時々思い出したように言及するものの最近はあまり「やまと言葉の世界」から遠ざかっているような気がします。世の中どうしてこんなに興味あることが多いのでしょう、浮気心の多い性格がそうさせるのかも知れません。
素人ながらに哲学などに興味をもっているせいでしょうか、ドイツ語の響きにとても魅力を感じることがあります。前世を信じるわけではありませんがパン好きなこともあり冗談で前世はドイツ人だったかもしれないという時があります。
しかしお酒が大嫌いなところ、特にビールの美味さを語る話には全く興味がないところをみるとまずそれはないことが言えるようです。ドイツ学生の歌とかいう50曲ほどのは入ったCDを時々聴くこともあり、何があなたをそうさせるのか? 不思議なことです。
まあ何人でもいいのですが、最近哲学でこっているのは「存在」「実存」「実在」という言葉、私自身の思考の中で明確に概念分けのできない悩ましさがある言葉です。
存在の哲学もあれば、実存の哲学もある。そして実在の哲学も世の中にはあるわけで、そもそも「仏道は実在論である」という禅僧の西嶋和夫老師の言葉に納得し切っているところにそもそもの原因があります。したがって昨日のブログタイトル「実存分析は実在的思考に変換させる作業ではないか」などというものは自己陶酔の何ものでもありません。
ただひたすら我流に哲学を勉強する、只中の典型例と言えます。
さて前置きはさて置き、「存在」「実存」「実在」を思考する上で出会った著書に京都大学名誉教授で哲学者の山内得立(やまうち・とくりゅう)先生の『随眠の哲学』(岩波書店)がありこの中で、
“「エクシステンチア」の歴史と意味。「エッセ」の根拠としての「エクシステレ」”
ということについて書かれています。
「エクシステンチア」=「existentia」
「エッセ」=「esse」
「エクシステレ」=「existere」
という言葉で、山内先生の話では、
エティエンヌ・ジルソン の安藤孝行訳 『存在と本質』(行路社)によると「existentia・エクシステンチア」という言葉は「substantia」から区別された言葉であり紀元4世紀ごろには「existentia」という語が新しい「存在」として用いられたことは大体において認められてよいようである使用されていたようです。
と解説され、「existentia」という言葉の変遷について細かく述べられています。これをそのまま引用するとなると、4世紀ごろの西洋哲学における日本語の「存在」に適合する
ことばは、「エクシステンチア」=「existentia」ということになります。
さて哲学用語というものは素人には分かりにくいものです。そこで世の中の便利さを利用します。サイトに、
哲学・科学用語辞典
http://tetsugaku.tripod.com/philosophe/termpensee3.html
があります。ちなみに上記の「substantia」は、
【substantia】(実体:substantia, ousia, hypokeimenon, hypostasis)
知覚されうるさまざまな性質、状態、作用の根底によこたわり、これを制約していると考えられるもの。あるものが何であるかという問いの答えとなるそのものの本来のあり方を意味する。
プラトンは、個々のものが実際にそれであるところのものをウーシアと読んだ。ウーシアはこもののあり方(ピュシス)という意味での本性や本質のことであり、これは「なる」に対する「ある」ということであった。
アリストテレスは、ウーシアという語によって質料と形相からなる個物を意味することもあり、またその個物に関して概念的に把握されるものを意味することもある。区分けすると、彼は実体を、
1.感覚的で永遠なもの(天体など)
2.感覚的で可滅なもの(植物や動物)
3.普遍不動なものの三つの型に分けた。
前二者の複合体をつくる要素のうち、最も実体と呼ぶに値するものに、基体と類と普遍と本質(ti esti)の四つを挙げ、本質こそ最も実体と呼ばれるにふさわしいとした。
さらに実体を二つに分け、個人や個物を第一実体とし、これは本質述定と内属性の要請するヒュポケイメノンが何もないもの、つまりヒュポケイメノンそのものである。また、類や種を説明するものを第二実体とした。個物としての実体は、質料と形相の結合体である。
ラテンにおいてはエッセンティアもスブスタンチアも同じ意味で用いられてきたが、トマス・アクィナスは両者を分離した。存在するあるいは存在するものを実体とし、実体がある存在者と呼ばれるべき時はエクシステンティア(実存)を用いた。
実体には二つの組成があり、
1.質料と形相からなる場合、
2.すでに合成された実体そのものに実存が結合される場合とがある。
神のみにおいて本質と実存が一つであるが、それ以外の存在者の実体においては、本質を存在させるためにはそれと区別された実存が必要となっている。
近世にはいると、デカルトが実体をそれが実存するために何らかの実在者(res)を必要としない仕方で実存している実在者のこととした。そして、最高の実体を神とし、精神と物体は神によって生産された二つの有限実体であり、相互に交流はないとした。
これに対しスピノザは神のみが唯一、「それ自体によって理解され 、その概念を形成するのに他のものの概念を必要としない」実体であるとした。ライプニッツは思惟する実体として精神を、多を表現する一なるモナドととしてとらえた。この精神としての実体は神と対話しうる主体である。
実体としての精神という考えはやがて衰退し、代わりに機能、活動としての精神が全面にでてくる。ここで重要なのは主体と客観との「関係」という概念である。
<以上>
しからばこの「哲学・科学用語辞典」サイトでは、「エクシステンチア」もちろん「existentia」という言葉はどうかいせつされているかと言うと次のようになっています。
【existentia 】(実存:Existenz, existence)
1.普通にわれわれの認識や意識から独立に事物が存在しているという事実そのもののこと。
2.事物の本質ないし本性と区別して、その事物の存在することそれ自体を示す。
3.抽象や理論に対して生のままの主体的にいきられている現実のこと。
existentiaはexistereという動詞からきており、これは「なんらかのものから」「存立する」意味で存在することよりも生起することを意味した。
これはスコラ哲学において、事物の本性を示す本質と区別して、事物が現実に存在しているという活動を示すのにも用いられるようになった。
トマス・アクィナスが本質と実存の区別を明確にした。後期スコラ哲学によれば、本質は存在の潜在態であり、究極の現勢態である実存によって現実存在となる。
ハイデガーは「現存在の本質はその実存にある」とした。「Eksistenzは実質的には存在の真理性の中に立ち現れることを意味するが、existentiaはこれに対し、現勢態、すなわち、理念の単なる可能性とは区別された現実性を意味する」
などと解説されています。
この解説は内山教授の解説とも重なる部分もありとても参考になります。そして関連する言葉としては、「esse・エッせ」「essentia・エセンチア」という言葉も解説されています。
<哲学・科学用語辞典>
【esse】(存在:on, eon, ousia, Sein, essentia, Wesen, essence, etre, being)
ギリシャ語「on」は動詞「einai」の中性動詞で、本来「ある」か「存在する」とかいわれる物事を指す。
プラトンは存在を不動のものとして考えたパルメニデスの思想を受け継ぎ、真の存在をイデアないしエイドスとした。彼は存在を真の存在者(ontos onta)と生成(genesis)をもつ存在者とにわけ、前者は思惟の対象でありロゴスを伴うもの、後者は感覚の対象で臆断を伴うものとした。
アリストテレスは存在はさまざまな意味において語られるとした。
存在は、
1.付帯的な存在、
2.自体的な存在、
3.真的ないし偽的存在、
4.可能的ないし現実的存在に分けられる。
アリストテレスは存在の問いを実体についての問いと見なし、実体を永遠で感覚できないいわば神的なものと、感覚でき生成消滅する自然物とに分けた。また彼は実体を第一実体と第二実体とにわけ、第一実体としての個物存在が存在の中心とされる。
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【essentia】(本質:ousia, to ti estin, Wesen, essence)
1.形而上学における本質。偶有性あるいは付帯性においてあるものと区別される実体のこと。つまり、それが何であるか、ということと、それ自体においてあること、のどちらも意味する。
2.神学的な本質。事物においてその本性(natura)を構成するものであり、人間にとっては事物の可知的な要素である。トマスは、神がただ存在だけからなる存在者そのものであるとし、ほかの存在者においては、それが何であるかその本質を問うことができると考えた。すべての事物において神は実在(existentia)するのである。
3.論理学的本質。思惟が思惟の対象を限定する概念と定理の総体。中世の唯名論のあと、近世以降、本質は認識論の側からとらえられる。カントにおいてもヘーゲルにおても、本質と実在の関係は、理性的存在と経験的与件との関係において考えられている。
4.現象学における本質。現象そのものにおいてあらわれており、本質直観においてとらえれられる事象の形相。
本質について最初に考察したソクラテスが問うた「何であるか」は、人が自分の人生をこれにのせてと自分が納得できるような定義であった。
プラトンにおいて事物の本質はその事物の形相ないしイデアである。個々の事例はこれを分有し写す。
アリストテレスは個体にこそ揺るがない本質があると考えた。個体の「何であるか」とは種であり、その答えと問いが共に現実化されているエネルゲイアが、この人、このものなのである。
トマス・アクィナスは本質とは存在者の「なんたるか」を構成するものであるとした。
本質とは何性(quidditas)や本性(natura)とも言われるが、それが実在するためには存在を持たなければならない。
「本質とはそれによって、またそれにおいて存在者が存在を所有するそのものである」。
本質は、神においては存在であり(プラトン)、事物においては個物のうちにその個的存在に従って存在(アリストテレス)し、知性によって個物から抽象されると普遍概念として知性的存在に従って存在する(概念論者)。
近代哲学において本質とは、ある物が当のその物である、その物の内的根拠であるとされた。カントにおいても同様であり、本質とは物の根拠、原理である。ここでは本質が存在に先立っている。しかしヘーゲルは、本質とは現に存在している物のあり方に基づいて、われわれがそれを定立することによってそれ自体としてはじめて生成するものであるとし、本質を物に内在しているものとするこうした考えを覆した。
<以上>
となっています。この辞典では、
>existentia (実存:Existenz, existence)
>esse (存在:on, eon, ousia, Sein, essentia, Wesen, essence, etre, being)
>essentia (本質:ousia, to ti estin, Wesen, essence)
>substantia(実体:substantia, ousia, hypokeimenon, hypostasis)
です。今現在のことばとして、実存主義は、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』では次のように解説されています。
実存主義(じつぞんしゅぎ、英語: existentialism)とは、人間の実存を哲学の中心におく思想的立場。あるいは本質存在(essentia)に対する現実存在(existentia)の優位を説く思想。
と解説されており、上記の哲学・科学用語辞典サイトと共通概念場において混乱を生ずることはありません。
一つの問題点と言いますか疑問が生じます。
4世紀ごろの西洋哲学における日本語の「存在」に適合することばは、「エクシステンチア」=「existentia」とはどういう概念なのだろうか?
すなわち実存ではない概念としての「existentia」
ジルソンによると思想史的に顕著になってくるのは12世紀頃からで、パリのサン=ヴィクトールの修道院において有名なユーゴの後継者リシャールの時代からで、このリシャールという方はかなり知られた神秘主義者であったようです。その当時の「existentia」はどういう概念の言葉であったのか上記に山内先生の著書には次のように書かれています
<『随眠の哲学』(岩波書店)から>
existentiaという名詞はexistereという動詞から転化したものであって、sistereにexを加えて作られたものである。-----まず自己の中に存在をもたず、他のものに内在することはinsistereと言われるが、他のものから離されて出て来ることはexsistereと名づけられる、それは他のものからsistoしたものであるから。sistoというラテン語は元来、そこに置く、又は据えられる(set up, fix)の謂であり、従って他のものからそこに現われてあることが即ちex-sisto,exstoであった。それ故にエクシステンチアとはそれ自らに於いて存在をもつものではなく、他から引き出されたもの又は他から出て来たものである。
従ってこの名詞の中には物の性質に関する考察と物の起源に関する意味とがふくまれている。Alexander de Hales(1245年歿)は言う、「existentiaという名詞は起源の秩序を伴った本質を意味している」。・・・・・
<上記書p40>
私自身が言いたいのは、今流の「実存」という哲学上の言葉は今現在の概念で形成されている言葉であるということです。しかも同じ日本語で翻訳され、されているということです。
実存主義における実存は、ご存知の通り「神が死んだのを知らないのかい」の時代以降に培われてきた思想的流れの中で成立した概念です。
こうダラダラと書いているのですが、そもそもの問題の根源は日本語の「存在」という言葉にあるように思います(当然ですが)。
すなわち翻訳事情にあるわけですが、そこで参考になるのが柳父章著『翻訳語成立事情』(岩波新書)です。この第6章に「存在・・・存在する、ある、いる」に書かれています。
1 辞書におけれ「存在」の翻訳史
2 和辻哲郎の being 翻訳論
3 「である」は翻訳で作られた
4 「存在」は「存」+「在}でない
5 「ある」と「有」は同じでない
6 「私はある」は間違っている
7 日常語の意味を切り捨ててきた翻訳語
そういう理由がある言葉なのかと半分ぐらい納得できる解説がなされています。この中の《4 「存在」は「存」+「在}でない》は、中々面白い解説です。
<柳父章著『翻訳語成立事情』(岩波新書)から>
四 「存在」は「存」+「在」でない
次に、「存」は時間的意味、「在」は場所的意味を持っているので「存在」は、beingの、とくに自分自身がある、という意味の翻訳語として適切である、という和辻の意見であるが、「存在」という二字の新造語を造った以上、このような意味の分析はほとんど意味がない、と私は考える。
「社会」と「会社」の意味は、「社」や「会」とは、ほとんど関係がない。
「存在」とは、二語である。とりわけ、このことばを受けとる多数の人々にとって「存在」は単に「そんざい」と発音されることはにすぎない。このことはの使われる文脈から、人々はこれが翻訳造語であって、私たちが日常あまりよく知っていない意味のことばであることは分るが、そのとき「存」や「在」からその意味を考えることはほとんどない。
「存在」とは、何か深刻な、高級な意味を持つという効果を伴った「カセット」(宝石箱)のようなことばなのである。たとえは、「私がいる」ということについて考える、と言う代わりに、「私の存在」について考える、と言うと、何やら近づきがたい深刻な問題のような感じを受けるであろう。
<以上p116>
宝石箱のような言葉なのだそうです。「私の存在」「私について」、「自己の存在」「自己について」「魂の存在」「魂について」・・・・・。
このように「存在」という言葉を中心として、実存、実在という言葉について・・・・・「実在」についてはほとんど「仏道は実在論である」としか書いていませんが・・・・・書いてきましたが、くり返すようですが昨日のブログタイトル「実存分析は実在的思考に変換させる作業ではないか」このような背景があるわけです。
※文字変化は10000文字超で中止しました。