たちが、少しずつ増えてきた。

僕自身はそんな1人だ。本当なら政治のことであまり時間を取られたくない。政治関係の本を読むくらいなら、楽器のひとつでも習いに行きたい。でも、自分の日常生活に関わるのであれば、政治ことも考えねばならない。結局は自分のことだからだ。
そんなふうに安倍首相の「あとは国民の判断」という言葉を考えていると、「自分のことを自分で考え判断したらどうですか?」という問いに思えてくる。それはとても大切な問いだ。真剣に考えるに値する。

安倍首相の支持率が落ちてきた。調査によっては25%くらいだそうだ。その理由で一番多いのが「人柄が信頼できない」だそうだ。

人柄ってそんな簡単に変わるだろうか?変わらないと思う。状況が異なればちがった人柄のように見えることもあるだろう。しかしそれは人柄が変わったということではない。多様な状況でどう振る舞うか、それら総体の構造と振る舞いの傾向性が人柄だろう。

子どもならいざ知らず、それなりの年齢の人間の人柄は簡単には変わらない。第二次安倍政権発足時と現在で人柄が変わったとは思えない。

だとすれば、問題は安倍首相の人柄ではない(それは本人が問題視すればよい)。信頼できない人柄の人を信頼してしまった私たちの問題だ。実際には信頼できない人柄の人がいる。それを信頼した私は裏切られた気がする。それは端的に、私の思い違いである。

相手は最初から信頼できない人だったのだ。それを私が思い違いをして信頼していたのだ。そこにはおそらく不安があったのだろう。冷戦が終結し、バブルがはじけた。経済的に停滞し、この先よくなる感じがしない。自民党はぼろぼろになり、民主党政権となるが、空回り。そこに東日本大震災。どうしていいかわからない不安から、誰かに任せたくなったのだろう。そこにアベノミクスを掲げて安倍さんが出てきた。多くの人がおもわず飛びついた。そして日本はいまのような状況になっている。
人は見たくない現実よりも、欲する幻を見る。そして、幻を欲する自分を反省するのではなく、幻を見せてくれなかった相手を責める。

「あとは国民の判断」と安倍首相は言った。一方では、実際に彼がこの数年、どのような言葉を口にし、どのようなことを行ってきたかを知り、きちんと評価することが必要だ。その一方、この数年間の自分たちの判断を振り返ることも必要だ。

起ったことは、善いことも、悪いことも、すべて受け入れるしかない。次回に活かすためだ。次の世代によいものを残すためだ。べつに強い政治的な関心を持つ必要はない。過剰に期待したり、あきらめたりせず、自分の日常のさまざまな場面で判断すればよい。日常と政治がすでに繋がっている状況だからこそ、日常での判断が大切になる。詰まる所、それは自分を大切にすることでもある。
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さまざまな鉄柵を乗り越えて(国会前抗議行動4.14)

2018年04月15日 | 雑文
まだ腰痛はよくならないが、3km程度のジョギングを再開した。(ランニングとはとても言えない。)ほぼ2週間ぶりだ。走ってみると、太陽の光や気温や風の感じが変わっている。木々の葉がだいぶ茂りだし、街がだいぶ緑色になっていた。あっという間に、汗ばむような暑さが来て、夏のようだとか言いながら、もっと暑い本当の夏を迎え・・というように、繰り返すように月日は流れていくのだろう。

繰り返さない出来事もある。昨日は国会前の抗議行動に行ってきた。強風と雨が予報されていたが、風もそれほど強くなく、雨もほとんど降らずにすんだ。(雨のことを考え、国会前にいく前にモンベルに寄りポンチョを買った。ポンチョは以前から欲しかったので、今回のことに「かこつけて」という感じだ。)

抗議行動の始る14時少し前に国会前に着いた。霞が関駅から多くの人が国会を目指していたので、人数はそこそこ集まると思った。着いてみれば、すでに人も多く、大音量で音楽がかかりラップ調のコールが起っていた。(国会前はけっこうな広さなので、それぞれの場所でいろんな形の抗議が行われている。足を止めたのは一番ノリのよいところだった。)

かなりの人出だが安保法の時ほどではない。国会前に来ることだけが意思表示だとは思わないが、疑問を持っている人たちは何らかの形で自分の意志を表示してるのだろうか。かなり心配だ。

心の中では反対している。声には出さないが怒っている。それでは人に伝わらない。言わずに理解して欲しいと思う心が「忖度」の社会を作り出す。異なる意見を、目くじらを立てずに、みんなが言えるのがいい。社会にはそのくらいの余裕があったほうがよい。

国会前に着いたときに、今日は確実に車道に人があふれると思った。車道に機動隊の車両がなかったからだ。機動隊が本気で人々を押さえ込むなら、歩道の脇にカマボコと呼ばれるバスのような車両をずらっと並べる。(そしてアイドリングをし続けるといういやがらせをする。)その車両がない。もちろん、歩道と車道の境目には鉄柵がずらっと並べられている。しかし、その鉄柵は安保法の時に破られている。だから、鉄柵ぐらいでは防げないことは機動隊もわかっている。

抗議する人たちに「はいどうぞ」と簡単に車道を開放するつもりはないが、絶対に「破らせまい」ともしていない。そんな印象を受ける。国民が本気で乗り越えようとすれば、勝ち取ることはできる。多少意味は違うが、安倍首相が「後は国民の判断」と言ったことと通じる。

国家の中枢に権力が集中することは避けられない。しかし集中した権力がどのように機能するかは、国民と権力の関係によって決まる。国民が権力に無関心になり、何の関与もしなければ、権力は自らの欲望にしたがって動く。その意味で、権力の姿は国民の姿そのものだ。(私は選んでいないが、)私たちが選んだ政権なのだ。時の政権を批判することは大切だが、糾弾するだけではダメだ。(抗議の口調はそうならざるを得ないけど。)

安倍政権になって日本もだいぶひどいことになった。(もっともひどいのは言葉の劣化だ。言葉が機能しない社会になってきた。)それでも日本はまだ民主主義国家だと思った。国民が本気で乗り越えようとすれば、乗り越えられる鉄柵を設けているからだ。(誰かが意図しているのか、たんなる僥倖なのか。)

戦後、憲法がアメリカから与えられたように、民主主義もアメリカから与えられた。日本人は自分たちで民主主義を勝ち取っていない。戦争の悲惨さを覚えていた人たち、何らかのきっかけで民主主義を考えることになった人たち以外は、民主主義はとくに意識する対象ではなかったのだろう。

だから、民主主義が攻め込まれていても気付かない。だから、民主主義をどこかで勝ち取らなければならない。安倍首相の「後は国民の判断」という言葉は、そういう意味を持っていると思う。「民主主義を勝ち取りますか」と。(安倍首相って能力的なスペックは高くないと思うが、けっこう恐ろしい存在だと思う。真剣に向き合っておいたほうがよいと思う。)だから、国民はきちんと自らの判断を示したほうがよい。問いかけられたら、答えるのが礼儀というものだ。

そういうわけで5万人の人が国会前に集まり、鉄柵を破って車道で声を上げた。何というのか、こういうのも自分たちで民主主義を勝ちとることだと思う。すごく小さな勝ち取りだけど。独裁国家ならこんな簡単に鉄柵は破れないだろう。放水もされない、警棒で打たれることもない、ゴム弾を撃たれることもない。声をあげれば、けっこう簡単にいろいろな鉄柵を乗り越えることはできる。乗り越えられるうちに、乗り越えておくべきなのだ。そうしないと、いずれたくさんの血を流さないと乗り越えられないような鉄柵が目の前に立ちはだかることになる。

すでにさまざまな鉄柵が日本社会にはある。(どの社会にもある。)それぞれの鉄柵に対して、いろんな乗り越え方があるだろう。さまざまな鉄柵を乗り越える私たちの作法のひとつひとつが、この社会を成り立たせるひとつひとつとなる。個々人が気楽に異なる意見を表せるのがよいように、鉄柵の乗り越え方もさまざまであってよい。

昨日の国会前でも、いろんな形の抗議の仕方があった。正しい抗議仕方があって、みんながその通りに抗議するなど、堅苦しくて気持ち悪い。社会を変えていくには時間がかかる。いや、時間をかけねばならない。いろんな形でそれぞれが鉄柵を乗り越えている時に社会は多様に生成している。

昨日、たぶん、日本の社会でいままでにない抗議の形が生まれた。こういうのもありだし、とてもよいと思った。
80過ぎのおばあちゃんが気持ちよさそうに踊ってた。おかしいものはおかしいと声を上げながら。もちろん僕も。
言葉で説明するよりも映像で。
https://www.youtube.com/watch?v=wFy8U5gmbsc&app=desktop
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腰痛悪化

2018年04月06日 | 雑文
この1週間、ランニングができていない。腰を痛めたせいだ。先週の土曜日(3月31日)、次男のバレー部で3年生の追い出し試合があった。保護者もチームを作り参加することになり、いい気になってぴょんぴょん飛び跳ねた。そしたら腰に負担がかかったようで、家に帰ったときにはひどい腰痛になっていた。参ったものだ。

年頭に決めたことが2つあった。ひとつはランニング。もうひとつがブログだ。震災以前はけっこう定期的に書いていたのだが、震災で自分の言葉の軽さを実感し、書けなくなっていた。書こうと思っても考え込み、手が止まってしまう。深く考えるのは悪くないが、書くことを止めると漠然とした思いを言葉に変える力が落ちる。また言葉にすることで物事に始末をつけることができなくなり、結局、もやもやしたものが残る。けっこう悪循環が起っていた。

そこで、内容はともかく定期的に書こうと決めた。あまり無理しちゃいけないと週に1回と決めた。そしてここまで、週に1回は書いてきた。しかし、週に1回というのはちょっと失敗だった。書くたびに妙にきついのだ。

ランニングに喩えるなら、走ることを習慣化させために、毎週日曜日に15キロ走るようなものだ。走る前には気が重くなるし、走っているときはきついし、走り終ったら疲れが残る。それなら、1回5キロを週3回走ったほうがよい。

週に1回だから週末にきちんと書こう。そう思うことでかえってやりにくくなっていたのかも知れない。平日に毎朝15分ジョギングをするように、平日にも軽く書いていこう。ジョギングが週末の長距離を楽にするように、軽く書くことが、週末に長く書くことをきっと楽にするだろう。

というわけで、年が明けて3ヵ月が過ぎ、ランニングとブログの続け方に調整が必要になってきたわけだ。(これも続けていたからわかること。何であれ続けることは大切だ。)

今回はここで軽めに終える。明日、明後日の土日は1泊で合気道の合宿がある。九十九里の海岸の近くだ。まあ、腰を痛めないようにしながら、うまく稽古をしてこよう。
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あとは国民の判断

2018年04月01日 | 雑文
4月1日だ。あっという間に今年も3ヵ月が過ぎた。1月、2月はわりと良い感じで過ごせたが、3月に入り少し雲行きが怪しくなってきた。

まずは花粉症に攻め込まれた。これまで、秋には軽いアレルギー反応が出ていたが、春の花粉症とはほぼ無縁だった。しかし今年の春は、目と鼻がやられた。寝ているあいだに鼻が詰まり口を開け、喉が渇き詰まり、苦しくて飛び起きることが何度もあった。仕事中、何かを考えようとするが、いつの間にかぼーっとしていたことも何度かあった。考える力が3低空飛行している感じだった。

ランニングも月目標の150kmを下回り127km止まりだった。休日に天気が崩れ距離が稼げなかった。そして脚を痛めて走れない日があった。(さらに腰を再び痛めてしまった。4月のランニングも黄色信号だ。)しかし言い訳にはならない。経験に照らせば、悪天候や体調不良があっても目標達成できないようではランナーではない。その意味では、4月が今年のランニングを左右する分水嶺となるだろう。

もうひとつ想定外のことが起った。森友問題の文書改ざんを巡っての官邸前や国会前での抗議行動が始まったことだ。憲法改正問題で秋以降に何らかの行動が起るとは思っていたが、この時期とは思っていなかった。その結果、何度か官邸前に脚を運んだ。率直に言えば、こういうことにあまり時間を取られたくない。しかし、こういう時にはきちんと態度を示しておかねばならないとも思う。(憲法12条 この憲法が国民に保障する自由および権利は、国民の不断の努力をもってこれを保持しなければならない)

僕は一貫して安倍政権には批判的だ。ひとつは言葉の使い方が無茶苦茶だからだ。もうひとつは公正なプロセスを無視して物事を進めるからだ。(この2つは同じコインの裏表だ。)きちんと言葉で考え、丁寧にそれを形にしてく。そういうことをないがしろにすると、人の心はすさみ、人々は分断され、社会は劣化する。経済さえよければ何でもよいとはいかない。実際、よいといわれる経済だって、デフレ脱却は道半ばだし、庶民レベルでは豊かになった実感はない。頼みの綱の株価もそろそろ限界だ。

「あとは国民の判断」。佐川さんの証人喚問を受け、安倍首相はそう言った。この言葉はとても重いものだと思う。国民の皆さんが辞めろと言えば私は辞めますが、辞めろと言わなければ辞めません。いや、それどころか、辞めろと言わないのであれば、私が正しかったことが証明されます。そういう意味を持ってると思う。自分を倒したければきちんと態度で示せ、そういう言葉なのだ。その意味では、安倍首相はきちんと国民に問いかけているのだ。国民は無視してはいけない。

安倍政権に批判的だと書いたが、安倍首相やその周辺の人間を批判したいのではない。特定秘密保護法、安保法、共謀罪など、問題のある法案をつぎつぎと提出してきた。また、森友問題や加計学園問題、南スーダンPKOの日報隠しなどの問題もあった。その間には選挙があったにもかかわらず、安倍政権は続いてきた。結局は国民が安倍政権を認めてきたのだ。小選挙区制、実際の得票数が少ないなどの問題もあるが、それは言い訳にはならない。結局は民度なのだ。

人は自分を基準にしてものを判断してしまう。ある出来事に自分と同じような反応をしない人を見ると、批判的になってしまう。たとえば、このところ毎週金曜日夜の官邸前には1万人を超える人たちが集まり、思い思いに抗議の態度を示している。スピーチをする人、コールすると、だまって立っている人、写真をりとSNSで拡散する人。個人が自分の意志を態度で示すのは良いことだと思う。べつに暴動を起こそうというわけではないのだ。しかし人数が少ない。これだけのことがあったのに、なぜ1万人しか集まらないのだろうと思う。毎週10万人集まれば事態はすぐにでも変わる。みんないったい何をしているのだろう。そんな風に感じてしまう。

しかし全く反対の立場の人たちもいる。彼らからすれば抗議している人たちは反日、売国奴であるらしい。

僕が気になるのは、そのどちらでもないような人たちだ。多くの人たちが、森友問題と文書改ざんを知り「ひどいことだ」と言う。そして「さすがに安倍政権ももたないだろう」などと言う。いろんな意見や批判や正論めいたことを言う。でも、そこで終わりだ。ひどいことを何とかしようという当事者意識が感じられない。自分のことではない、遠くの出来事を語っているかのようだ。

多くの人たちが内心、安倍政権に疑問を感じている。しかし、それに対して自分から態度を示そうとはしない。太平洋戦争後、日本の指導部の多くの人たちが「内心では戦争には反対だったが、それを言い出せる空気ではなかった」と述べた。人によっては今の状況が戦前と似ているという。そうなのかもしれない。きっと日本人は敗戦から大事なことを学ばなかったのだろう。

一部の人たちは押し付け憲法だという。たしかに憲法は日本人が自分たちで勝ち取ったものではない。それは民主主義も同じだ。自分たちで勝ち取ったものではなく、たなぼたのように転がり込んだものだ。人は手に入れるのに苦労したものは大切にする。でも簡単に手に入ったものは邪険に扱う。民主主義と口では言いながら、戦後日本は経済発展のみに力を注いでいたのではないか。

国民主権も基本的人権も平和主義も、多くの人たちにとっては当たり前にあるものだった。必死で守る必要も感じず、それらについて考える時間も取らなかったのだろう。僕自身、教育の過程でそれらについて深く考えさせられることはなかった。試験に出るから、用語と簡単な内容を覚えた程度だ。

いま、旧優生保護法に基づく強制不妊手術が問題になっている。法律が出来たのは1948年だ。憲法はすでに手にしている。なぜ基本的人権という観点が働かなかったのか。憲法9条を掲げ平和主義を唱える。でもそれは沖縄に基地を過剰に集中させ、自衛隊に負担をかけこることで成り立っていた、本土の表面的な平和でしかなかったのかもしれない。

そして「あとは国民の判断」と安倍首相は言った。これは国民に「主権」を問うているのだ。あなたたちは主権者としてどう判断するのか、と。賛成であれ、反対であれ、国民は自らの考えを態度を示さねばならないだろう。問われているのだから、答えねばならない。黙っていたら、誰も忖度などしてくれない。このまま安倍政権が続けば、おそらく彼は憲法改正まで突き進むだろう。彼はそのために政治家をやってるのだから。そして憲法改正された社会では、主権も人権も平和も制約されるだろう。自民党の改憲案を読めばわかる。

憲法改正された社会と憲法改正されない社会、どちらの社会になっても日本は続く。そこで人は生まれ、生活し、死んでいく。日本はなくならない。しかし実現するのはどちらかひとつだ。それが唯一の現実の社会となる。自分が生き、生活する社会のありようを自分で選ぶ。人としてごく当たり前のことではないかと思う。選ぶことを放棄するのであれば、自由や権利がなくなるのも仕方がない。
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「調整中」?(そこが重箱の隅だ)

2018年03月26日 | 雑文
地下鉄のホームには電光掲示板がある。現在の時刻、次に来る電車の行き先、到着時間などが表示されているヤツだ。何日もの間、利用している駅の電光掲示板に「調整中」と書かれた紙がずっと貼られていた。

「調整中」。何度も見ていると違和感が湧き上がる。言葉づかいとして少しおかしいのではないか。

たとえば「食事中」という言葉がある。まさにその時に食事をしているということだ。「勉強中」もそうだ。いまさまに問題を解いていたり、参考書を読んでいたりするから「勉強中」と言う。

お菓子を食べながらテレビを見ている子どもが「勉強中」と言ったらどうだろう。「何をぬかすか。お前は遊んでいるのであって、勉強などしていない」と叱るだろう。

「調整中」と紙の貼られた電光掲示板を、誰かが調整している姿を見たことは一度もない。どこか別の場所から遠隔操作で「調整作業」をしたり、小人たちが電光掲示板の中で必死に調整しているとでもいうのだろうか。そんなことはあるまい。

電光掲示板は「故障中」なのだ。紙が貼られたその時からずっと故障していて、修理をしていないのだろう。でも「故障中」という紙がずっと貼ってあると、何もしていないと受け取られるかもしれない。利用者からクレームが来るかもしれない。だから「調整中」という言葉を使っているのだろう。

気持ちは分からなくもない。トラブルを未然に防ぐための策かもしれない。しかし実際は「調整中」ではなく「故障中」だ。トラブルを未然に防ぐという、自らが欲している状態を手に入れるために、実際とは異なる「言葉」を使う。人は言葉を通してものを見る。実際と異なった言葉を出来事に貼り付ければ、ゆがんだ現実が立ち現れる。

自らが欲する現実だけを見ようと言葉を利用する。あるいは、厳しい現実から目をそらすために言葉を利用する。そういう言葉づかいが増えている。狭い世界で短期的には成り立つかもしれない。しかしそのツケは確実に溜まり、いずれ精算を求められる。言葉は人間の道具ではなく、言葉自体に力があるからだ。
出来事と言葉がなるべくズレないようにすること。言葉を大切に使うこと。それが現実を大切にすることになる。言葉により実際とは異なる現実を作り出そうとすることを「改ざん」という。それはゆがんだ現実を作り出そうという悪巧みであり、いずれ精算を求められることになる。
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卒業式で考えたこと

2018年03月25日 | 雑文
金曜日、小学校の卒業式に出席した。自分の子どもの卒業ではない。去年までPTA会長をしていたから招待されたのだ。卒業式の形式は基本的には毎年同じだ。(卒業生の入場、ピアノの合図で開式の敬礼、国歌斉唱、学事報告、卒業証書授与、区長告示の代読、校長式辞、来賓祝辞、卒業生の言葉、在校生の言葉、そして退場。)

違うのは、卒業式を行う人々の顔ぶれだ。毎年ちがう子どもたちが卒業する。校長は数年ごとに代わる。告示代読の教育委員は毎年違う、来賓代表のPTA会長も数年で代わる。そこに現れる人たちはいつも違うが、毎年、同じ式が続けられる。卒業式の主役は「式」そのものであって、そこに参加する人々は式のための存在ではないかとさえ思えてくる。

式を見ながら、一昨年、去年の卒業式を思い浮かべる。卒業証書を受け取っていた子どもたちの姿。校長の式辞、卒業生と在校生の言葉の交換、そして自分が卒業生に語った祝辞。目の前で現実に行われている卒業式を眺めならが、ほかの卒業式を思い浮かべる。

だんだんと不思議な気持ちになってくる。自分は過去に実際にあった卒業式を思い浮かべているのか、これから未来に起る卒業式を想像しているのか。そのあたりが曖昧になってくる。思い浮かべている像に手応えはある。すごくリアルだ。でも、過ぎてしまった出来事なのか、これから起る出来事なのかわからなる。そして、思い浮かべている卒業式が目の前の卒業式と重なってくる。

過去や未来や現在の卒業式はそれぞれべつに存在しながら、それらは1つの卒業式のようでもある。存在するのは現在のみでなく、過去は過ぎ去ったものでなく、未来はいまだ目にしていないものでもない。現在に過去や未来が含まれることで、現在が豊かで厚みのあるものとなる。(「時は飛去するとのみ解会すべからず経歴なり」とは道元の言葉だ。)

過去と未来を現在に含ませ厚みを持たせるには、卒業式のように形式を繰り返すのが効果的なやり方だろう。同じ形式を繰り返すことで、内容の共通性を担保できるからだ。式の進め方だけでない、そこで行われる1つ1つの言動もかなり縛られたものとなっている。

校長の式辞であれ、区長の告示であれ、来賓の祝辞であれ、使える素材はかなり限られている。卒業式で触れねばならないことを辿っているうちに、時間も経ち、話すこともそれほどなくなる。

卒業生にお祝いを述べる。保護者にお祝いを述べる。学校関係者や地域の人々にお礼を言う。近ごろの日本人の活躍の例を挙げ、君たちにも無限の可能性があると卒業生を激励する。これはかなり一般的な形だと思う。下手をすると話しがかぶり、誰もがオリンピック選手の活躍を褒め称えることになる。(そうならないためにどれだけ工夫できるかが、壇上で話す人間に求められてくる。)

だから、卒業式というと誰もが同じような出来事を思い浮かべることができる。あるいは共同の幻想を持つことができると言ってもよい。人々が共同体を作るためには、共通の幻想が必要だと説いたのは吉本隆明だ。(そして共同幻想は必ず個人の幻想と逆立ちした形で現れるとも言っていた。)

子どもたちが1人ひとつずつセリフを言いながら、小学校生活を振り返る場面がある。入学式でドキドキした1年生。遠足で友達と弁当を楽しく食べた2年生。何度も練習して音楽会を成功させた3年生。初めて親元を離れてみんなで宿泊した4年生。連合陸上で良い成績を残した5年生。そして小学校のリーダーとしてみんなを引っ張った6年生。という感じで、6年間を振り返る。

私が子どものころにも同じようなことをした。そして長男の卒業式でも、一昨年、去年の卒業式も同じだ。1年ごとに振り返る形式もそうだが、語られている中身もほとんど変わらない。そうすることで、みんなが同じ経験をしたかのような物語を持つことができる。それぞれの出来事に感じていたことは、一人ひとり確実に違うはずだ。でも、それをひとつの物語として語ってしまう。

10代の半ばからこういうものに違和感を持ち続けていた。どちらかというと、個性を認めない、形式的で、全体的なやり方に見えていた。いまでも基本的にはそう感じている。でも少し考えが違う。ひとつの物語そのものは良くも悪くもない。人々が共に生きていくためには共通の物語は必要なのだ。物語がなければ、リバイアサンではないが万人の闘争が始まるかもしれない。

われわれはどんな物語を選ぶか。大切なのはそれだろう。大きな物語という意味では、資本主義という物語が限界に来ている。民主主義という物語も疲弊している。自己責任という物語が突きつけられている。嘘をついても構わないという物語が語られ始めている。生きることは経済活動をすることだという物語が世界を覆いつつある。それらが渾然一体となってひとつの物語を形作っている。

その物語に多くの人は無関心なようだ。自分たちを飲み込んでいる物語がどのようなものかも知らずに、何かを演じさせられている。物語に演じさせられているのに、物語の存在を知らないから、主体的に振る舞っているような気分になれる。自分の声で、自分の言葉で語っているつもりが、実際には物語によって演じさせられている。(アマゾンのおすすめから選択することが主体性の発露だと思うようなものだ。)だから、言葉が相手に響かない。

おめでたいときには「おめでとう」としか言えない。でも、その「おめでとう」は卒業式だからの「おめでとう」ではダメだ。おめでたいからこそ、自分の声、自分の言葉で「おめでとう」と言えなければならない。そのためには、卒業がなぜ「おめでたい」のか、自分で考えねばならない。

そんなことを考えながら卒業式に臨席していた。では、実際の卒業式はどうだったかというと、とてもよかった。区長の告示が定型的なのは仕方がないが(本当はよくないだけど)、校長の言葉は子どもたち一人ひとりを思い浮かべさせる良いものだったし、会長も大物らしさを発揮した話し方だった。

卒業式の形式を国ごとに比較すると、その国の特徴、つまり国民性が見えてくるのではという気がした。
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異なる現実を調整する

2018年03月18日 | 雑文
先週の日曜日、国会前にちょっとだけ顔を出した。原発の再稼働反対と、脱原発社会を目指す集まりがあったからだ。原発がなくても電気は足りているし、国民の大半は脱原発を支持しているし、世界は再生エネの方向に舵を切っているのに、日本の政権は意地でも原発を続けようとする。日々の生活の中で原発のことを考えている時間はないが、震災から7年の日くらいは時間をとって考えようと国会前に足を運んだ。

永田町駅から国会図書館の横を歩き、国会の正面に向う。少しずつ騒がしい音が聞こえてくる。いつもならドラムやそれに合わせたコールだが、ちょっと違った。右翼の街宣車が流す独特の音楽だった。きっと右翼が街宣車を走らせながら、音楽を流しているのだと思った。ある立場を表明する人たちに対して、反対の人たちがカウンターをあてることはよくあることだ。

そう思っていたら、大違いだった。集会をしている人たちを囲むように、右翼の街宣車が何台も路上に駐車され、大音量で音楽をかけたり、文句を言っているのだ。車から出てきてその辺を歩いたりもしている。べつに参加者に何かをするわけではないが、ちょっと怯えている人もいた。警察もいるが、とくに何をするでもない。

政治家とか関係者とかがいろいろスピーチをしていたが、街宣車からの音楽や文句でほとんど何も聞こえない。参加者の一番端の方にいたのでなおさらだ。原発のことを考えるより、その状況について「社会の分断」という言葉を中心に思いを巡らしていた。すると「なんだよ!じじいと、ばばあ、ばかりじゃねえか!」という声が聞こえた。

そうなのだ。この手の抗議集会に来ているのはどちらかといえば高齢者だ。(安保法の時、シールズが取り上げられ、若者が声をあげていると言われたが、集まっていたのは高齢者も多かった。事実、安倍政権支持率は高い。)右翼の人たちはそんな事実も知らずにいたのだ。そして、売国奴とか国賊とか北朝鮮の手先とか言っていたのだ。

反原発の集会に集まっているのは、ヘルメットにゲバ棒でももった屈強な若い活動家たちだ。それこそが自分たちが戦う相手にふさわしい。そう思っていたのだろう。でも目の前にいるのは、じじい、ばばあだ。自分の欲する敵の姿を勝手に思い浮かべ、それと戦っているつもりだった。まぼろしとの戦いだ。やれやれ、いったい何をやっているのか。

原発の再稼働反対のデモに初めて参加したとき、歩道から若い男に「北朝鮮に帰れ」と言われたことがある。一瞬、思考がフリーズした。言葉の意味はわかるが、状況のもつ文脈に収まらない。「何だろうね、あれ」、周りの人たちも笑いながら困惑していた。(その男は胸に乳飲み子を抱えていた。その子の将来を思うとなんともつらかった。)

だいぶたってからその理由がわかった。どうも日本の核武装を求めている人にとっては、原発はプルトニウムを取り出す施設の一部である。その原発に反対することは、日本の国力を弱めようとする反日勢力である。反日といえば北朝鮮だ。だから原発再稼働の反対をしているのは北朝鮮絡みの人間だ。ゆえに「北朝鮮に帰れ」というわけだ。

なるほど、話はつながっている。でもそれは現実とは違う。まぼろしだ。しかし彼にとってはそれが現実だろう。反原発は北朝鮮と関係ないと思っている私たちこそ、まぼろしを見ていることになる。私と彼の間で起っているのは、共通の現実に対しての解釈の違いではない。現実そのものが異なっているのだ。

同じ場所で同じ出来事を生きているが、それぞれが異なった現実を生きている。それが私たちのありようだ。でもその事実を見ようとせず、同じ場所で同じ出来事生きているから、みんな同じ現実を生きていると思い込もうとしている。

この世界とサヨナラしないかぎり、私たちは同じ場所で同じ出来事を生きざるを得ない。世界は異なる現実が多様に混在する時処だと前提すれば、異なる現実たちをどのようにすり合わせて安定させるかが課題となる。しかし現実はひとつであるとすれば、その現実と異なるものはまぼろしとなる。それは正すものであり、戦うものとなる。

戦後の日本社会は、経済的に発展することで、みんなでパイを分けあうことができた。それにより生活が豊かになった。それがひとつの現実のようなものを成り立たせていた。しかしバブル崩壊後、経済的な成長による豊かさの分配という現実は崩れた。それにより、異なる現実がいろいろなところで姿をあらわし出した。それがおそらく現在の混乱であり、分断の原因なのだろう。

異なる現実が多様に生きているとすれば、あらゆる現実を現実として生かさねばならない。しかし現実がひとつだとすれば、それと異なる現実はまぼろしとなる。まぼろしをこの世界から消し去っても問題はない。気に入らないから、逆らったから、消してしまえ。

自分が見ている現実のみが現実だと無邪気に信じていることは、本当に危険だ。そう自覚しながら、反対の意思表明をしなければならない。その難しさを抱えながら、先週は月曜日、水曜日、金曜日と首相官邸前に足を運んだ。今週も足を運ぶことになるだろう。異なる現実がうまく調整されるために。
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