とんびの視点

まとはづれなことばかり

雨の中を走る

2020年07月26日 | 雑文
午前中、雨の中をランニングした。空の向こうから晴れ間が広がり、頭上の雲も薄くなってくる。雨が少しずつ小降りになり、太陽の熱が伝わってくる。湿り気を帯びたむっとした空気に包まれる。雨なのか、汗なのか、水滴が顔を流れる。ゆっくりと土手を走る。
いつものことだが、雨の土手に人はないない。時おり、物好きなランナーを見かける程度だ。雨で土ぼこりを流された緑はくっきりとし、水滴のついた細長い草や、遠くの芝生が映える。何日も降り続いた雨で川の幅が広がり、流れは泥色に濁っている。
思えば、かれこれ25年以上もランニングを続けている。最初の5年くらいはランナーというよりもジョガーという感じだった。5kmほどの距離を週に何回か走る程度だった。(自分では「けっこう走っているな」と思っていた。)
その後の10年くらいは、割と真剣に走った。フルマラソンも30回近く完走し、サロマ湖ウルトラマラソンも完走した。月200kmを目標に、時間をみつけて走るようにしていた。
腰を痛めてからのこの10年近くは、日常的に走っているけど、ジョガーとランナーを行ったり来たりだ。距離は5km程度、長くても10kmだ。5kmだと肉体的なリフレッシュにしかならない。10kmだと精神的にリセットされ、心の脂分や汚れが汗といっしょに流れ出て、良い感じの自分になれる。しかし、その後の腰痛がひどい。なかなか上手くいかないものだ。
今日は雨の中、8kmほど走った。腰は少し痛むが、心の脂分や汚れは減った。精神的にも少しリセットされたおかげで、文字を書こうという気になった。頭の中で考えて完結してしまうのと、こうして文章にすることでは、たとえ考えた内容や結論が同じでも、かなり違うことのようだ。文章にすることで誰かに読んでもらえるから、というのではない。読まれるか否かは二の次だ。(そもそも、他人が読むほどのことは書かれていない。)
頭の中でわかっていること、つじつまが合っているように感じていること。それらを文章にする時の、困難さが大事なのだと思う。上手く言葉にならないことが、何とか言葉になった時の、すっと通り抜けたような感覚が心地よいのだ。
その感覚は不思議なことに、ランニングでの精神的なリセット感とすごく似ている。
思えば、腰を痛める前は、長い距離のランニングと習慣的に文章を書くことがセットになっていた。いつの間にか、どちらもダメになっていた。もしかしたら、自分にとっての大事なサイクルを、この10年近く失っていたのかも知れない。走りながらそんなことを思っていた。
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コロナ「禍」

2020年06月21日 | 雑文
言葉。すごく意図的に使われることもあれば、とくに考えることもなく口にされるものもある。「コロナ禍」。不思議な響きの言葉だ。初めて耳にした時「コロナ下」と思った。「禍」などという言葉を、私たちはふだん使わない。音が意味と繋がらなかったのだ。誰かが何となく口にした言葉とは思えない。誰かが何らかの意図をもって選んだに違いない。

ある出来事に言葉を与えることで、その存在が何者であるのか決めることが出来る。ある犬に「太郎」と名づければその犬は「太郎」になり、ある猫に「タマ」と名づければその猫は「タマ」となる。我々を何と名づけようか?

今回のコロナを巡る一連の出来事を「コロナ禍」と名づけることで、社会に起こっていること、私たちが経験していることは「コロナ禍」となった。そして私たちは「コロナ禍」という言葉を手がかりに、さまざまな問いを立てることになる。コロナ禍」とは、いったい何なのか?「コロナ禍」の経済への影響はどの程度か?「コロナ禍」に対して1人1人が出来ることは何か?などなど。

それぞれの「問い」に合わせて解法を考え、答えをだす。そして実践する。しかし、それらはすべて、「コロナ禍」という言葉の中でしかない。

「コロナ禍」。最初に耳にした時からずっと疑問に感じていた。自分から口にしたことはほとんどない。口にすると、受け売りの知識を披瀝するような居心地の悪さを感じる。

そんな中、都知事選が始まった。山本太郎の街宣を映像で見て、なるほど、と思った。彼はコロナによる一連の出来事を「コロナ災害に指定しろ」と訴えていた。

言葉の分かりやすさからしても、「禍」よりも「災害」のほうが良い。聞き違えることもない。何か喜ばしくない出来事が起こった「禍」よりも、さまざまな被害を社会や人々に与える「災害」という言葉のほうが、いまの状況に合っている。何せ、政府が「歴史的緊急事態」と閣議決定しているような状況なのだ。

今回のコロナによる一連の事態を「コロナ災害」と名づけると、それは「コロナ災害」として存在することになる。当然、私たちは「コロナ災害」に対して問いを立て、解法を考え、答えを出し、実践しなければならない。

山本太郎によれば、コロナが「災害」であれば、「災害対策基本法」を適用できるそうだ。そうなれば、例えば、収入がなくなって家賃が払えない人にも、国が家賃分の金銭を補助できるそうだ。詳しいことはわからない。しかし、コロナが「禍」ではなく「災害」であれば、他にも出来ることがたくさんあるそうだ。

「コロナ禍」という言葉は、たまたま誰かが言い出して、社会に定着したものなのか。あるいは、誰かが意図して名づけたものなのか。それはわからない。しかし、コロナが「災害」ではなく「禍」と名づけられたことによって、コロナは「禍」となり、私たちは「コロナ禍」を生きることになった。

言葉のもつ力は恐ろしいものである。
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相手の力を落とすより、自分の力を着けよう

2020年02月05日 | 雑文
世間は受験シーズンも本番ですね。

じつは我が家にも高校受験を控えた男子がいます。



1月半ば、業者の実施する最後の模擬試験がありました。

学校の友達と同じ教室で試験を受けたのですが、休み時間になると彼がやたらと話しかけてきたそうです。

「あの難しい問題は解けたか」とか「今回のテストの結果は大事だ」とか矢継ぎ早に。

ちょっと面倒くさく、息子は違和感を持ったそうです。

友達は明るくて、性格も良く、成績もトップクラスです。

学校の先生がすごく評価をするタイプの生徒です。



あとでわかったことですが、彼は「塾のアドバイス」に従っていたそうです。

模擬試験の休み時間には、出来なかった問題などの話をして、周りの人間を混乱させろ、とのことです。

その塾では、倍率5倍でも前後左右の人間を落とせば君は受かる、などと指導しているそうです。



やれやれ、という感じです。



人を混乱させる暇があったら、試験の休憩時間に自分の勉強をすればよいのに。

自分の力をつけるより、相手の力を落とすことで、相対的な優位に立つ。

中学生にそんなことを教えて、大人として恥ずかしくないのかと思いました。



狭い世界で、相手のパフォーマンスを落とし、自分の優位を保つ。

そんな人たちが大人になって、会社組織やら、共同体やら、国家を作ったとする。

非常に脆弱な人々の集まりにしかならないでしょう。

狭い内側だけを見ていれば良いかも知れないが、外の相手には通用しない。

グローバル化とか言われている時代に、なんとも、とんちんかんな話です。



とはいえ、これは未来を背負う子どもたちだけの話ではないかもしれません。

(実際、そういうことを教えているのは、いま現在の大人ですから。)

長い時間をかけ、少しずつ社会が変化してきた結果かも知れません。



社会の変化は、自分の顔の変化のように、気付きにくいものです。

昨日と今日、今日と明日では私たちの顔はほとんど変わりません。

だから、自分は変わらずに、ずっと同じ顔をしているような気がする。

でも10年前の写真を出して、いまと見比べてみれば、その変化は歴然としています。



バブルがはじけ、平成に入った頃から日本の景気がぱっとしないものになりました。

年功序列や終身雇用というそれまでの日本型の経営に疑問が呈され、

成果主義や能力主義という言葉が人口に膾炙されるようになった。

おまけに何かの冗談かのように「自己責任」という言葉が使われ出した。



世の中は変わっていくのだな、このままではいられない、という雰囲気はあった。

とはいえ、昨日と今日、今日と明日で見れば、同じような毎日が続きます。

リストラで職をなくしたり、正社員になれなかったなど、特定の個人がしわ寄せを受けることはあった。

でも、自分がその当事者にならない限り、昨日と今日、今日と明日は同じような毎日だった。



それでも実態は少しずつ変わっていたのだと思う。

時おり、そういったレポートがテレビやラジオ、新聞などで報じられていた。

例えば、社内で成果主義、能力主義的な査定をすることによって、上司や部下や同僚が敵になった。

年功賃金であれば、同じ会社の人間は基本的には力を合わせる仲間だと思える。

しかし、社内で競争をあおり、能力や成果で賃金に差をつければどうだろう。

上司や部下や同僚は仲間だ、手放しではそう思えなくなるかも知れない。



ましてや、成果や能力の査定が、社内という閉じられた世界での相対的なものであれば、

自分の能力や成果を上げることよりも、相手の能力や成果が上がらないことを願う人も出るだろう。

意図的に相手を失敗させることはなくても、積極的に何かを教えることには躊躇したかもしれない。

そのような集団が外部の集団に比べて、どれほどの素晴らしい成果を上げられるというのだろうか。

(あるいは外部の集団も似たようなことをしていたのかもしれない。)

ましてや「自己責任」の時代、成功することよりも失敗しないことを内面化した時代だ。

よほどの能力や自信がなければ、チャレンジをすることなどないだろう。



昭和の終わりと、ほぼ30年後の現在では、かなり社会は異なったものになったと思う。

昨日と今日、今日と明日はほとんど変わらない。そんな感じで30年が過ぎたのかもしれない。

しかし30年前と今日の社会の違いは、30年前の自分といまの自分と同じくらい違うかもしれない。



そう考えれば、大人たちが子どもに、自分の力をつけるよりも相手の力を削ぐことを教え、

子どもたちが律義にそれを実践することは、極めて自然なことなのかも知れない。



狭い世界で相手よりも強いことを示して満足する。ただのマウンティングじゃないかと思う。

そんなことを続けている人、そんなことを続けている人たちの組織や共同体や社会、

そんなものが高いパフォーマンスを発揮できるというのだろうか。疑わしいと思う。



他人を混乱させ相対的な優位を保つのではなく、まずは自分が力をつける。

それから他人と協力して、そして外に開かれ、よりよいパフォーマンスを発揮する。

その方が、自分も他人も共に、心地よく仕事が出来るだろう。
そっちの方がよいと思う。
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憲法改正について

2019年05月24日 | 雑文
東京は初夏のような天気だ。明日はトランプ大統領が来日するようだ。相撲観戦での升席占領とかトランプ杯が話題になっているようだが、個人的にはまた横田基地から入るのかが気になっている。前回の来日は横田基地から日本に入ってきた。自国の軍事基地から相手国へ入るということは、対等な関係とは言えない。植民地に対する宗主国のような振る舞いだ。日本をバカにしないでもらいたいし、バカにされたら怒って欲しい。

さて、ランニングは良い調子だ。今日までで5月は165km走った。このまま行けば180kmは確実だ。距離として充分だし、その分、少しずつ走力も心肺機能も戻ってきた。体重が以前より2kgほど多いので、ちとドタバタしている。問題は来月以降だろう。ゴールデンウィークもないし、天気が崩れる日も増えるだろう。そして暑さも厳しくなる。どんな夏を過ごせるかが、今後のランニングのポイントになりそうだ。

さて、とりあえず今日も何か書く。本来、ランニング中に熟成されたものを言葉にするというのが理想だが、まだうまくいかない。だから、何でもよいのでとにかく書く。まばすランニングとブログを書くことを平行させる。そしてどこかの段階で、両者をつなげる。そんな感じだ。

憲法改正について。この先、安倍政権は「消費税を上げないことの信を問う」という形で衆議院を解散し、衆参同一選に持ち込むのではないか。そして与党で3分の2の議席を確保して憲法改正の発議をするのではないか。そう言われている。特定秘密保護法、安全保障法制、共謀罪などを成立させた経緯を見れば、憲法改正に着手するのは確実だと思う。そこでいくつか書いておく。

護憲派、改憲派という名称が少し気になる。護憲派というと憲法を変えることに一切反対している人というイメージがあり、改憲派というと憲法を壊そうとしている人というイメージがある。しかし、憲法には改正についての条文(96条)があるので、改正すること自体は護憲の範囲内である。「変える、変えない」で、「護憲、改憲」というやり取りをしていると、レッテル貼り印象操作のレベルで話しが進み、本当に考えねばならないところに行き着かないまま、国民投票になってしまう。

個人的には、今回の憲法改正(安倍首相は2020年と言っている)には反対である。理由は簡単だ。今の流れで憲法改正を発議し、国民投票を行うとしても、ほとんどの国民が憲法の条文をきちんと読むこともなく、投票行動を起こしてしまうだろうからだ。(あるいは棄権する。)当人は自分で判断したと言うかも知れないが、結局は印象やイメージで決めたり、誰かの意見に引き面れる(広告の問題だ)ことになる。ビジネスの契約書にしろ、個人的にローンを組むにしろ、契約内容を読まずにハンコを押す人はいないだろう。ネット上で利用規約を読まずに「同意する」をクリックするのとは違うのだ。

日本国憲法をきちんち読んだことがある、と言える国民が、いったいどれくらいいるのだろうか?それほど多くはないだろう。(世論調査などで憲法改正への賛否を問うなら、まず、すべて自分で読んだことがあるかを問うて欲しい。)唖然とするのは、街中での「憲法を変える必要があるか」との質問に対して「変える必要があるなら変えてもよいと思う」などと答える人がいることだ。「必要があるか」「必要がないか」を具体的に聞いているのに、「必要があるなら変えてもよい」と答える。本人は答えになっていないことに気付いていない。こういう人は、国民投票をするのに適切な状態とは言えないだろう。まず、自力で憲法を読んで、自分なりに考え、判断して、それから投票して欲しい。

少なくとも、投票結果の流れを決める大多数の人は、自分で憲法を読んだことがある人でないとまずい。知識も判断基準も持たない民衆が、その場の雰囲気で国の枠組みを変えても、良いことなどあるはずがない。だから、いま憲法を変えることを主張している人たちこそ、国民に憲法を読むことを訴えるべきだ。憲法にはいったい何が書いてあるのか知ってくれ、と。

なぜ、第一章が天皇なのか、9条に問題はないのか(自衛隊と沖縄へのしわ寄せ)、12条が国民に求めているものの厳しさ、25条の健康で文化的な最低限度の生活は今の最低賃金で達成できるのか、36条に拷問や虐待の禁止があるのはどうしてか、公共の福祉と公の秩序は同じことなのか、などなど変えることへの賛否を表明する前にやっておかねばならないことがある。(それをやらずに賛否を表明することは無責任なことだ。)

今の上皇が2年前に天皇退位の意志を示した「お気持ち」を発表した。その時「象徴として、国民統合の象徴として」と述べた。憲法1条の「天皇は、日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であって」を受けたものだろう。でも、なぜ「日本国の」と「日本」をわざわざ抜いたのか、すごく気になった。そして、あの時、天皇が訴えたのは、日本国民自身が象徴天皇について考えて欲しい、というものだった。あの時、天皇は自らの退位の問題をコアに、日本のことを自力で考えるように国民に訴えたのだと思う。

たぶん、多くの人は考えなかっただろう。メディアの主導する平成から令和へのお祭りイベントと化してしまった。自分たちの社会について考える大きなチャンスをひとつ潰した。憲法改正も本来、そういうチャンスなのだ。「改正」とは、良くすることだ。良くするためには、現状を知らなければならない。現状とは、今書いてある条文そのものである。それを読まずして、良くすることなど出来やしない。
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トイレ掃除と心を磨くこと

2019年05月21日 | 雑文

今朝は目覚めが悪かった。目覚ましで夢を中断されて、現実世界に引きずり出された。夢の中では、1日の仕事が終り、ちょっと疲れを感じながらも、よい感じで眠気がやってきて、まさに布団に入って眠りにつこうとしているところだった。さて、これから心地よい眠りの世界だ。そう思った瞬間にアラームで目覚める。何ともいやな感じだった。すごく身体が眠くだるい。外は雨が降っている。きっと、低気圧の影響で身体が重く、だるいのだろう。

雨が降るとランニングが出来ない。ランニングをすることで、ブログを書けるようにする。それによって、身心ともに良い状態に持っていくというのが令和元年の目論見だ。雨が降ると走れない。走れないからといって書かないと、あっという間に元の木阿弥だ。断片的でも良いので何か書くことにする。ちょっと走っては息切れして歩き、また思い出したように走り出す。そんな未熟なランナーのように。

ランニングに関しては、昨日の時点で152kmとなった。天気が崩れず予定通りに走れれば180kmくらいは行けそうだ。距離だけ言えば、年に数回フルマラソンを走っていたときと同じくらいの月間距離だ。(スピードはぜんぜん遅いけど。)でも、今月それだけ距離を稼げそうなのはゴールデンウィークがあったからだ。問題は来月からだ。最低でも月間平均150kmは走りたいものだ。(真夏になるとこれまた厳しくなる。)

息切れ。歩く。そして走り出す。(要するに、閑話休題)

Podcastを聞いていたら、「掃除で心を磨けるか?」という話しをしていた。話しとしては、素手でトイレの便器を掃除すると心が磨ける、ということらしい。厳密には「掃除で‥‥」というより「素手でトイレを掃除することで‥‥」と言わないと、誤解を生じそうだ。番組では基本的に批判的な意見が述べられていた。素手でトイレを掃除したからといって心を磨けるはずがない。ひどいことを子どもたちにやらせている。掃除と心を磨くことは関係ない。そんな感じの意見だった。

僕としては、素手でトイレの掃除をすることを学校で教員が生徒に(あるいは権力関係の中で)強要するのはひどいことだと思うし、やってはいけないことだと思う。ただ、素手でトイレの掃除をすることで心が磨けるか、という問いはまったくべつの次元で考えた方が良いのではないかという気がする。

素手でトイレの掃除をすることで心を磨くことは可能だと思う。しかし、心を磨くために素手でトイレを掃除する必要はないという意見だ。やりたいという人がいれば、禁止するつもりはない。勝手にやればいい。トイレを掃除を通して磨かれた心で、社会生活を送って欲しい。きっとその人の周りはよい社会となるだろう。上手くいかないのであれば、よりたくさんのトイレを掃除すれば良い。ただ、やりたくない人に無理にトイレ掃除をやらせても、心は磨けない。相手の心を押しつぶして、洗脳することにしかならない。自分がよいと思っていることを相手にも強要する、それを相手のためだと本気で思っている、そんなややこしい人にしかなれない。

個人的にはこの話しのポイントは「心を磨くことは出来るか」だと思う。(そう書いて「心を磨く」という言葉が抽象的過ぎると気付く。)たとえば、物を大切にする人と、物をいい加減に扱う人、のどちらが「心の磨かれている人か」と問うたら、ほとんどの人は前者を選ぶだろう。困っている人を助ける人と、困っている人につけ込む人。お金よりも命が大事と思う人と、お金ためなら他人の命などどうでもいいという人。どちらも,前者の方が「心が磨かれている」と言うだろう。

そして、現実的には心の磨かれていない人はいる。物をいい加減に扱う人、困っている人につけ込む人、お金のために他人の命を犠牲に出来る人。たしかにたくさんいる。そういう人たちが良くなれるのだとすれば、心を磨くこともできることになる。実際、そういう人たちは「心を磨く」べきなのだ。だとすれば、そのための方法に何を選ぶかが鍵となる。「素手でトイレ掃除」はないだろう。ただ、素手でトイレ掃除というものが選ばれてしまうのもわからなくはない。

(ここからはかなり想像が入る。)そもそも、お寺などの修行のひとつとしてトイレ掃除があったはずだ。布きれ1枚できれいにトイレを掃除するというものだ。これが本当にきれいになるそうだ。とくに素手でやらないと、布を通して伝わる便器の状態(つまり汚れの状態)がつかめず、磨き上げることが出来ないそうだ。(僕自身、職人の息子としてこの感覚の大切さについては、はげしく同意する。)とはいえ、これは(おそらく)総合的な修行のプロセスにきちんと含まれるから意味を成すのであり、たんにトイレを素手で掃除すれば良いというものでもないだろう。

もうひとつ。今で言うとトイレは単に汚いものという印象だが、昔は少し違う意味を持っていたのだと思う。ひとつは肥料として。もうひとつはきちんと管理しないと疫病が広がる元として。(水害の時に、肥だめなどにフタをして重しの石を載せることで、疫病の蔓延を予防するということがあったらしい。)つまり、トイレを掃除とは、たんに人が嫌がる汚いものを懲罰的に行わせることでなく、疫病の予防という意味が含まれていたのではないかと。確かにやっていて心地よいものではないかも知れないが、たんなる懲罰でなく、人々の役に立つ大切な行為を行うという意味があったのではないか。人のいやがることを人々のために行う。それができる人は、心が磨かれている、と言えなくもない。

そうであれば、トイレを素手で磨くことで心が磨ける、とは令和においては言えないだろう。何らかの大きな宗教的な修行の一環に位置づけられるわけでもないし、犠牲的精神で疫病の蔓延を防ぐようなことにもならない。でも、心を磨くことは必要だと思う。掃除が面倒だからといってルンバを買って、ルンバに掃除をさせているあいだ、くだらないことをやっているようだと、それこそ「素手でトイレを掃除しろ」と言われかねない。でも、素手でトイレを掃除しろって、他人に言う人のその心は、とてもじゃないが磨かれているとも思えない。ただのややこしい人だと思う。

息切れ。そして時間切れ。
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とにかく走る、とにかく書く

2019年05月18日 | 雑文
昨日に続き、今日もランニングをした。自宅から隅田川沿いに出てしばらく走り、五色桜大橋で荒川の土手に移り、上流に向って岩淵水門まで走る。そこで折り返し、来たコースを家まで戻る。ほぼ12kmの距離で、腰を痛める前のスタンダードコースだ。今日も書くために、走りながらいろいろ考えようとした、しかし相方と一緒のランニングだったので、時おり言葉を交わすなどし、うまく考えられなかった。だから、とりあえず、思いのままに書く。とにかく書く。

相方と一緒ではあったが、時おりハイになるというのか、ゾーンに入るというのか、そんな時間があった。走っているが、走っている自覚もなく、体が自然と動いちゃってて、でも自分はいつも自分として同じ場所にいて、動いているのは地面のように感じられる。そして、ただ、ただ、規則正しい足音だけが耳に入ってくる。走っていて最も心地よい時だ。

フルマラソンでもスタートから40分くらい(僕の走力だと7〜⑧kmくらい)のところで、そんな感じになる。僕だけでなく、周りもそんな感じだ。スタート直後から続くざわざわした感じや、知り合い同士の会話、ペースの違うランナーたちの交雑した走り、そんなものが5kmを過ぎた辺りから落ち着いてくる。しばらくすると、誰もが自分の走りに没入していく。みんなの足音だけが規則正しく響く。

上手く考えられなかったが、そういう感覚を思い出せたのは心地よかった。(走っていて心地よいことのもうひとつは、過去のランニングが重なって感じられることだ。ただ、これはハイというかゾーンの状態にしか起こらない。)

ランニングを終えて、シャワーを浴び一休みをする。それから、部活保護者会のため次男の中学に行った。ついこのあいだ入部したと思ったら、あと1か月ちょっとで引退だ。時の飛去するのは本当に早いものだ。あるいは、早く感じるのは、次男のバレーボールがそれほど上達していないからかも知れない。次男だけではない。引退を向える3年生はみんな同じようなものだ。なぜか。2年間、あまり質の良い部活が出来ていなかったからだ。個人的には顧問に問題があったと思うが、顧問にも言い分はあるだろうから、細かいことは書かない。(僕以外の保護者や生徒たちも、それぞれ顧問に問題があったと思っているようだ。)その顧問が転勤し、4月から新しい顧問の先生になった。

去年の夏明け、当時の3年生が引退し、顧問とすったもんだした上、次男は部長になった。しばらくして、自分はバレーボール部で活動することには何も求めない、体育会に属していたといえる体力を身に付けるための時間にする、と言った。次男はうまく切り替えられたが、質のよいバレーボールに取り組めていないというのは、他の部員も同じだったに違いない。

新しい顧問の先生が来て2週間後、春季大会があった。2試合とも負けて、1セットも取れなかった。でも、相手ボールをレシーブし(セッターにはきれいに戻らない)、セッターにトスを上げ(高さもネットからの距離も微妙だ)、敵コートに戻せている(アタックとは言えない山なり)。すごい、バレーボールになっている。おまけに、子どもたちの表情がとても良い。保護者たちはみんな大喜びだった。試合後、顧問の先生が、ふがいない試合で、という感じで挨拶(それは初めての顔合わせだった)に来たのに対して、保護者たちは、どうもありがとうございます、と口々にお礼を述べた。(あとで先生に「あれはどういうことなのか?」と次男に尋ねたそうだ。)

その日、帰宅した次男は「初めて、バレーボールを楽しいと感じた」と嬉しそうな声で言った。そして、あそこでああすれば、次はこうする、と(楽しそうに)悔しがって、反省していた。1年の時から、いや2年の時からで良いから、こういう時間が過ごせれば良かったのにと思う。でも、過ぎてしまったことは仕方ない。残り1か月ちょっと、少しでも質のよい時間を過ごせることを願うのみだ。

そうそう、中学の部活をしている時間って本当にすごい。次男の場合、月、火、水、金、土(か日)が基本。週に14時間程度だ。主要5教科のどれか1つも、そんな長時間勉強はしていない。そのことに気付いたとき、部活ってけっこう奇妙なものだと思った。
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環境にやさしい

2019年04月30日 | 雑文
心が狭いのか、いろんな言葉に引っかかる。

たとえば「環境にやさしい」。

そもそも環境を汚染しているのは我らだ。
欲しいものは奪い取り、いらないものは垂れ流す。
環境が弱ってきたので、我らは「環境にやさしい」と言う。

そう言えば、殴ってからやさしくする人がいるそうだ。
お前のことを思っている、お前なしではダメだ、とか言うそうだ。
暴力的なのか、優しいのか、分裂しているのか。
我らの自己認識はいかに。

環境を擬人化して「環境にやさしい」などと言っているなら、
その失礼な言葉づかいに対して、何らかの怒りを表明されても仕方ない。

荒ぶる環境。
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理性の限界を直視したところに保守がある

2018年12月29日 | 雑文
先日の東京新聞で中島岳志氏が「保守思想は人間不完全な存在と認識し、理性の限界を直視する」と書いていた。ポイントは理性の限界を直視する、という点だ。(いささか我田引水的だが。)
己の体力の限界を知るためには、これ以上は無理というところまで、体を酷使せねばならない。であるなら、理性をの限界を知るためには、これ以上は無理というところまで、理を酷使しなければならい。論理で徹底的に考えるということだ。
ぎりぎりまで論理を駆使しても正しさを保証できない。そう気付いたとき、人は自らの不完全さを認識し、謙虚になる。そして「無名の死者たちが積み重ねてきた集合的経験値や良識を大切に」せざるを得なくなる。
徹底的に論理をもって考えることなく、伝統を蔑ろにする者は革新的ではなく、伝統を崇め強要する者は保守的ではない。どちらも考えることしていない。
では自分はどうなのか。徹底的に考えようとしながら、気がつけば日々のお勤めで1日が終ってしまっているような凡夫である。
そしてそんなふうに1年も終ろうとしている。
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日本で違和感を持ったこと

2018年09月25日 | 雑文
先日、たまたま知りあったドイツ人の研究者と話しをした。
日本で違和感を持ったことは何かあるかと聞いてみた。
テレビでの事件報道に違和感があると彼女は言った。
違和感は2つあるそうだ。

1つは、容疑者段階で実名報道をすることだ。
名前だけでない。容疑者の家族とか生い立ちとか、そう言ったものも多く伝えられる。
無自覚にせよ、それらの情報は犯罪と結びつくようになっていることもある。
容疑者は裁判で有罪判決を受けるまでは、たんなる容疑者である。
日本では容疑者が捕まった段階で、ほぼ犯人として報道される。
そのことに違和感を持つ人たちが世界にはいることを、私たちは知っておいた方がよい。
自らの自然な姿は自然に受け入れられるはずだと思っていると、思わぬ痛い目を見ることもあるからだ。

もう1つは、犯罪現場の詳細なレポートだ。
レポーターが事件現場まで行き、どこでどんな風に犯罪が行われたのか、どのくらいの血が流れたのか。
そういう報道に違和感を持ったそうだ。
たしかに日本の報道では、事件を再現させるような報道が多い。
それによって視聴者は何が起こったのかを知ることになる。

こういう報道を繰り返し見ていることで、視聴者は事件を理解するためのフレームを無自覚に手に入れてしまうかも知れない。
どんな(悪い)人間が、どんな悪いことを行ったのか、それを理解することが事件を理解することだ、と。

ふと思った。あらゆる事件報道が、その事件が発生した社会的な背景のみに焦点を当て、解説したらどうなるだろう、と。
人々は、事件が起こるたびに、その社会的な背景を考えるようになるかも知れない。
そして、事件を再発させないために、社会を改善することに意識を向けるようになるかも知れない。

犯した罪は本人が償わねばならない。それは仕方のないことだ。
そしてその手続は、司法と行政がやってくれる。
だとすれば、市井の人々がやるべきは、社会的な背景を考えることだろう。
社会的な背景とは、私たちの生活している社会そのもののことなのだ。
私たちの社会は、なぜそんな犯罪を生み出してしまうのか、と。
結局のところ、それは社会を構成している自分について考えることにもなる。
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学習塾のシャープペンシル

2018年09月14日 | 雑文
子ども中学校の門の近くで、ときどき学習塾のスタッフがシャープペンシルを配っている。コンビニで100円で買えるようなシャープだ。デザインもひどいし、安っぽい感じだが、作りはしっかりしていて、実用に十分に耐えるものだ。そのシャープには塾の名前が印刷されている。ある種の広告だ。

中学生ならシャープペンシルを使うから、シャープを配ろうと思いついたのだろう。筆箱に入れて愛用するとは思わない。それでも机の上に置いてあれば、ときどきは使うかも知れない。場合によっては、塾の名前に気が留まるかも知れない。この前の試験、よくなかったな、塾でも行こうか。そんな風に思うかもしれない。

あるいは、中学生はそんな塾の名前の入ったシャープはダサいと言って、家に帰ったと同時に台所のテーブルに放り出してしまうかも知れない。狡猾な塾のスタッフはそれを狙っているのかも知れない。子どもがシャープをテーブルに放置する。母親か父親がそれを見つける。シャープには塾の名前。子どもの成績が心配になる。前回の定期テストもミスが多かった。担任は、もう少し頑張れば、もっと成績が伸びるはずだと言う。でもどうすればよいかわからない。ちょっと塾に相談してみようか。そんなことを狙っているのかも知れない。

しかし現実はちょっと違うようだ。わが家のテーブルの上に塾の名前が入っているシャープが4本も5本もある。次男にどうして何本もあるのかと尋ねる。塾の人が配っていた。みんなシャープをもらうと芯だけ抜いて、植え込みとかに捨ててしまう。何かいやな感じがするので、自分が引き取ってきたのだという。

新品のシャープをそんな風に捨ててしまうのはもったいない。捨てるくらいなら、もらわなければよい。いや、芯だけ抜いているのだから、ただ捨てているのではない。与えられた状況で、最大限の利益を引き出しているのかも知れない。自分に必要なものを選び出し、それだけを手に入れる。シャープそのものを断ってしまえば、芯を手に入れることは出来ない。このチャンスで最大限の利益を手にするには、シャープをもらい、必要な芯だけを抜き出し、無駄な本体は捨てる。それも瞬時に行う。素早い判断で、利益を確保する。なんだか、出来るビジネスマンのようだ。

でもねぇ。何かシャープが可哀想なんだよな。シャープペンシルとして生まれてきた。高貴な血筋でもなく、見目麗しくもない。機能もシンプルで1つのことしか出来ないが、愚直にそれだけはやり続けられる。宮沢賢治の物語に出てきそうなタイプだ。そんなシャープが、体に他人の名前を印刷をされて送り出される。文字を書くという本来の機能を1度も発揮することなく、捨てられる。芯だけ抜かれて。人間なら、戦争中の無意味な自爆攻撃を強要された兵隊みたいなものだ。印のついた飛行機に乗せられ、爆撃による攻撃という本来の機能を発揮することなく、命だけ抜かれる。シャープがシャープとして、人が人として存在できない世界は、やはりよろしくない。

いずれにせよ、わが家には塾の名前の入ったシャープが何本もある。案外しっかり作ってあるので簡単には壊れそうもない。芯を入れれば何年も使える。おまけに、芯を抜かれたシャープには芯を入れなくてはいけない。それにシャープは1度に何本も使わない。なんだか一生分のシャープが手に入ったようだ。(個人的に気に入っているシャープがあるのに。)これ以上は引き取ってくるなと言いたいが、無下に捨てられるのを放っておけとも言えない。義を見てせざるは勇なきなり、とだいぶ前に野田聖子さんが言ってたっけ。せめてボールペンにしてください。塾に電話してみようか。いろいろ考える。

こんなことをぐずぐず考えてる自分は、もらったシャープから芯を抜き取りさっと捨てる中学生よりも、判断力が劣っているのか。そういえば、出来るビジネスマンというのは自分とは対局の存在だった。彼らが効率良く「芯」を抜き取っているそばで、「捨て去られた何か」を僕が引き取って行こうとしているのかも知れない。ちなみにわが家では、子どもを塾には通わせていないし、今後も通わせることはない。
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