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スミダマンのほのぼの奮戦記

~グルメ・旅・仕事・自然・地域~あらゆる出来事をフラッシュバック。

鴨川・高瀬川沿の散策

2020-12-03 06:34:36 | 旅 ~京都

旅先恒例の早朝散歩はホテルを南下して鴨川沿いから四条大橋を渡り

高瀬川沿いの木屋町通りを歩くコースにした。

京都ホテルオークラでもアップした京都市役所本庁舎。

1927年(昭和2年)の竣工でRC造4FB1F。設計者は武田五一、平野進一。

本庁舎の整備は2021年6月~8月完成予定だそうだ。

京都市役所前の御池通りバス停の所で見つけた東西の通り(横の通り)と南北の通り(縦の通り)の歌碑。

京都の道は皆様ご存知のように碁盤の目のように造られており、交差点はそれぞれの通りの名が

2つ表示されている。こんな難しい歌詞を空で歌える人はどれだけいるのだろう?

鴨川に架かる三条大橋から御池大橋を撮った一枚。

今迄数えきれない程京都に来たが、よく映像で出てくる鴨川の河川敷に降りた記憶がない。

ということでこの日はわずかな時間であったが河川敷を散策してみた。

ここ三条大橋は意外に知られていないが、駅伝の発祥の地だそうだ。

大正6年(1917年)4月27日28日29日の三日間にわたり、大博覧会「東海道駅伝徒歩競走」が

行なわれ、スタートはここ京都・三条大橋。ゴールは東京・上野不忍池の博覧会の正面玄関であった。

この三条大橋の架けられた年代は明らかでなく、室町時代前期にはごく簡素な構造をもつ橋として

鴨川に掛けられていたものと推定される。本格的な橋となったのは天正18年(1590年)で

豊臣秀吉の命により奉行増田長盛が大改造を行った。

又、擬宝珠(ぎぼし)は天正と昭和のものが混用されている。

元禄以来、たびたびの改造を経てきたが、昭和25年の大改造によって今の姿に改められた。

芸妓・舞妓のための歌や舞踊、楽器等の練習場として昭和2年に建築された

先斗町歌舞練場。鴨川をどりの会場として使われている。

今日の真ん中に流れる鴨川は都会の中にあるのにまだ自然の風景を楽しむことができる。

この日も川の中にえさの漁をしていた2種の鷺と出会った。

コサギとアオサギか?

鴨川は山紫水明。特に落差が生み出す白い帯は独特の風情を感じさせる。

この段差は昭和10年の大水害の時、治水施設として水をゆっくり流す為段差をつけたらしい。

素晴しく整備された側道に早朝ランニングする人、ウォーキングする人

そしてちょっと危ないサイクリングをする人。

この光景は京都らしい風景として絵になっている。

鴨川の向こうには隣り同士の木造の家がくっついてそれが長屋風になり、

ひとつの風景を作り上げている、先斗町の街並。これも絵になりますネ。

鴨川には川の名の通り、野鳥のカモが自然を楽しむようにあちらこちらに群生していた。

都会のまん中でこんな風景を見られるのは京都ならではだ。

四条大橋のたもとにある歌舞伎の元祖「出雲の阿国」の像。

1603年(慶長8年)出雲の阿国(おくに)は、この四条河原で

先鋭的な伊達男風の扮装で「かぶきおどり」を披露。

関ヶ原合戦後のすさんだ世に都人を驚かせ絶大な喝采を浴びた。

歌舞伎の元祖ともいわれている阿国の出世は不詳だが出雲大社の巫女で一座を率いて

勧進のため入洛。北野天満宮の定舞台で名声を得て各地を巡業して

その人気が広がった。尚、この像は歌舞伎八勝00年を記念して

2003年に京都洛中ライオンズクラブが建てた。

この周辺には他にも多くの碑があったが、ライオンズクラブの建てたものが目立った。

京都市内だけでも2000以上あるといわれる寺社仏閣をはじめ、京町屋など日本古来の建築イメージが強いが

街中でステキな近代建築を目にすることも多い。京阪祇園四条駅から出て右側すぐにある

この独特の存在感を放っている「レストラン菊水」は大正5年創業の老舗レストランで

4階建てのクラシカルな建物は国の登録文化財に指定されている。

外観はスペイン風アール・デコ様式で屋上にあるアーチや縦長の窓が印象的だ。

平成30年に耐震補強大規模改修工事を終えた「南座」。

近代建築に桃山風の意匠を取り込んだ地上4階地下1階客席数1082席の建物は

国の登録有形文化財となっている。その歴史は江戸時代(慶長年間1596年~1615年)

初期に期限を発し、元和年間に官許されたとされる劇場で

同一の場所で今日まで興業を続けてきたという意味では日本最古の劇場である。

ここで四条大橋を渡り木屋町通りに向かう。

途中橋を渡ってすぐの所に約500Ⅿ続く京都において有数の文化・遊興の中心地として

発展し、品格と賑わいを合わせ持つ通りの先斗町に出る。

ここはお茶屋建築等が花街文化を継承する歴史的町並みを形成している。

先斗町通りは街が暗くなってから雰囲気が出てくる所で、朝見ても全く別の世界に見えてしまう。

橋を渡って四条通りをすぐ右に曲がると高瀬川が流れている木屋町通りに出る。

高瀬川は江戸時代初期に角倉了以・素庵親子によって、京都の中心部と伏見を結ぶために

物流用に開削された運河である。名称はこの水運に用いる高瀬舟にちなんでいる。

高瀬川の西側、河原町通にいたる間は江戸時代、加賀藩の藩邸があった所。

藩邸には留守居役が詰め、町人の御用掛を指名して各種の連絡事務にあたった。

ここは最近お伺いしていないが以前よく利用させてもらった

京料理の店「せき川」さん。(2014-11-20付ブログ)

まだ営業しているのを見てホッとした。ここは良い店ですよ。

太閤記の寺として通っている「瑞泉寺」。

ここは豊臣秀吉の甥、豊臣秀次一族の菩提を弔うために建立された寺だ。

秀次は秀吉の養子となり、関白の位を継いでいたが秀吉の嫡男秀頼が生まれてからは

次第に疎んぜられ、文禄4年(1595年)7月、高野山において自害させられた。

次いで8月、秀次の幼児や妻妾たち39人が三条大橋西畔の河原で死刑に処された。

この瑞泉寺入口の所には福井藩士橋本左内が訪問、又目付海防掛岩瀬忠震宿所跡の

石碑もあった。本当に京都は歴史のかたまりの地ということをこの早朝散歩でも実感した。

随所に高瀬川に橋が

加賀藩邸跡を少し行くと今度は土佐藩邸跡に出る。

土佐藩は薩摩、長州と並んで幕末政局の主導権を握った雄藩で

武市瑞山、坂本龍馬、中岡慎太郎、後藤象二郎らの藩士が活躍した。

藩邸は土佐藩の活躍の京都における根拠地であった。

高瀬川開削375周年記念で建立された角倉了以翁顕彰碑。

角倉了以は戦国時代から江戸時代初期にかけての京都の豪商で、地元京都では商人と

してよりも「水運の父」として有名だ。

この角倉了以の記念碑の後には今年7月21日に開業した立誠ガーデンヒューリック京都がある。

このホテル・商業施設・図書館は貴重な近代建築である元立誠小学校の校舎を保全・再生した

既存棟とそれにデザインを調和させた新築棟から構成され「ザ・ゲートホテル京都高瀬川byHULIC」が開業した。

ここは又日本映画発祥の地でもある。

明治30年、実業家であり、後に大阪商工会議所会頭も務めた稲畑勝太郎(1862~1949)が

日本で初めて映画(シネマトグラフ)の試写実験を京都電燈(株)の中庭

(現在の小学校跡地)で成功した場所である。

この木屋町通は江戸時代の初めに「高瀬川」の開削に併せて構成された通りだ。

諸国から薪、炭、材木等大量の物資が運び込まれ、道筋にこれらを商う店が

軒を連ねたことから木屋町通と呼ばれるようになった。

 

 

 


京都ホテルオークラ

2020-12-02 06:37:34 | ホテル・旅館

https://www.hotel.kyoto/okura/

京都ホテルオークラの起源は神戸の実業家・前田又吉が

1888年に川端二条で創業した旅館「京都常盤」である。

前田は旧勧業場跡地(幕末期は長州藩の所在した場所)の払い下げを受け、

1890年に洋風木造建築の常盤ホテルを日本土木会社(現・大成建設)の施工で竣工・開業した。

当ホテルはこのような歴史を誇り、京都で最も歴史のあるホテルだ。

1991年12月総合設計制度の適用を受け、高さ60mの高層ビル「京都ホテルおいけ本館」の建設に着手。

1994年に竣工した。

このホテルの建設にあたっては京都の景観を破壊するとの反対意見も根強く、激しい論争が起きた。

現在では中心市街地にこのような高層ビルを建てることは困難となっている。

2001年、京都ホテルは経営再建策の一環としてホテルオークラとの業務提携を結び、

2002年オークラホテルズ&リゾーツに加盟して本館の名称を「京都ホテルオークラ」に改めた。

設計は三菱地所設計、施工は清水・西松建設のJVで地下4階、地上17階だ。

碁盤の目のような京都の街をモチーフにした美しい絨毯、

1888年創業の歴史と伝統に育まれた上質なおもてなし。

京の風情とヨーロピアンテイストが調和した落ち着いた趣の館内には

積み重ねてきた伝統と歴史が刻まれている。

当ホテルのモットーは「いつも いつの日も 最上の一日」。

創業100年をこえる名門ホテル「ミシュランガイド京都・大阪2010」のホテル部門で

京都ホテルオークラは京都で最高ランクの評価を得ている。

そんな古い歴史の京都ホテルの資料コーナーが1階メインロビーの奥の方の

オープン階段の下にひっそり展示してあった。

フロントの隣にあるカフェ「レックコート」。

メインロビーの照明がちょっと落としてある中でここだけは明るくてより一層華やかに見える。

322室の客室の配置はすごくシンプルですっきりしている。

その口の字の真ん中は吹き抜けになっていて、高いフロアーから覗き見ると大迫力の空間となっている。

客室フロアーと共用フロアーとの天井仕切りはブルー系の美しいステンドガラスに成っていてすごく美しい。

廊下の絨毯の柄も赤とベージュをベースに、いかにも京都らしい柄の仕立てになっている。

客室内はご覧のように余計なごてごてした飾り付けもなく、ごくシンプル。

ベットのマットレスはしっかりと身体に密着するもので快適な寝心地を約束している。

当ホテルに入っているレストランなどのテナント一覧が写真付きで表示されていた。

レストランは全部で11軒。

それ以外に館外レストランとして、あの有名な京都ホテルオークラ別邸の

京料理「粟田山荘」の紹介もあった。

又、最近実施になったGoToトラベルの地域クーポン券、

GoToイート・プレミアム付食事券の案内も表示されていた。

朝食は和と洋どちらかを選択することができる。

こちらは和朝食会場の京料理「入舟」。

「旬の食材が醸す香りに誘われて深まる秋の京で味わう秀麗な美味」というのが謳い文句だ。

新型コロナ禍でホテルの食事からビュッフェスタイルが消えたのは驚きだ。

もっとも京都ホテルオークラではその前にこのスタイルを取っているのかもしれないが。

これが朝食料理。

いかにも京都らしい和朝食が並んでいる。

たまたま高層階の客室だった為、京都の西山方面の夕方から夜、

そして翌日朝の景観をじっくり楽しむことができた。

当ホテルは市の中心部、河原町御池に位置した好ロケーションでその展望は抜群だ。

できれば東山三十六峰の山並みが一望することができる東山方面の景観も見てみたかった。

部屋から見た夕方と朝の西山の景観。

眼下では1927年(昭和2年)に建設された京都市役所の大規模改修工事が行われていた。

この本庁舎は政令指定都市の市役所では一番古くからあるものだそうだ。

この2枚も夕方と朝の左大文字山。

毎年8月16日に行われる京都五山の送り火の一つだが、

今年は新型コロナ感染防止の為、規模を大幅に縮小して行われた。

これがGoToトラベル事業の地域共通クーポン券1,000円。

有効期間は旅行中の2日間限定だ。

このクーポン券の発行元は国土交通省・観光庁だ。


高台寺の紅葉ライトアップ

2020-12-01 06:33:29 | 旅 ~京都

https://www.kodaiji.com/

和久傳でお腹いっぱい日本酒でほろ酔いの中、

酔い覚ましを兼ねて歩いて数分の紅葉の名所・高台寺を散策してみた。

この期間は特別期間として日没後点灯して21:30受付終了、22:00迄ライトアップをしていた。

ロマンチックなねねの道から、ゆったりした石段の台所坂。

一歩足を踏み入れたところからもう幽玄な世界が続いていた。

ここは高台寺の庫裡。

ぼんやりライトで浮き上がり、昼間の顔とは違い妖艶な雰囲気がする。

高台寺は正式名称を「鷲峰山高台寺聖禅寺」といって臨済宗建仁寺派のお寺だ。

慶長11年(1606年)に豊臣秀吉の菩堤を弔うため、正室であった北政所ねねが祈願し、

徳川家康が酒井忠正や土井利勝に命じて、この地にあった岩栖院などを移し、

雲居寺の跡地を整備して創建された。

北政所は秀吉の死後に出家した際、後陽成天皇より「高台院」という号を賜った。

それに因んで高台寺と名付けられた。

受付を通り、拝観順路に従って湖月庵、鬼瓦席遺芳庵へと進む。

ご覧のようにもみじの紅葉はまだちょっと早いようだ。

一部が赤く色づいてきて緑の葉とのグラデーションがかえってライトに照らされて美しい。

方丈まで来ると夜間でも内部の見学ができるようであったが、酔いが靴を脱ぐのを拒み、

そのまま次の場までヨロヨロさまよって行った。

今振り返ると若干後悔している。

勅使門がある「波心庭」に出ると突然雰囲気が変わった。

和の枯山水の庭でプロジェクトマッピングをしているではないか。

お寺も色々なことを考えるものだと一人で関心。

方丈の境内では多くの人々がこの光景に見入っていた。

 

高台寺の紅葉ライトアップ

 

youtube#video

 

 

久し振りにこのプロジェクトマッピングの動画を撮ってみました。

夜の開山道(重要文化財)。

創建当初は北政所の持仏堂であった。

その後、高台寺開山である三江紹益禅師の塔所となったことから「開山堂」となった。

堂内には三江禅師の坐像、北政所の皃である木下家定夫妻の木像、

そして高台寺造営の普請に尽力した堀直正像が祀られている。

外からも堂内もライトアップされ、素晴らしい雰囲気を造りだしている。

開山堂をはさみ、両側に「臥龍法」と「椻月池」二つの池を配した

伝小堀遠州庭の池泉回遊逢菜式庭園が広がる。

西には伏見城の遺構である観月台を配した「鶴亀の庭」。

また東には開山堂と霊屋を結ぶ臥龍廊が架かり、見事にライトアップされた臥龍池の鏡面には

色づいたもみじ、紅葉が始まったばかりの木々が怪しげに映り、誠に夢の世界。

極楽浄土への世界に誘われる。

この光景を見た瞬間「アッ!」「ウッ!」と息を呑む美しさに言葉を失う。

話は変わるがこのライトアップの園内には多くのカップルが居た。

これを見ると京都では2人の世界を讃えるような場が限りなくあり、

他の町より結ばれる確率が高いのでは?とふと思った。(レベルの低い発想か?)

暗くてよくわからないが方丈と開山堂を結ぶ廊下にある観月台(重要文化財)。

ここから北政所は亡き秀吉を偲びながら月を眺めたという。

秀吉と北政所をお祀りする廟堂の霊屋(おたまや)(重要文化財)。

堂内須弥檀菩薩を祀り、その左厨子には北政所、右厨子には秀吉の木像が安置されている。

中門からはちょっと小高い山道になる。

そこにライトアップされた竹林が浮き出るように現れてくる。

この中をホロ酔い気分で歩いていくとまるで天国の夢の世界に居るような気分になった。

竹林を過ぎ、一番高い頂の地には伏見城から移築してきた「傘亭」と「時雨亭」(ともに重要文化財)がある。

この創建当時の茶室は北政所の周辺にいた茶湯坊主衆が4.5人いて

禅三昧の生活を送りながら秀吉のように茶を嗜んでいたようである。

この高台の生い茂る木々の間から見えた京都の街の灯り。

ボヤケてしまってそれを見た感動が全くこの写真では伝わってこない。

下り階段の所々に点々とボンヤリ光足元灯は逆に幽玄の世界に通じている。

昇りの時の竹林も素晴らしかったが帰路の下りの竹林ははるかに素晴らしかった。

この3枚の写真は皆様を素晴らしい夢の世界へ導いてくれるはずだ。

帰りの拝観順路で現れてきた中門、雲居庵の通り。

ほとんど紅葉がまだのもみじの緑もライトアップされ、とても艶やかだ。

出口を出た所にあった観光案内図もライトアップされ、「日本の誇る伝統的建造物群保存地区」

重文・史跡・名勝・名所がいっぱい。

確かにこの周辺は素晴らしいものがギュッと凝縮されているエリアだ。