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スミダマンのほのぼの奮戦記

~グルメ・旅・仕事・自然・地域~あらゆる出来事をフラッシュバック。

台風19号の爪痕

2019-11-26 06:40:04 | コラム

10月12日(土)に伊豆半島に上陸した台風19号

(アジア名:ハギビス…フィリピン命名)は

関東、甲信、東北地方などに記録的な大雨をもたらし、

甚大な被害をもたらした。

タイミングとしてはかなり遅れてブログアップとなりましたが、

その影響を受けた場所の状況を書いてみました。

台風19号が上陸した4日後に行った栃木県佐野市には

陸上自衛隊の救援の為の車輌、給水車などが駐車し、

多くの隊員が救援活動を行っていた。

これは佐野市内を流れる利根川水系の秋山川が氾濫した為である。

秋山川の近くにある関東三大師の佐野厄よけ大師にも

数名の陸上自衛隊員がお参りに来ていた。

身に着けているものをよく見ると中部方面警務隊と書かれてあり、

腕には警務MPの腕章が。

皆、表情は厳しく、災害援助活動の任務に集中しているのが伝わってくる。

そして手を合わせている姿がとても印象的で目に焼き付いた。

佐野の秋山川が流れ込む渡良瀬川(利根川水系)は

台風上陸4日後なので水は引いていましたが、

河川敷に茂っている木々を見ると泥がかぶっており、斜めになっていた。

台風直後は土手まで川が流れ、川幅は300m程になったそうだ。

バスから撮ったので正確な川の名前はわからないが

栃木市内を流れる巴波川ではないか?

ここはまだ増水している状態に見える。

普段はのどかな渡良瀬遊水地もまるで海のようになったらしい。

この時は史上最も多い水を貯留したとの事。

この台風では多くの川が決壊し大変な被害が出たが、

逆にその一歩手前で治水事業が功を奉したケースも多くある。

その1つが以前数回ブログでアップした八ッ場ダムもその例だ。

八ッ場ダムはたまたま10月1日に試験湛水が開始されたばかり。

国交省によれば最高数位に達するまで

3ヶ月から4ヶ月程度かかるとみられていたが、

この台風のほぼ2日で満水になったそうだ。

たまたま台風通過の翌日10月13日(日)に

浦和駅に行く用があって12:00頃撮った風景。

改札のあたりには多くの人が集まり、皆電光掲示を見ている。

京浜東北線、湘南新宿ラインは運休。

高崎線、宇都宮線も間引き運転と成っていた。

駅には産経新聞の記者が取材に来ていた。

そういえば、最近の気象庁の会見で使われる表現が

激しい言い方に変わってきたような気がする。

今回の台風情報でも「命にかかわる」とか

「息が苦しくなるような圧迫感…雨」とかだ。

この前の台風15号の時の

「夜には一気に世界が変わり、猛烈な風や雨になるおそれ」

との注意喚起が話題に成ったそうだ。

伊勢丹浦和店も13日(日)は午後2時開店予定との事。

こんなことは滅多にないことだ。

JR系列のアトレ浦和店も12日(土)は全館臨時休業。

13日(日)は午後2時開店予定の貼り紙が。

この日の駅周辺は日曜日というのに風景が全く変わってしまった。


内戦の傷跡 (クロアチアの旅 後編)

2019-10-08 13:52:34 | コラム

今迄はずーっとスロベニア・クロアチアの観光としての旅をアップしてきましたが、

もう一つ忘れてはいけないのが、この地域でつい最近まで

激しい内戦が行われてきたことであります。

その一端をレポしてこの旅の締めくくりとしたいと思います。

ザグレブ市からプリトヴィッツェ湖群へ向かう途中の小さな村に

内戦の激しい傷跡とその当時使用された武器を展示してある場所を通った。

この写真では良くわからないが、戦闘機、戦車、装甲車、

大砲などが生々しく展示してある。

当初この地に立ち寄る予定であったが、

スケジュール時間の関係でスルーしたことが残念だ。

この展示エリアをすぐ過ぎた所には沢山の弾痕の跡が残された廃墟が続き、

その当時の激しい闘いの様子が伝わってくる。

クロアチア紛争は1991年から1995年にかけて、

クロアチアのユーゴスラビアからの分離独立、及び

国内でのクロアチア政府とセルビア系住民による

自治政府の対立をめぐる紛争であった。

わずか約25年前のことである。

トロギールの旧市街、観光客が多勢いて華やかな雰囲気の中で、

ここにはややセピアがかった紛争犠牲者の肖像写真が展示されてあった。

よく見ると若い男性がほとんどで独立運動の為に闘って亡くなった方々なのだろう。

1991年12月6日、この日はキリスト教徒にとっては

特別な日(聖ニコラスの日)にロープウェイのあるスルジ山の反対側から突然

モンテネグロ・セルビア軍が攻撃をしてきた。

スルジ山の山頂には19世紀にナポレオンから贈呈された白い十字架があったが、

この内戦で破壊されたが、その後復興された。

この地にはその戦争博物館などもある。

この十字架の場所の近くには激しい戦闘を物語っている

弾痕の跡が今でも残されている。

ドブロブニク旧市街にあるフランシスコ会修道院の中には

1991年12月6日と記されたミサイル弾が撃ち込まれた跡が保存されている。

壁を貫き、向い側の壁に弾が当たった所がこのまま残されていて

この静寂な修道院でたった28年前に悲惨な光景が

繰り広げられていたとは想像もできない。

旧市街の一角には紛争中に防弾を受けた場所や、

火災、倒壊した建物を写した写真や詳細な地図、

又、114人の犠牲者の肖像写真を展示したギャラリーがある。

それを見ていると言葉を失ってしまう。

内戦とはなんと醜い行為なのだろう。

ドブロブニクで船の観光をしていた終盤、

ガイドさんからあの建物(ホテル)を見てください。

壁に弾痕の跡が沢山見られます。

そのホテルは廃墟となり今でもそのまま売りに出ていると言っていた。

1991年12月6日のこの日にはなんと2000発の爆撃があったとか。

あれから約30年の歳月がたっていてもクロアチア人の心に深い傷が残り、

このことについて多くを語りたがらないそうだ。

 


スロベニア・クロアチアで気に成った人・物

2019-10-04 06:19:45 | コラム

今回はスロベニア・クロアチアを旅して目に付いた、

あるいは気に成った人達と像などの物の写真集をアップしてみました。

リュブリアーノの三本橋の袂で民族服を着て

アコーディオンを弾いていた恰幅の広い男性。

写真を撮ろうとすると睨みつけてきて良い写真が撮れなかった。

リュブリアーノの肉屋の橋にあった銅像。

何かを訴えてくる迫力をこの像から感じた。

3階建ての住宅の妻側壁面全体にモノトーン調で描かれた絵。

もうこの絵は芸術の域に達している。

リュブリアーノの城に登るケーブルカー乗り場の所にある

人形劇場の入口にあったカンガルー像。

お腹の袋の部分が大きな器に成っている。

何の為に使われているのかナ?

なんとなく気難しい顔をして大きなパンを持っていた姿が

逆にかわいらしく見えてパチリ。

リュブリアーノの旧ユーゴスラビア時代の建物が残っているエリアのレストランで

黒板に器用にメニューを書いていた左利きの男性。

こちらはクロアチアの首都ザグレブの大聖堂の前を歩いていた

サッカー・クロアチア代表のユニフォームを着た息子と母(?)。

本当にクロアチア代表の赤白の市松模様は目立つ。

こちらは眠そうな顔をしたかわいらしい息子を抱いた母。

ほのぼのして良い写真になったと思う。

トロギール城内で絵を熱心に画いていた男性。

使っている三脚が立派だ。

トロギール旧市街の有名アイスクリーム屋さんの前のテラスで

ファミリーがすいかのアイスを楽しそうに食べていたスナップ。

それにしてもすごいアイスパフェだ。

スプリットの城内、仮設ステージの前で古代ローマ時代の兵士に扮した2人の男性。

広場の真ん中にいてとても目立ち、観光客は皆カメラを向けていた。

記念写真を撮るには格好の被写体だ。

スプリット旧市街観光

天井が抜けたドーム内で突然民族服衣装の男性コーラスが始まってラッキー。

静かに聴いていると城内の空気が変わっていく。

音楽はすごい力を持っている。

やはりスプリットの城内で観光客向けに

ギターを弾いていたミュージシャンも絵になっていた。

スプリット城外で小さな女の子の似顔絵を画いていた画家。

真剣な顔をした少女の足が浮いている姿は本当にかわいらしい。

納得の一枚です。

ドブロブニク旧市街のメインゲートのピレ門の下で

おみやげ物を売っていた民族服装のオバサン。

こちらはピレ門を入ってオノフリオの噴水の前で

やはり民族服を着ておみやげ物を売っていた男性。

今回の旅ではあまりストリートパフォーマンスを見かけなかったが、

さすが国際観光都市のドブロブニク。

街並の空気に溶け込んだ姿のストリートパフォーマンスだ。

衝撃的な一枚。

ここはロクルム島のヌーディストビーチです。

たまたま顔が写ってないのでお許し下さい。

旧市街、城壁の下で民族服を着てマンドリン的な民族楽器(?)を

弓で弾いていた音楽家。


スロベニア・クロアチアの美女

2019-10-03 06:26:09 | コラム

「旅の恥は掻き捨て」とよく言いますがこの2ヶ国では美人が多く

(もっともこの中に旅行者も多くいたと思いますが)

トランプ大統領のメラニア夫人もスロベニア出身のはず。

この旅では一種盗撮と言われればそうかもしれないが、

2ヶ国で目に止まった美女の皆さんを写真集的にアップしてしまいました。

スロベニアの首都・リュブリアーナ市街の肉屋の橋で

物の販売をしていた後姿がセクシーな女性。

ファッションがポップっぽいが、かなりいけててアピール度が高かった。

旧市街のシックな建物の通りを淑やかにスマホを持ちながら歩いていた女性。

黒ずくしのドレスにブロンドの髪とサングラスがとても似合っていた。

リュブリアーナのお城の教会の中で他の日本人グループの

ガイドをしていた笑顔がとてもチャーミングな女性だった。

とても愛嬌がありこのガイドさんに案内してほしかった。

ここからはクロアチア。

首都・ザグレブの市場で見かけたイスラム教信者と思われる美人な女性。

白地に黒い水玉模様の服装。

黒いヒジャブ姿がとてもエキゾチックだ。

人が多くいたザグレブ、共和国広場(イェラチッチ)で

見かけた、赤毛に染めた女性。

このヘアーの色は赤毛系でも上品に見え美しい。

ザグレブで宿泊したウェスティンホテルのフロントで見かけた

長身でスタイル抜群の女性。

ハイヒールを履いているが一体何cmの身長なのか?

プリトヴィッツェ湖群国立公園を案内してくれた美人ガイドさん。

サングラスがこんなに似合う人も珍しい。

性格はちょっときつかった。

プリトヴィッツェ湖群の入口ゲートに居た親子と思われる2人の女性。

2人ともとってもお洒落でセレブっぽい。

ブレスレットとイヤリングがゴールドでハイソっぽい人達に見えた。

湖群をトレッキングしていた時に見かけた初々しい少女。

アディダスの白い帽子がとても似合っていて、長い髪がより大人っぽく見える。

この女性の髪の色も独特で個性的だ。

紫色の髪がベースだが下の方はブルー。

シベニク旧市街で見かけた街の雰囲気に

ピッタリ溶け込んでいたチャーミングな女性。

この黒白のストライプに赤のラインをあしらったロングドレスは

今までのブログで販売されているショップを紹介したが、

まさかそれを着ている女性と出会えるとは・・・。

同じくシベニク旧市街の街角で母と娘が語っていた光景が

とても鮮明で思わずシャッターを押してしまった。

シベニク旧市街の人気アイスクリーム店の女性店員さん。

いかにも甘いアイスクリームを売っている店らしくピンクのリボンがかわいらしい。

トロギール旧市街で見かけた花柄のワンピースを着たブロンズ女性は

好みのタイプでストーカーみたいに

(実際は歩いていると何度もすれ違った為)追っかけてしまった。

もう1人の年配の女性は母親か?

トロギールの海辺の近くのオープンカフェで働いていたウエイトレスさん。

知的な美人といった感じの女性で好感が持てる方だ。

もうこの頃になると女性版のブログを書こうと意識していた頃だ。

トロギールの橋のたもとにある市場の入口で打ち合わせをしていた

キャリアガールっぽい二人の女性。

それにしても欧米の方は本当にサングラスが良く似合う。

スプリット旧市街の宮殿内おみやげ屋さんの女性店員さん。

この雰囲気は一店員さんではなくオーナーかもしれない。

女性の眼鏡とイヤリングが販売している商品の色合いとマッチして

より素敵な女性に撮れてしまった。

夏の日射しが強い街だが広いツバの帽子がとてもファッショナブル。

この方もサングラスが良く似合っている。

こちらの愛くるしい女性もスプリットの宮殿土産屋さんの店員さん。

絶えず笑顔を振りまいていたせいではなく、

気に入ったイヤリングが売っていた為、ここで買い物をしてしまった。

この女性は本当に感じのよい人だったナー。

ここはドブロブニクのケーブルカー展望台。

女性の後におもしろい角度の城壁、要塞が写っている。

こちらの女性は観光客かな?

ここはドブロブニク旧市街メイン通りのブラツァ通り。

カフェが軒を連ね、美人があちらこちらにいた。

正に美人の宝庫といった感じ。

もう気持ちはファインダーを通して美女を探してしまう

ちょっと問題がある状態だ(笑)

こんなことを書いていいのか自笑ぎみだ。

一生懸命ポーズをとって写真を撮っていた女性。

思わず引き込まれてシャッターを押したが、タイミングを逃してしまった。

素晴らしいポーズをとっていたのでガックリ。失敗だ。

ソフトクリームとサングラス。

まだあどけなさが残っている美人チャン。

ホテル・グランヴィア・アルゼンティーナのプールサイドを

部屋からズームで撮ってしまいました。

これ問題ですかネ?

 

 

 

 


平成から令和へIN草津

2019-05-14 06:02:39 | コラム

平成から令和への時代の変り目を草津温泉で過ごした。

4月30日(火)平成最後の日は、草津の地はあいにくの雨模様。

逆に外に出ずにテレビで皇室番組を見て、感慨にふける一日と成った。

NHKの番組では大晦日の「ゆく年くる年」ではないが、

「ゆく時代くる時代」平成最後の日のスペシャルが一日流れていた。

この写真は平成最後の日の草津唐松林。

墨絵のような一枚に平成の幕引きを感じてしまった。

読売新聞 4月30日(火)付 特別夕刊。

平成という元号はこの夕刊をもって、新聞の日付から消えた。

このブログが続く限り、この新聞記事の写真は残るので

「歴史的記録」としてアップしてみました。

振り返ると平成の30年間は自分史にとっては

一番の働き盛りの時代であったが、

日本の経済にとっては平成の初めにピークを迎え

その後長い低迷時代が続き、

日本の栄光は終わったような気がする。

明けて5月1日(水)も天気はぐずついていたが

草津では令和元年の幕開けに期待する初日の出を拝むことができた。

誰かが言っていたが、まるで今年はお正月が2回来たような気に成る。

毎年来る正月よりも数十年に一回の大きな時代の節目の方が

ずっと歴史的には重い。

隣のナウリゾートホテルで朝食を取って、

アドリーム草津に戻って車でTVをつけてみたら、

丁度新天皇の剣璽等継承の儀が中継されていたので

これも歴史的儀式と思い写真を撮ってみた。

2日間の各局テレビ報道により

日本国民はずっと皇室の認識が深まり

普段あまり考えない時代考察が

頭に巡った人が多くいたことでしょう。

明けて令和元年5月1日(水)の

読売新聞朝刊と日本経済新聞朝刊。

「新天皇陛下即位」「令和幕開け」。

この中で日経新聞の井口哲也編集局長が書いた

「新しい日本を創ろう」はとても印象的な

論説でその一節を抜粋して紹介します。

「新時代の日本が豊かになるために私たちは何をすべきだろうか。

・・・平成は過去の成功体験にとらわれ、

やるべきことから目をそらしてきた不作為の時代でもあった。

・・・人も国家も逆境や悲劇に立ち向かうときに未来への工夫が生まれる。

シンガポールの建国の父リー・クアンユ元首相は

こんな言葉を残している。

・・・課題先進国といわれる日本。

国の行方を決めるのは置かれた環境ではない。

健全な危機感と困難を乗り越えようとする意志こそが未来を開く。

将来の世代に誇れる「新しい日本」。

今日とその一歩を踏み出したい。」

冬は天狗のこぶで有名な天狗山ゲレンデは

春から種々なアクティビティーの場と変身する。

その内容はマウンテンカート、マウンテンボード、キックボード

グラススキー、ナインポット玉、パターゴルフ、マレットゴルフ

スカイトランポリン、トランポリン、ドッグランなど。

そこに新たに Ban Zip TENGU が4月27日にオープンした。

おとな2000円 こども1200円。

全長は500M最大時速70㎞/h、高低差122M

よく見ると早速

「ようこそ 祝 令和」

の横断幕が掛かっていた。ヤルナー!

 

 

平成から令和へIN草津

 

 

 

天狗山頂上のスタート台とゴールした瞬間。

その真下で動画を撮ってしまったので

乗っている人を追いかけるのにブレて見づらい映像になってしまってすいません。

この日は、テレビ朝日のクルーが取材に来ていて

祝令和の幕とバンジップに乗った人の

インタビューを取っていた。

この光景を見ると草津にも令和の時代が来たのだナーと

変な納得をしてしまう。

首都圏唯一の建築中ダム「八ッ場ダム」の建築工事現場を、

自由に安全に高い位置から見学できる無料展望台の「やんば見放台」。

この展望台は平成27年にオープン、無料駐車場もある。

駐車場の隣には蕎麦屋さんもあり、ドライブの休憩に寄っていくと良い。

 

展望台から上流の方を見ると2014年10月に開通した

八ッ場大橋の勇姿が見える。

(2015-9-2付ブログ PARTⅠ参照)

 

八ッ場ダムは政治の波に翻弄されて来たが

いよいよ2020年の完成に向けてかなり工事が進んでいた。

(2017-10-17付 八ッ場ダムPARTⅡブログ参照)

どうやらこれを見るとダム本体のコンクリート打設は

ほぼ完了したようだ。


新元号 令和

2019-04-02 10:44:36 | コラム

平成31年4月1日(月)はある意味、歴史的な日であった。

この日11時半過ぎに政府より5月1日(水)から改元される

新元号が発表された。スミダマンのブログも時間が経過すると

記憶が記録になる実感から、記録を残してみようという気に成り、アップしてみた。

菅義偉官房長官より新元号が発表された。

新らしい元号は「令和」であります。

31年前の小渕恵三当時の官房長官より「新しい元号は

へいせい(平成)であります」との発表を思い出し光景がダブった。

ここ首相官邸の記者会見室の風景も一昨年見学したことも思いだされる。

4月1日(月)の読売新聞夕刊記事。間もなく「平成」の時代が終わり

「令和」の時代が始まろうとしています。

西暦に対して、和暦とも呼ばれる元号の始まりは

飛鳥時代の孝徳天皇の御代「大化」まで遡ります。

最初の元号である「大化」が制定されて以降、これまで231の

元号が制定されてきました。明治以降は、皇位を継承する際のみ

改元することが定められました。一方、明治以前には

天災や飢餓、疫病や彗星の出現など、不吉な出来事があった際にも

たびたび改元されていました。元号は、特定の時代を表す

呼称として、日本の歴史に深く根付いています。

「応仁の乱」「明治維新」などの歴史的な出来事や

「天平文化」「元禄文化」など、その時代の文化や思潮を表す

呼称として欠かせないものです。「平らかに成る」という意味の

「平成」には、平和が達成されるという願いが込められていました。

新しい元号「令和」の時代を夢と希望を持って迎えたいものです。

この日は仕事で丁度元号発表の時刻は湘南新宿ラインの

電車に乗っていました。発表予定時間の11時30分頃は新宿駅あたり。

電車に乗っているほとんどの人がスマホにかじりついていました。

しかし発表が予定より若干遅れ、渋谷駅のあたりかな?

恵比寿駅あたりかな?これも過ぎ、駅を降りたあたりで

同行者が「令和ですって」との事。それを聞いて響きは悪くない。

「令」という感じは幾度も頭の中で反芻してみたが、

ピッと頭に入ってこない。これが最初の印象です。

街を歩いていると若いサラリーマングループが「令和だってさ!」と

会話しているのを聞いてこれがとても印象的に響きました。

「平成」の号外を所持している社員からの「号外をもらってきて下さい」の

依頼は残念ながら果たせませんでした。

新元号発表の翌日の読売新聞、日経新聞の朝刊です。

ビックリしたことに4月1日にはウィキペディア(Wikipedia)で

「令和」がもう出ていました。尚「令和」の意味は人々が美しく

心を寄り合う中で、文化が生まれ育つ。梅の花のように

日本人が明日への希望を咲かせる国でありますように

「令和」典拠の万葉集序文

「初春の(れいげつ)にして、氣淑(きよ)く風ぎ、

梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後(はいご)の香を薫す。」

中国ではなく日本の古典から採用されたのは初めて。

「元号に関する懇談会」では「令和」を含む6つの案が示され

「英弘(えいこう)」「広至(こうじ)」「万和(ばんな)」

「万保(ばんほ)」「久化(きゅうか〕」があったと報じられています。

時、将に桜が満開。この桜は自宅の庭から4月2日(火)朝撮ったものです。

おそらく日本国民全体が日常にない高揚感を持った

時間を今過ごしているのではないでしょうか。


熱海の夜

2019-03-11 06:13:14 | コラム

明治時代から要人や文化人をもてなしてきた熱海。

熱海は芸妓文化なしには語れない。今宵はこの街に根付いた

伝統文化を継承していく芸妓さんの心意気と東音会の本格的

日本文化のコラボレーションで夢心地な時を過ごした。

https://www.atami-geigi.jp/

芸者にはいろいろ呼び名があり、関東では「芸妓」「芸者」と呼び

関西では「芸子」と呼ぶ。修行中の芸者は「半玉(はんぎょく)」と呼ばれ

京都では「舞妓」と言われる。芸者の世界は「花柳界」と呼ばれ

これは柳緑花紅からあでやかな世界を意味する。

この夜、もてなしてくれた芸者さんは「置屋」水の家の宏紀

(踊り 花柳流)と清すみの旬子さん(三味線杵屋)と静さん

(ピンクの女性、置屋名は忘れた)の3人。置屋(おきや)とは

芸者さんが属している芸者の派遣業者のこと。

又、芸者に対して支払う料金を「玉代(きょくだい)」と言い、

宿の明細に組み込まれ、宿泊代と一緒の請求となる。

芸者の世界では時間を「本(ほん)」と数え、1本とは30分のこと。

一座敷(ひとざしき)は2時間なので4本となる。

 踊り手の芸者を「立ち方」と言い、三味線や太鼓の演奏、唄をうたう

芸者を「地方」と呼ぶ。楚々とした華のある舞う姿に和のおもてなしを

再発見でき、日本人に生まれてよかったと感じさせる素晴らしい世界だ。

この一覧表は平成16年に手に入れた、熱海芸妓のリストで

大げさに言えば、私の宝物の一つだ。熱海は全国屈指の芸者街、

全国2800人(?)居ると言う芸者の内、約10%弱を占める熱海芸者。

この一覧を見ると置屋さんも106軒もある。これにはビックリだ。

この一覧表をよく見ると4種類のマークが芸者さんに付いている。

1つは三味線芸妓、他には熱海ざんぎ取得芸妓、熱海名所取得芸妓、

そして驚くことにゴルフのお供のできる芸妓の表示までされている。

00009

長唄の師匠とは数十年の永いお付き合い。なのに踊りを

披露したのは今回が初めて。なんの予告も無しに

舞台で舞い始めたのを見て「エーウソー」といったどよめきが!

しかも、東音会と熱海芸妓さんとのコラボ。こんな光景は

滅多に見られないことと皆感嘆の声しきりだった。

「熱海をどり」のポスター。熱海芸妓見番歌舞練場で

4月28日(日)・29(月)第30回記念公演が行われる。

興味のある方はまだ間に合いますので、行かれてみてはいかがですか?

お問い合わせ TEL 0557-81-3575


祝 ブログ開設10周年

2019-01-24 06:32:16 | コラム

2009年1月21日開設した「スミダマンのほのぼの奮戦記」が

とうとう10周年を迎えました。上司から「世の中ブログというのが

広まっている様なので勉強会に行ってみたら。

そしてできそうだったらやってみよう。」という指示を受けた社員が

スタートを切ったのがこの第1号です。

それを見て私が口を挟むようになったのが、2010年11月頃から。

そして今や番外編も含めて640件を超えた浦和エリア旨い店いシリーズが

2011年1月31日からスタートしました。

このシリーズに取り組んだために、

ランチタイムの発想も全く変わってしまいました。

この節目をきっかけに肩に力を入れずに更に一つ一つを

積み重ねていきたいと思っています。

これが1月19日付のアクセス記録です。これを見るとブログ開設から

3651日と成っています。この日はアクセス数が多く

訪問者数が749人、閲覧数が2529件。現在のGooブログ

登録数2,852,827件中なんと711位にランキングされています。

「スミダマンのほのぼの奮戦記」という社員がつけた

ネーミングも気に入っています。「継続は力なり」と言いますが

今後、常時ランキング1000位を切れるまで愛読していただければ

やった甲斐があるというものです。振り返ると、あれから10年、

よくぞ続いて来たものだというのが率直な実感です。

そうこうしたら、1月23日早朝に思わぬご褒美が来てビックリしました。

早春の鎌倉シリーズを始めて2つ目の「曹洞宗大本山 総持寺」を

アップしたとたん、数分の間に90件、その後100件そして

そして40件とわずかな間に230件もアクセルが来ました。

アクセル総合ランキングもあまり見たことがない

48位と驚きのランクです。この勢いはしばらく続きました。

一体何が起きたのか?理由がいまいち分かりませんが

この数値を見てワクワクしました。


記憶に残る2018 BEST5

2018-12-29 07:21:00 | コラム

みなさ~ん

今年も一年間「スミダマンのほのぼの奮戦記」ご愛読

ありがとうございました!

今年はブログ、超頑張っちゃいました。月平均24回アップ、

年間288件アップ目標をとうとうやってしまいました。

ちょっとくたびれたけどネ。皆様は今年はどんな一年でありましたでしょうか?

 

 

さて毎年恒例の2018年1年間の記憶に残ったBEST5を 

振り返ってみたいと思います。

 

第5位

「フレンチの巨匠 次々逝く」

フランス、リヨン近郊にあるレストラン「ポール・ボキューズ」の

オーナー、ポール・ボキューズが1月91歳で死去した。

1965年に得たミシュランの3つ星をなんと50年以上も

維持したフレンチの巨匠だ。

(1月)

一方「フレンチの神様」「フレンチの皇帝」と称され、

日本のフレンチ業界に多大な影響を与えたジェル・ロブションも

8月に73歳で亡くなった。ミシュランガイドで28個の星を

獲得して世界一星を持つシェフとしても知られていた。

(8月)

まさに2つの巨星落つといった感が強くして、一つの時代が終わった。

 

 

第4位

「埼玉県熊谷で41.1度国内最高記録」

 

(9月)

今年の夏は暑かったですネ。気象庁の記者会見で「命の危険が

あるような暑さ」「一つの災害と認識している」というコメントが発表され

これ以降、各種メディアで「災害級の暑さ」という語が新語・流行語大賞のトップテンに

選ばれた程だ。その最高気温が7月23日の熊谷市の41.1度。

過ぎてしまうと人間、記録が記憶になってしまうんですネ。

 

第3位

「大坂なおみと大谷翔平 アメリカで大活躍」

20代前半の若き大大コンビがアメリカで大活躍。本当にワクワク、

ドキドキさせてもらいました。有難う。

なんと20歳で全米オープンテニス決勝戦であのセリーナ・ウイリアムスを破って

日本人初のグランドスラムシングル優勝。アット驚く為五郎だ。(かなり古いかな(笑))

記者会見でのナオミスタイルのトークが又新鮮でユニーク。

記憶と記録に残る大会だった。

投打二刀流でメジャーに乗り込んだエンジェルスの大谷翔平選手。

ピッチングの方は途中ケガをしたが、MLBに大きなインパクトを残したんじゃないかな。

投打二刀流はあのベーブルース以来で、アリーグ新人王に輝いた。

来年は肘の故障を早く治して、今年以上の活躍を見たいものだよネ!

 

 

 

それ以外にも平昌オリンピックで羽生結弦、小平奈緒、高木美帆など

若きアスリートが日本人に大きな感動を与えたのも記憶に残ったことだネ。

 

 

第2位

「米朝首脳 史上初の会談」

(6月)

これもびっくり仰天の政治的出来事というより、事件だよネ。

This is トランプ流といった展開だった。まだ世の中、こんなことが起きるんだと

いった感想をもったヨ。それにしても金正恩は意外にしたたかで

決してバカではなかったことを世界中に印象付けたのでは・・・。

 

 

第1位

「草津白根山 突然の噴火」

個人的な意見で敢えて今年を表す自然災害の代表としてあげてみました。

 

 (1月)

昔、この道はハイキングでよく歩いただけにこの映像を見てショック。

まさか、ここで突然噴火がおきるとはこの世は何が起きても

おかしくない。しばらくして噴火がおさまったものの、

草津の保養所、アドリーム草津はどうなっちゃうのかと心配したものだ。

この動画もたまたま居合わせた人がスマホで撮ったのだろうが、

これからも昔で言う特ダネ映像が、ドンドンメディアに

紹介される時代に成ったのも印象的だ。

これ以外にも西日本集中豪雨水害、大阪・北海道の

地震など災害が多かったことが一番今年記憶に残ったことだネ。

 

 

どうですか、このランキング?これで今年のブログは終わりです 

来年も引き続き「スミダマンのほのぼの奮戦記」のご愛読、よろしくお願いします。

 

ではよいお年を!!

 

 


ロシアW杯日本代表IN浦和

2018-07-03 02:49:34 | コラム

今、日本列島はサッカーW杯日本代表の活躍で熱い。

サッカーのまち浦和も浦和レッズ一色の浦和の街が

一時日本代表の応援で表情を変えた。

 

浦和駅周辺の電柱は「サッカーのまち浦和 We are REDS!」の赤い旗から

「夢を力に2018 さいたま市は日本代表を応援しています。」の

青い旗に変わった。

 

特に浦和駅の改札口近辺は日本代表チームの

選手達の旗が沢山たなびいている。

この中から浦和に縁のある監督はじめ選手達の旗をアップしてみた。

 

W杯開催前と後で全く評価が変わった。

西野明監督は浦和の出身だ。

西野氏は、旧浦和市立原山中学校卒業後、その当時のサッカーの名門進学校

の埼玉県立浦和西高校でMFとして、全校高校選手権でベスト8の成績を残している。

その後早稲田大学、日立製作所、U-20、U-23日本代表監督、

柏レイソル、ガンバ大阪、ヴィッセル神戸、名古屋グランパスの

監督を経て、2016年3月から日本サッカー協会技術委員長に就任した。

今世論、特にマスコミは「西ちゃんごめんなさい。」と手のひら返し。

この日本人特有のエモーショナルな心理構造に昔から大いなる疑問を持っていた。

 

現在も日本代表のキャプテンを務めている長谷部誠。

2010年の南アメリカW杯岡田ジャパンから、8年間キャプテンを続けている人格者。

静岡県の藤枝東高校から2002年浦和レッズに入団。

5年間浦和レッズに在籍し、J1優勝やAFCチャンピオンリーグ優勝など、

レッズの黄金期を築いた。

その後ドイツブンデスリーガのV+Lヴォルクスブルグ、

ニュルンベルグからフランクフルトへ、

今年ブンデスリーガ100試合出場を達成した。

東北大震災のあった年に自己啓発書「心を整える」を出版。

印税金額を日本ユニセフに寄付している。

売上は140万部を超え、寄付額も180万ユーロに達している。

性格は生真面目で優等生的だが、それが良い面に出ている素晴らしい選手だ。

 

原口元気は、埼玉県熊谷市の出身。中学進学と共に浦和レッズジュニアユース、

その後飛び級でユースに昇格した天才選手。

2009年1月30日に浦和レッズとプロ契約を締結。

これは日本人でクラブ史上最年少だ。

2011年は開幕からレギュラーに定着し、ナビスコカップニューヒーロー賞を受賞。

レッズで中心的選手に成長した。

2014年ドイツブンデスリーガのヘルタ・ベルリンに完全移籍。

フォルトゥナ・デュッセルドルフ、そして先月6月12日にハノーファ96へ3年契約完全移籍した。

日本代表としてはW杯最終予選として史上初となる4試合連続得点を記録した。

原口はレッズユースからは最も成長、活躍した選手に成った。

 

ゴールキーパーの川島永嗣は、さいたま市中央区(旧与野市)の出身。

与野西中時代に本格的にキーパーのポジションを始め、埼玉県選抜に選ばれ、

ドイツとオランダへ遠征に行った経験のある。

県立浦和東高校へ進学し、3年の間に高校サッカー3大大会すべてに出場した。

学生時代は成績は優秀で、周囲からは大学進学を勧められたが、プロ行きを決断。

地元浦和レッズのセレクションは不合格となり、大宮アルディージャへ入団した。

その時、獲得を決めたのが強化部長の佐々木則夫(後に日本女子代表監督)であった。

その後名古屋グランパスエイト、川崎フロンターレへ移籍。そして海外へ活躍の場を移した。

2010年7月ベルギー・ジュピラーリーグ(1部)のリールセSK、

スタンダール・リェージュ、ダンディー・ユナイテッドFC(スコットランド)、

そして現在リーグ・アン(フランスリーグ)のFCメスに在籍している。

又、英語、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語、オランダ語、

フランス語など語学力が優れていることで有名だ。

尚、父親はロータリアンで度度お会いしている。

 

浦和レッズ所属のディフェンダー牧野智章は、広島市の出身。

サッカーファンであった父とサッカーをやっていた2人の兄の影響で

小学校1年生からサッカーを始めた。

2000年にサンフレッチェ広島ジュニアユースに入団。

ユースに昇格し、同期に現在レッズの柏木陽介と一緒に、2006年にトップチームに昇格。

2007年8月にレギュラーに定着した。その後Jリーグベストイレブンに選出され、

又、全試合に出場しながら警告、退場が1枚もなく、フェアプレー個人賞も受賞した。

2010年12月レッズの監督も務めたフォルカー・フィンケの誘いで、

ドイツ・ブンデスリーガのIFCケルンに入団したが、出場はわずかで終わった。

その後、広島時代の恩師ミハイロ・ペトロビッチ浦和レッズ監督就任に伴いレッズに入団。

持ち前の明るいキャラクターでレッズサポーターと

「We are Daiamonds」を一緒に歌うなど、

チームとサポーターの距離を縮める施策を実行した。

正に浦和レッズのムードメーカーだ。

 

将来、日本代表のエースを嘱望されている浦和レッズの若きエース遠藤航。

横浜市出身の25歳で、中学3年の時に湘南U-18からオファーを受け、

2010年湘南ベルマーレでJリーグデビュー。

その当時の反町監督から「ボールは動かせるし、身長(178cm)は低いけれど、

ヘッディングも強い。」と評価された。

チームのJ1昇格に貢献し、その後2015年12月、浦和レッズに完全移籍した。

2016年リオデジャネイルオリンピックのメンバーに選出され、キャプテンも務めた。

最近のエピソードとして、湘南ベルマーレの本拠地平塚から選出された

現外務大臣の河野太郎氏(湘南の社長も務めていた)が

浦和に講演に来て、遠藤を湘南に返してほしいと言って、

会場を笑わせたことが、個人的には印象深い。

私もずっと観察してきたが、ポジション取りが素晴らしく、

とてもクレバーな選手だと感じている。

 

URAWA SOCCER STREET(2018-3-24付ブログ参照)

の中にあるレッズオフィシャルショップを入った所に,

 

浦和レッズから日本代表選手に呼ばれた

槙野智章選手と遠藤航選手の等身大パネルがサムライブルーの

ユニフォムとマフラーをまとって展示してあった。

 

浦和サッカーストリートのタッチディスプレパネルのデジタル・インフォメーションウォールも

W杯バージョンが加えられていた。

度々メディアで露出している浦和レッズの夜の聖地「やき鳥 力」にも「がんばれ日本!」

の横断幕が登場。店内の大型TVモニターもロシア杯の中継で大盛り上がりだろう。

 

これが普段の浦和の街の姿。

裏門通りとさくら草通りの光景です。

「ガンバレ ニッポン!」