スミダマンのほのぼの奮戦記

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旧制浦高・浦中・埼玉師範跡地

2021-02-16 08:38:31 | ご近所情報

旧浦和市は昔から教育意識が高く、それを具体的に体現した名門の学校が戦前からいくつかあった。

今回はその跡地を訪ねてみて往時を振り返ってみた。

北浦和駅西口から数分の所に県立北浦和公園がある。

ここは1974年(昭和49年)に市立浦和北公園とともに開園された。

その県立公園の東側に旧制浦和高等学校時代の正門が当時のまま保存されている。

この正門は同校の姿を今に伝える唯一の構築物だ。

公園内には旧制浦高の当時の貴重な写真が掲示された記念板が設置されてあった。

旧制浦和高等学校は大正10年に埼玉県北足立郡浦和町に設立された官立旧制高等学校で

全国で第20番目の設立になる。

敷地は2万坪もあり寄付されたもの。

昭和20年5月、米軍の空襲で講堂と本館は焼失した。

昭和22年、旧制高の廃止により、昭和25年3月に最後の卒業生(第26回)を送り出した。

当時の学校の周りはクヌギ林とサツマイモ畑の続く自然環境の豊かな所でした。

多感な学生たちは、このような環境の中で勉学に励み、多くの本を読み、議論し、

スポーツや芸術にいそしみ青春を謳歌したといいます。

白線の入った学帽にマント姿の学生たちは、ほうば下駄を履き浦和の街を闊歩したそうです。

昭和47年11月12日に旧制浦和高等学校同窓会によって建立されたモニュメント。

彫刻道標は柳原義達氏、碑文は今日出海氏、書は長谷川成二氏と書かれてある。

その建立趣意の一節は「この地はわれらの魂のふるさと旧制浦和高等学校のあったところである

開校50周年の記念日にあたり、われらの青春多感の三星霜を追憶し、

はるかなる未来に向かって心から賛歌を捧げる」

当校は東京帝大への進学率は一高についで第2位の位置を占めていた。

ここで5,418名の卒業生の名から名を成した方々をご紹介いたします。

文化人として金田一春彦(言語学者)、今日出海(小説初代文化庁長官)、武田泰淳(小説家)、

先日亡くなった半藤一利(作家)、福田恒存(翻訳家)、三木鶏郎(作曲家)、諸井三郎(作曲家)。

政治家として伊東正義(外務大臣)、沢田悌(公取委員長)、髙木文雄(大蔵次官・国鉄総裁)、

田中龍夫(田中義一の長男、通産・文部大臣)、畑和(埼玉県知事)、

原文兵衛(参議院議長、警視総監)、渥美健夫(鹿島建設名誉会長)、石原俊(日産自動車会長)、

飛島斉(飛島建設社長)、原島保(日本セメント社長)、

諸井虔(太平洋セメント・秩父セメント社長、日経連副会長、スミダマンのお仲人)、

山下勇(JR東日本初代会長、三井造船社長)等々。

このように素晴らしい人材を世に輩出し、戦後日本の復興と繁栄に貢献された。

明治28年6月18日に設立された埼玉県第一尋常中学校は旧制浦和中学となり、

明治29年、浦和町鹿島台(現・常盤)に校舎を竣工した。

現在の埼玉県知事公館、浦和警察署のあたりである。

この記念碑は創立100周年を迎えた平成7年10月5日に発祥の地に建立された。

現在の浦高の地・領家には昭和12年に移転した。

名門・浦和高校は東京大学への平成累計合格者数1,069名で公立校として全国1位になっている。

本高(本中)の卒業生としては先日逝去した相川宗一浦和市長・さいたま市長、

井原勇与野市長、新藤享弘大宮市長、岡村幸四郎、奥ノ木信夫川口市長など地元市長をはじめ、

大河原良雄元駐米大使、須之部量三元外務事務次官、駐韓大使、

杉田和博現内閣官房副長官、金子真吾凸版印刷社長、川野幸夫ヤオコー社長、

木村恵司元三菱地所会長、桑原道夫元ダイエー社長、國部毅三井住友銀行頭取、

最近話題になった半沢淳一三菱UFJ銀行(次)頭取、村井満第5代Jリーグチェアマン、

井本元検事総長、天野篤順天堂医院長、画家の街・浦和の高田誠、

渡辺武夫、斉藤三郎、小松崎邦雄など。

佐藤優作家・評論家、タレントの愛川欽也、歌手のタケカワユキヒデ、

若田光一宇宙飛行士など多士済々の人材を世に送り出している。

現在のさいたま市役所入口のロータリーの一角に「埼玉サッカー発祥の地」の碑がある。

埼玉のサッカーは明治41年6月に埼玉師範(現在の埼玉大学)ではじまり、

多くの指導者が浦和を中心に教師として赴任したことにより、普及・発展をとげた。

埼玉師範学校は明治7年6月に設置許可がおり、

明治34年4月にご当地浦和町鯛ヶ港(現在のさいたま市役所)に校舎を新築し移転した。

埼玉師範がサッカー全国大会で初優勝を飾ってから60周年を記念し碑を建立した(平成9年4月)。

 

 


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