思考の部屋

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倫理の虚構性

2012年05月01日 | 思考探究

[思考] ブログ村キーワード

 昨夜のブログにドイツ強制収容所の体験記録精神科医のユダヤ人医師V・E・フランクの『夜と霧』について旧版と新版のことについて「※」書きにかきましたが、その差異についてはしんばん訳者の池田香代子さんのサイトに掲載されている旨を話しました.


 当然著書の訳者あとがきにも掲載されていて、それによると「モラル」「ユダヤ人」という言葉の掲載数に大きな違いがあるようです。旧版では多く見られた「モラル」という言葉が新版では二つだけ、「ユダヤ人」という言葉は旧版では全くなかったものが新版には多用されているとのこと、そこには著者フランクルのこころの変化が見られると池田さんは語っています。

 直後の心境とその後の心境の変化、これについては番組では放送されませんでした。人間性に訴えるとき、人であることを期待する、そこにはまず「モラル」倫理・道徳を求めます。人間としての当然守るべき行動基準。

 神亡き後の世にカントは定言命法を提唱しました。他の者が当然守るであろうとする無条件の義務、超訳では「あなたの意志の規準が、常に皆の納得する法則に合うように行為しなさい」と書かれていますが端的でわかり易く解説されていました小川仁志著『超訳「哲学用語」辞典』PHP文庫)。

 こころの時代ではフランクルの「生きる意味」に視点をおき3.11の東日本大震災の未曽有の体験に重ね合わせながら語られていました。3.11後の考えを述べる著書が数多く出版されています。私も何冊か読んでいるのですが、多くの分野の方が書かれています。今朝は「倫理」という点に視点をおき「倫理の虚構性」について書いている社会学者大澤真幸著『夢よりも深い覚醒へ』(岩波新書)から「倫理の虚構性」について書かれた部分を紹介したいと思います。

<大澤真幸著『夢よりも深い覚醒へ』(岩波新書)から>

 倫理の虚構性
 まず、ここで次のことに思い至るべきである。われわれが何でもない日常生活を送り、定言命法を遵守することで倫理的な威厳を保ちつつ、他方で、どんなに誘惑的な状況においても、あるいはどんなに苦しい状況にあっても、この威厳のある態度をいささかも崩すことがないだろう、と主張するとき、この主張は、純粋な虚構であり、われわれの成厳は虚構によって保護されているのである。

「虚構」だという理由は、明白であろう。われわれは、実際には、そんなにとてつもない誘惑的な状況の中にもいないし、それほどの苦難の中にもいないからだ。

「そうした状況下においても・・・・・」というのは、虚構的な想定である。定言命法のような倫理が機能するためには、この虚構が機能していなくてはならない。

 しかし、こうした虚構の虚構性が不可避的に暴露され、虚構が維持できなくなってしまうときがある。それこそ、極端な破局の瞬間、あるいはそうした破局に立ち会い、破局を目の当たりにしてしまった瞬間である。どういう意味なのか、極限のケースを用いて説明してみよう。

 人間的な破局のリミットとして、ナチスのユダヤ人強制収容所で「ムーゼルマン(回教徒)」と呼ばれた人々のことを考えてみよう。ムーゼルマンとは、強制収容所の過酷な環境の中で、あらゆる気力も体力も失い、生ける屍のような状態になってしまったユダヤ人を指す隠語である。ほとんど動物的反応すらも示さず、彼らは、死んではいないが、生きているとも言えないような状態を呈する。つまり、ムーゼルマンは、死と生との中間地帯にあるのだ。

イタリアの哲学者ジョルジョ・アガンペンは、ムーゼルマンを前にして、倫理的な威厳を保ったり、上品さを維持したりするとしたら、それ以上に下品で、非倫理的なことはない、と論じている。どうしてなのか「想像することはそれほど難しくはない。

 たとえば、ちょっとした苦難に尻込みをしたり、ささいな誘惑に屈しそうになった人に対して、「うろたえるな」「威厳を保て」「動揺するな」と忠告し、自分自身も上品でいることは難しいことではないし、またそうした忠告や態度こそ、自分自身の倫理性の表現にもなる。しかし、同じことをムーゼルマンに対して言う、ということを想像してみるとよい。

強制収容所の過酷な環境の中で、生ける屍にまでなってしまった人に対して、「私のようにしゃんとしなさい」と言ったり、「俺のように威厳を保て」ということを態度で示したとすれば、これほどおぞましいことはほかにないだろう。誰であれ、ムーゼルマンのような状態にまで追い込まれれば、威厳など保てないことは明らかだからである。

ムーゼルマンの現前は、倫理の全体を停止させてしまう。言い換えれば、カントの定言命法に代表されるような倫理が維持されるためには、ムーゼルマンから目を背けるしかないことになる。

 しかし、目を背けることが不可能なときがある。破局のときがそれである。破局とは、その被害者を多かれ少なかれ、ムーゼルマンに近い境位に追いやることになる出来事だからだ。9・11のときも、あるいは3・11においても、われわれはムーゼルマンに近い状態の人々を、ムーゼルマンと同一視できないまでも、そうした極限を連想させる人々を、たくさん見た。

旱魃と空爆によって気力をすっかり失ってしまったアフガニスタンの人々に、「威厳を保て」と忠告することは、どこか恥知らずな印象を与える。津波によって、財産はもちろんのこと、親族をすべてさらわれ、茫然自失の状態にある人に対して、その気カの喪失を非難することはとうていできない。

放射線を恐れ、逃げ出す人に対して、これを「臆病者」と笑ったり、「かっこ悪い」と軽蔑する人は、やはり反倫理的である。

 破局は、倫理に関して何を教えてくれるのか。われわれが、ほんの少しでも倫理的でいられるとしたら、人間的な威厳を保てているのだとすれば、それは、われわれが運よく破局を免れたから、われわれがムーゼルマンの立場に置かれずに済んだからである。つまり、倫理は、全面的に幸運に、偶有性に依存しているのだ。

偶有的な運不運に依存しない倫理というものは、完全な虚構である。破局が、倫理についての不安をもたらすのは、それが、倫理の偶然性を垣間見せるからである。破局を逃れた人たちが思い知るのは、自分たちが生き延びたことについて運がよかっただけではなく、自分たちが倫理的な生活を維持できるという点でも運がよい、ということである。

 このように考えると、キリスト教徒が「恩寵」と呼んでいるものに、宗教から独立した意味を与えることができるだろう。人は恩寵(理由のない幸運)によって、倫理的な主体でいられるのである。恩寵と倫理の間には深いつながりがある。

<以上※読みやすいように段落を変えてあります>

 現前の現象から我々は生きる意味を突きつけられている。そうフランクルは言っていました。そういう意味理解能力を人間は持っているとも言います。

 過酷な労働を強いられて居眠り運転で重大事故を起きた旨のニュースがありました。

 それでも運転しなければならないのか。

 休ませないで働かせるのか。

 結果は誰もが予想される話です。守られる倫理性は誰もが持ち合わせているのではないか、当然報道する側にも。

 悪者は誰なのか目線で見ると、見えるものが背後に下がってしまいます。「倫理の虚構性」はフランクルの話しとは視点が異なる思考視点で語られていますが、立ち現れてくるものは私には同じように思います。

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