思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

改訂版Eテレ・こころの時代「生きる意味を求めて ヴィクトール・フランクルと共に」(前編)

2012年05月27日 | 思考探究

[思考] ブログ村キーワード

 解剖学者の東京大学名誉教授養老孟司さんの「わかる」という講演会のCDを聴いていたところ、意識というものは「同じ」ということを確認している、ということを言われていました。朝目覚める。「自分は自分である」と。夢を見ていれば今ある自分が昨日と同じ現実の自分であると誰もがそう思う。意識は昨日の自分と今日の自分とは同じ者であると確認しているわけです。解剖学者という特殊な立場が、意識というものに特別な注意を向けさせるのではないかと思う。

 このことは「存在」という概念にも通じることで、非常に参考になる話です。さてこれまで、頭の片隅でくすぶっている「実存」「実在」という言葉について、昨日までに
 
 事実存在(existenz)=あるものがあるかないか=があるという存在

 本質存在(essentia)=あるものが何であるか=であるという存在
 
という言葉のギリシャ哲学から現代哲学における変遷を見てきて、事実存在=実存、本質存在=実存というものだろうかと思っているわけですが、そうなると改めて「生きる意味」を見い出す精神療法を実践した心理学者のE・V・フランクルの話しが気になります。

 「常に死と隣り合わせの極限の只中にいる人はいかに生きることができるのか」「苦悩の只中にいる生きる意味の重要性を自分の体験を通して確かめることになったフランクル」そこには「人生には生きる意味がある」という哲学が実存的精神療法家の立場から語られていて、一か月前に放送されたNHKのこころの時代で哲学者山田邦男先生が語った「生きる意味を求めて ヴィクトール・フランクルと共に」という番組を観直しました。

 一か月前の私に「実存」という言葉、「裸の実存」という考え方を語るものでとても参考になったからです。そこで番組内容を自分で起した文章を確認して番組を観たところ、文章に訂正が必要なところがあり、また改めて「実存」「実在」という問題を考える上に参考になるので再度訂正版として掲出することとしました。

 なお番組冒頭の一部を略してあります。それでも15000文字以上になりましたので、前後半に二分割しました。今後も「実存」「実在」についてこの番組内容を参考にしながら、再考したいと思います。

<死に対する恐怖とフランクルの思想との出会い>
 
【山田誠浩アナ】 フランクルの考え方を山田さんが深めて段々知って行こうとしたのはなぜなのですか。
 
【山田邦男】 いろいろございますが、私自身の個人的なことですと私が生まれて半年後に亡くなって、特にそのことを意識するということはなかったのですが、何か無意識のうちに「死」ということを気にし考えていたという機運があったと思います。
 
【山田誠浩アナ】 気にするということは?
 
【山田邦男】 死んだらどこへ行くのだろう。そして死の恐怖というものがありました。これは誰にも言っていないことですが、例えば夜中にフッと布団の上に起きて死の恐怖でゾッとするのです。死ということが絶えず気になっていました。私は教育学部に入ったのですが、ゆくゆくは教育哲学の専攻で身を立てて行こうと考えていました。
 
 教育哲学の最大のテーマは、「教育の目的は何か」ということでそれを研究するということで、一方に「死」というものがありましたから、「人間はなんのために生きるのか」と、教育の問題を根本から考えるとすると「人生はなんのためにあるのか、何のために生きるのか。死んだらすべては終わりではないか・・・そうするとどんな教育目的を立ててもそれは根拠のないものであると、そのことが気になって、教育目的論、教育哲学のようなことを本当にやろうとすると、その「死」という問題を克服しないといけない。
 
 つまりニヒリズム(虚無主義)というものを本当にのり越えないことには自分の専門である教育哲学も成り立たないということです。
 
 その問題が大学院の頃から(その思いが)起ってきまして、そのころにフランクルの『夜と霧』を読んで「人生には無条件に意味があるんだ」と、これは完全にニヒリズムの裏返しというか否定なのです。人生肯定論です。
 
 それを非常にはっきりと(フランクルは)主張していて、おそらく宗教者は別にして哲学者としてフランクルほどはっきりと人生を肯定した人物は他にはいないのではない特異な存在に思いました。
 
 そしてフランクルさんを支えにしたということもあるのですが、他方で、少し甘いのではないかという疑問をもっていました。
 
【山田誠浩アナ】 甘いということは?
 
【山田邦男】 人生を無条件に肯定するということなのですが、それは「ニヒリズムというものを本当に突っ込んで深く捉えていないのではないか」と思えた。この点は難しいのですが、例えば「私たちは人生は空しい」、「生きていくのが嫌になった」と誰しも思うことがあると思いますが、そのような考えが続くと普通は宗教に救けを求めますね。

 ところがニーチェのいっているようなニヒリズムの徹底した立場は、自分が救いとして頼り、信じている神がもう存在しない、その神さえ信じられないのだ、ということで、宗教で救われる道も断たれてしまう・・・というその先に出てくるのがニヒリズムということです。
 
 そのように考えますとフランクルは本当にニヒリズムを越えたのかなという疑問がありました。
 
 他方そういう深いニヒリズムをもう一つのり越える立場というのは、私は「禅」「禅仏教」だと思っていまして、私の先生の上田閑照(1926~宗教学者)は、禅の修行者であるとともに禅哲学の深い研究者で、その上田先生のお師匠が西谷啓治(1900-1990 宗教学者)これがすごいニヒリズムの徹底した研究者なんです。この西谷啓治の恩師が西田幾多郎(1870-1945 哲学者)なんです。ですから西田・西谷・上田といういわゆる京都学派の先生方がごく身近におられ、一方でフランクル、一方では禅思想、禅哲学のようなものを平行してきました。

【山田誠浩アナ】 フランクルの考え方が今言われましたようにニヒリズムを越えているそういう深いものかどうかということをズーッつ追ってこられたということですか?
 
【山田邦男】 そうなんです。当初私が気がつかなかったフランクル思想の深さというものが、京都学派の思想を並行して調べているうちに、フランクルの思想も実は深いものがあって、禅とか京都学派が言っているようなことと非常に、ほとんど酷似しているというところまで接近してきたのです。それはもう比較的最近のことですが。
 
【山田誠浩アナ】 最初の時点では、フランクルが「無条件に人生に意味があると言っているところに山田さんが噛みつかれた・・・飛びつかれたのか、それともフランクルのそれがガーッと山田さんを捉えたかですか?
 
【山田邦男】 同じことですが、私はそういう問題を抱えていましたから、フランクルに憑りつかれた、フランクルが私を掴んだ、という感じの方が近いかもしれません。
 
【山田誠浩ナレーション】人間の生きる哲学を探究してきた山田邦男さんはおよそ40年に渡りフランクルの思想に向き合ってきました。解放後まもなく出版された『それでも人生にイエスと言えるか』をはじめ数々の著作を翻訳、フランクルの「生きる意味」を追い続けてきました。
 
 山田さんは、昨年フランクルが収容所で練り上げ、晩年まで改定を続けたラウフワーク『人間とは何か』の翻訳を終えました。東日本大震災が起こって間もなくのことでした。
 
 深い苦悩や混乱の中にいる私たちにフランクルの思想は何を語りうるのか。今あらためて問いなおしたいと思っています。
 
【山田邦男】 フランクルの言葉で申しますと「裸の実存」ということを言っているのですが、我々は一切合切ににもかも身ぐるみ剥がれて、名誉も地位も奪われてそして裸のまま丸ごと放り出されてしまっている。これは実際にナチスの強制収容所に収容されていたときにそういう状態になった訳ですが、今度のあの震災のあの状況を見ていましたときに、愛する家族も仕事場も、持っている財産をもすべて津波に流されてしまって、やはり「裸の実存」という感じがやはりいたします。
 
 もう少し話しますとフランクが強制収容所から解放された翌年1946年、当時のウイーン市民に向って講演をおこなうんです。1946年という年は、広島と長崎に原爆が落ちた翌年ということで、その講演が『それでも人生にイエスと言えるか』なんですが、この中でその時代状況についてフランクがこういうふうなことを言っています。
 
「こころの中が爆撃を受けたと」というふうなことです。

「そういうふうにこころの中が爆撃を受けたと言えば、今日の人々の気分、心境を最も特徴付けられるのです」

あるいはこうも述べています。

「原子爆弾の発明は世界規模の破局の恐怖を育んでいますし、一種の世界滅亡の気分が我々を占領しています」

というふうなことを言っているのです。
 そして実際に、今度は原子力発電所ですね。原爆ではなくて原発で、こっちもメルトダウンしたということですね。これがいつ日本列島の場合には大地震が起こるかもわからない。これはかなり現実的な恐怖感を我々は日々抱いているといえると思うのです。
 
 私は極限状況というこでは強制収容所とよく似た状況ではないかと思いまして、そういう状況の中で多くの人々が「自分にはもう生きている望みも何もない」ということで、自ら命を絶ってゆくという・・・。高圧電流が収容所の周りに張り巡らせてあってそれに触れると感電し即死する人たちも多く出たと、言われています。

フランクルは年来、強制収容所に入れられる前から「どんなことがあっても人生には生きる意味がある」のだと、どんな苦しみの中にあっても意味があるのだということをズーッつ考えて来た人ですので、まさにその現場に直面したわけです。おそらくフランクル自身、ここで自分が今まで考え主張してきたことが、試されているのだと、十字架の試練に遇っているんだと、いう自覚をもっていたと思います。
 
 彼は実際に精神科医師でもありましたので、そういう絶望状態にある人々に励ましの言葉をかけていたわけです。ちょっとそこのところを読んでみたいと思います。これは『夜と霧』の霜山徳爾の訳で申しますと,
 
「私はもはや人生から期待すべき何ものも持っていないのだ。」
 
と今そういうふうに人びとが語る、それに対して
 
「人は如何に答えるべきであろうか。」
 
と、ここからが重要な所ですが、少し難しい文章であるかもわかりません。
 
「ここで必要なのは生命の意味についての問いの観点の変更なのである。すなわち人生から何をわれわれはまだ期待できるか、が問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである。哲学的に誇張して言えば、ここではコペルニクス的転回」

これは観点を180度の転回ですね。

「転回が問題なのであると云えよう。すなわちわれわれが人生の意味を問うのではなくなくて、われわれ自身が問われているものとして体験されるのである。」と『夜と霧』では書いていましてその後に例えばということで二人の男性の話をしておられます。
 
※『夜と霧』
1 ここで山田先生が参照されるフランクルの著書『夜と霧』は霜山徳爾訳の旧版です。 新訳のこの部分については、22日付「生きる意味」に新版池田香代子訳を掲出してあります。旧版は1947年刊行、新版は1977年刊行でその違いについては、訳者の池田さんのサイト「池田香代子サイト」<2010年08月12日あとがき『夜と霧』>に詳しく書かれています。http://blog.livedoor.jp/ikedakayoko/archives/51456514.html
 
2 旧版には強制収容所関係の写真と図版やp7~p73の編集者の解説が掲載されています。ナチスの強制収容所は数多くあったのですが、この解説部には詳細に書かれています。
 
<観点の転回>
 
 二人の男性のうち一人は、地理学者で収容されるまでに何かシリーズ本を書かれておられていてそれが完結しない内に収容されてしまった。自分としてはどうしてもその仕事を完結させたいと・・・自分はその仕事から「待たれている」と・・・待っているその仕事に対して自分は答えなければいけない・・・そのような使命感のようなもの・・・それが彼の支えになっていた・・・と言うんですね。
 
 もう一人の男性は、この方は父親なのですがどこか外国で小さな子供が待っていて・・・自分はその子から待たれているというわけです。
 
 自分としては「苦しくて死んでしまいたい」と思ってもその子はどこかで待っているわけです。そのことを自分が思うと「死ぬわけにはいかない」というわけです。
 
「自分は愛されている子どもから待たれている。」
 
と・・・自分だけのことを考えれば死んでしまうということもありうるかもしれません。だけれども・・・その場合には、その苦境の中で耐え抜く勇気、使命というふうなものはなかなか出にくいと思うのです。

そこで彼は自分ということではなくて、子ども側から自分を受け取るというふうに、立場を逆転というか転回させたという・・・こういう転回ですね。だから自分以外の、フランクルの言い方ですと、自分以外の他の何か・・・人間であれ仕事であれ「他の何かから自分は待たれている」と、その期待に対して答えていくと、そういう仕方で生きる意味というものがそこに結果として生じてくる、ということなんですね。
 
 この「観点の転回」をする限りは、それをする限りは、人間は最後の一息に至るまで生きる意味は失わない、という考え方なんですね。
 
【山田誠浩】 つまり自分が生きて行く、自分がその人を愛して生きて行くのではなくて、自分を待っていてくれる者があるということが、その人をそこに向けて生かしていく・・・?
 
【山田邦男】 そうです。そういうふうに考えるわけですね。そうするとどんなに今、苦しみの只中にいても、その苦しみに意味が与えられる、そういうことですね。

<苦しみに意味が与えられる>

【山田邦男】 フランクルは精神科医でもありますから、生きる意味を見失った

<苦しみに意味に意味が与えられる>
 
山田邦男】 フランクルは精神科医でもありますから、生きる意味を見失った・・・実存的空虚感を抱いている人ですね・・・フランクルを読んでいますと神経症の20%とは、そういうことから起っているというのですけれども、そういう人々の治療をする場合に彼はアドバイスをするわけです。どういうアドバイスをするかというと「観点の転回」をするようなアドバイスをするわけです。
 
 例えば、ある老人がフランクルのクリニックに来て「自分は妻に先立たれてその悲しみから立ち直れない」と訴えるのです。その話をフランクルがジーッと聞いていてこういうんです。
 
「もし亡くなったのが奥さんではなくて、あなた自身が亡くなったと、そしてあなたが今舐めているその苦しみを奥さんが今味わっているとするならば、あなたはそれでもいいですか?」
 
 そうするとその老人は、「そうじゃないんだ。それは妻は悲しむだろう。とてもそういうことはさせたくない」・・・「そうでしょう。そうだとすればあなたは奥さまの苦しみから・・・奥さまを今救っているんですよ」・・・つまりその人が今苦しんでいるということが、そのことが言わば意味が与えられたという感じになるわけです。
 
 それでその老人は、深くうなづいて立ち去ったと・・・こういうことを言っています。フランクル的に申しますと「苦しみの意味が与えられた」と苦悩の意味というものが・・・そこで自分が苦しむということに意味があるのだと・・・ということですね。
 
 そのことでついでに申しますと、今度は西田幾多郎なんですが、「死者に対する心づくし」ということを言っています。まだ西田が若い頃に、3歳か4歳の女の子が突然亡くなるのです。

昨日まで唄ったり踊ったりしていたその子が今日、白骨になって帰ってくると、・・・これはどうしたことだろう・・・西田の苦しみを見て友人たちが、「諦めよ」と「いくら嘆いたって死んだ者は帰って来ない」と・・・それに対して西田が・・・これはまあ後に西田が書いていることですが・・・「せめて自分が生きている一生の間だけでも亡くなった子供のことを思い続けてやりたい」と「それが残された者の使命である」と「親としての心づくしである」と「親としてのまごころである」ということを言うんです。
 
<生きる意味はどこから>
 
【山田誠浩アナ】 人がやはり過酷な状況の中で「生きていく力を見い出す」、「生きていく意味を見い出す」というのは「そのように自分に問われているものがあるじゃないかというように思える時であると・・。
 
【山田邦男】 それは大事なことだと思います。「生きる意味」というものは自分の力だけでは出てこないですね。フランクルの場合にも同じことがありまして収容されるまでに自分のライフワークだと思っていた原稿がありまして、その原稿をもったまま収容所に収容されたんですが、収容された当初にそれを奪われてしまうのです。フランクルはどうしてもその仕事を仕上げたいと、いうことでナチスのメモ用紙みたいなものがありましてね、速記でポイントポイントを書きこむんですね。発疹チフスで高熱でうなされているその最中でその作業を行うわけですね。

 フランクルは自分が書いているんだけれど、その仕事を成し遂げたいんだけれども果たして仕上げられるかわからない分けですね。ギリギリの状況でやっていますからね。その時に「もしもこの仕事を成し遂げられなかったらどうだろうか」ということも考えるわけですね。回想録の中でこんなことを言っています。
 
「その後テュルクハイムで発疹チフスにかかったとき、私は死にそうになった。たえず私はもう自分の本は出版されることはないだろう、ということばかり考えていた。しかし遂にあきらめの境地に達した。私は思った---それが人生にとってどうだというのか、人生の意味が、本が出るか出ないかにかかっているとでも云うのか、と。」(『人間とは何か』(p460)
 
 この仕事が成就するかしないかは、もうすべて神の御心のままだというふうな状態、そういう状態で多分書いたと思うのです。自分が何か名誉心なんかにかられて仕事をするというよりもその仕事ですね、おそらくフランクルには、この原稿を書ける人間は自分しかいないという自信はあったと思うんだです。この原稿を残さないと逝けないという使命感をもっていたと思います。
 
 いわばその使命感、あるいはその原稿の方からと言った方がいいかもしれませんが、「生きて頑張れ」というふうに呼びかけられていると、そういう感じで書いていたと、そういう文書ですね。今の文章はね。
 
 我々のどんなことでも究極的なそういうことだと思うのです。親が子供を育てるとか、画家が絵を描くとか、作家が何かに夢中になるとか・・・すべて「専心」ということですね。自分を忘れてそのことになりきって行く・・・向こうがこちらをとらえるといってもいいわけですけど・・・本当に専心していたらそこは祈りの世界だと・・・。それはもうどんなことでも本当は“専心=実り”だと私は思っている。
 
【山田誠浩アナ】 何かお話を伺っていてそういうふうにして視点を変えてみるという大事さが分かる一方で、向こうから問いかけなり、の呼びかけなり、相手のために生きる、何か自己犠牲として生きるということと近いのかな? という気がしてしまうんですが?
 
【山田邦男】 実際にその人々のこころの中で起こった出来事を見てみますと単に自分を犠牲にしてそうしなくちゃ、ということよりも、もっと根本的に心の奥底から自分が揺り動かされてね、・・・そして結果的には、そのことによって自分がこれから生きていく勇気、生きていく喜び、というふうなものが湧いてくると・・・それもおそらく自然に湧いてくるものであって、何というか・・・他人から道徳的にいわば説教されたという感じで受けとめると、私は本当の人間の深い心の働きというものをきちんと見ていない・・・もっと人間の自然な人情、こころの働きというものは深いものであると、つまりまさに「無意識」というレベルで起るような深いことで・・・そういうことをフランクルは「精神的無意識」というふうに呼んだんだと思うんです。
 
 自分の力でということではなくて、私はそこはやはり「恵み」「恩寵」・・・神の恩寵というかどうかは別にましても、何かやはり自分を超えたものからの・・・やはり催しともうしますか、仏教では回光(えこう)ともうしますけれど、何かやはりそのような自分を超えた大きな者が自分の心の深い所で働いてくれているという・・・。

※回光:回光返照のことと思われる。
 
【山田誠浩アナ】 それが自分の喜びにもなって行くということでしょうか?
 
【山田邦男】 そういうことだと思うのですけど・・・。
 
 <以上前編>


「実存」と「実在」・ハイデガーのExistenzの訳語(2)

2012年05月27日 | 思考探究

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さて「ハイデガーのExistenzの訳語」なのですが、ハイデガーというとナチス・ドイツとの関係が出てきます。ナチスの立場にあった哲学者、そこにはこの言葉とともに何があったのか、という大きな問題が横たわっています。

 この点に視点をおいて論ずるのが社会学者の大澤真幸先生です。大澤先生は講談社から『ナショナリズムの由来』という877頁の5cmほどの厚い著書があります。この中に「存在の思考 事実存在と本質存在」と題して次のように書かれています。

<大澤真幸著『ナショナリズムの由来』講談社から>

「存在の思考 事実存在と本質存在」

 ハイデガーは、存在忘却へと対抗する態度をナチズム(ファシズム)の内に見出しうる、と考えていたと思われる。われわれはこう論じた。存在忘却とは、存在者と存在の間の存在論的差異が見失われている状態、存在者とは区別された存在が見定められていない状態である。忘却されている存在とは何か? この点をここで確認しておこう。

 存在の中の存在、存在についての関心の中心にあるものは何か? 無論、それは、伝統的には神であった。十一世紀にアンセルムスによって提唱された、神の存在の存在論的証明と呼ばれる、有名な議論がある。それは、次のような論法である。

 「神は完全な存在者であり、それゆえ、あらゆる肯定的規定(無限である、全能である、全知である等)を含む。ところで『存在する』もまた肯定的規定である。それゆえ、神は存在する」。

この証明の要点は、(神の)本質存在の内に事実存在が合意されている、という点にある。そして、ハイデガーが 『現象学の根本問題』でカントの「存在は事象内容を示すrealな述語ではない」というテーゼ(『純粋理性批判』等)に立脚して反論しているのは、この神の存在証明が論拠とした存在概念である。

 述べたように、二つの存在概念がある。木田元がハイデガー論において明快に論じているように、本質存在essentiaは、日本語の「Xである」というときの存在(ある)に対応し、事実存在existentiaは、日本語の「Xがある」というときの存在(ある)に対応している。西洋語ではbe動詞の系列の語によって表現される本質存在は、存在するということ(esse)が、それが「何であるか」ということと、その事物の同一性と、要するにその事物の本質(エッセンス)の規定と一体化している。

それに対して、事実存在は、それが「あるかないか」ということに関係している。ハイデガーの論点は、事実存在(「神が存在する」)は本質存在(「紳は全能である」等)には還元できない、ということにある。

つまり、いくぶん厳密さを犠牲にして言えば、ハイデガーが忘却の淵から救出しようとした存在概念とは、事実存在だと-----あるいは本質存在だけではなく事実存在をも含んだ存在概念の全体だと-----見なすことができるだろう。

「存在論的差異」と言えば、いかにも深遠なものに聞こえる。だが、この問題は、今日の分析哲学の領域で、浅薄な遊戯のように論争されてきた主題と並行的な関係にある。その主題とは、固有名の本性はどこにあるか、という問題である。

伝統的な主流は、固有名とは、名指された単一の事物を一意に同定しうる、その事物の性質についての記述(の束)の代用品である、と考えてきた。

たとえば、「夏目漱石」という固有名は、「東大の英文学の教師」「明治時代の小説家」「『妨ちやん』の作者」等の連言を意味する、ということになる。だが、ソール・クリプキは、非常に緻密な議論を通じて、固有名は、性質の記述には置き換えられないことを論証した。

「夏目漱石が『妨ちゃん』を著さなかったならば」という可能世界を仮定することができる、という事実が、クリプキの反記述説を支える論拠の一つとなる。固有名の記述への還元不可能性を、本質存在と事実存在の解消できない差異の言語上への反響として解釈することができるだろう。

ある事物を他から分かつような性質を記述するということは、その事物の本質存在-----「それが何であるか」-----を言語によって規定することを意味するだろう。

だが、「これは夏目漱石である」という指示は、「これ」と指示された個体の性質を記述するものではない。それは、ただ、「夏目漱石」と名づけられた「これ」が存在しているということのみを、つまり「これ」の事実存在を指し示しているのである。固有名と記述の間に代替可能性がないということは、それゆえ、事実存在が本質存在のうちに還元しえないことを合意する。
                                                     
 ところで、事実存在を意味するラテン語「actualitas(アクトウアーリタス・現実性)」は、「働き」を合意する動詞の過去分詞形actus(アクトウス)を含んでいる。つまり、現実性を成り立たせているのは、働き-----神の創造の働き-----であると考えられていたのである。

「現実性」という概念の源は、ハイデガーによれば、ギリシア語の「energeia(アナルゲイア)である。アリストテレスの造語のひとつとして知られるこの語は、「作品(エルゴン)のうち(エン)に現れ出ている状態」つまり、制作過程が完了して安らいでいる状態を指している。
                                         木田元が実に鮮やかに要約しているように、ハイデガーは、古代の存在論が、すべて制作の概念に立脚しているものであることを、明らかにしている。すなわち、「本質存在」を表示する古代哲学の基本概念、「モルフェー」「エイドス」「イデア」「ト・ティ・エーン・エイナイ」「ホロス」「ホリスモス」といった諸概念は、制作過程に定位することによって容易に理解することができる。

たとえば、「形(エイドス)」は、アリストテレスによって「ト・ティ・エーン・エイナイ(それがそうであったところのものthe being which is what it was)」と言い換えられる。

職人は、何物かを制作する際、その完成形態(what it was)を最初に思い浮かべ、先取りする。それが現実化したものが、「形(エイドス)」なのである。

 古代ギリシア語における「制作」とは、「手の届く範囲にもちきたらすこと」、しかも「制作されたものがそれ自体で自立したものとして見出されるように、眼前におくようにもたらすこと」である。

こうした定義に、『存在と時間』における、用具的存在者Zuhandensein/客体的存在者Vorhandenseinの区別の反響を見ることができるだろう。ハイデガーによれば、すべての事物はこの二種類に分割することができる。

客体的存在者は、用具的存在者ーーーーー「手元にある存在者」ーーーーーの頽落態であり、事物への本来の関係性ーーーーー配慮Sorge-----を失ったときに立ち現れる。制作は、対象を、用具的存在者として定立する操作であると見なすことができるだろう。

ハイデガーによれば、こうした制作の概念をベースにして考えれば、アリストテレスが、「存在」を「ウーシア」と表現した理由もわかる。ウーシアとは、家・財産のことである。

存在とは、家・財産のように、制作されたことによってもたらされる使用可能性と現前のことなのである。と、同時に、われわれは、存在が、近さの内にあることーーーーー「手元にあること」-----、家の内にあること、要するに「故郷」の内にあることとして捉えられていることに、注意しておこう。

こうして、ハイデガーによれば、古代ギリシア以来の西欧哲学の伝統の中では、存在するということ、現前するということ、そして制作されてあるということ、これら三者が同一のこととして捉えられてきた。

ところで、制作にあたっては、完成において現れるべきものが先取りされている。つまり、それが何であるか、何であるべきかということは既定されており、被制作物とは、その「何であるか」が現前にもたらされたものである。この先取りされた同一性(何であるか)が、先に述べた「エイドス」であり、またプラトンの「イデア」である。

そうであるとすれば、ここに見出されている存在は、本質存在だということになるだろう。ここには、事実存在が失われている。

 だが、しかし、ハイデガーによれば、事実存在は、西洋的思考の中になかったわけではない。「ソクラテス以前の思想家たち」ーーーーー「西洋的思考の偉大な始まり」ーーーーーの中では、事実存在こそが、その思考の主題だったのである。ソクラテス以前の思想家たちは、「自然(ピュシス)」をめぐって思考した。

自然こそは、後に「事実存在」と見なされるものの本来の姿である。「ピュシス」は、「ピュエスタイ(生ずる、生える)」という動詞から派生する語である。それゆえ、万物を「自然(ピュシス)」と見なしていた初期のギリシア人にとつては、存在者の全体が、植物のように「自ずから発現・生成するもの」として現れていたということになる。

 自然としての事実存在の第一義的な意味は、ソクラテス以降の思想の中では失われる。とはいえ、ハイデガーは、自然(ピュシス)と制作(ポイエーシス)が単純に対立していたと考えていたわけではない。制作は、自然の一様態なのである。

初期のギリシア人にとって、すべての物は、無限定な混沌(伏蔵体)としての自然のうちから発現し、特定の形(エイドス)をとって立ち現れる。この関係は、固有名によって指示されている個体は、さしあたって、いかなる述語的な規定(性質の記述)も受け取りうる普遍性として潜在しており、それについて述定するときに、特定の述語を与えられて現れる、という関係と類比的である。制作は、無限定な混沌が非伏蔵体へと現れる運動のひとつの様式なのである。

 ハイデガー哲学の以上の簡単なサーヴェイによって、次のように結論することができる。忘却から救出されるべき存在とは、事実存在としての自然である、と。だが、事実存在(自然)とは何か、何を自覚したら、それを忘却していないことになるのか? ファシズムがその忘却へと対抗しうるかのように見えたのはなぜなのか?

 このように問うとともに、ここで、われわれは、ハイデガーの哲学が「忘却」していることもあるということ、あるいは、ハイデガーの哲学が構造的に記録しそびれていることがあるということ、こうしたことにあらかじめ注意をむけておこう。

ハイデガーの哲学が記録しそびれていること、その「記憶」の守備範囲に入れておくことができなかったこととは、あの「収容所」の「イスラーム教徒」(の死)である。後に述べるように、ハイデガーにとって「死」は、特別な価値をもつている。真正な死は、現存在(個々の人間)に己の有限性を自覚させ、引き受けさせるものである。真正な死の自覚とともに、現存在は、未来へと投企する本来の実存に覚醒するとされるのだ。

それに対して、死を思うことなく日常の些事に埋没している人間は、「世人Das Man」と呼ばれる。気力と体力を完全に失い、動物の生以下の生を生きる「イスラーム教徒」は、本来的な実存を生きているとはとうてい言えまい。だからといって、彼らを世人と見なすのは、なお一層、不適切である。「本来的な実存」と「世人」は、あの収容所における、「一者」と「利己主義者」にならば、大雑把にではあれ対応している、と言えるかもしれない。だが、ハイデガーの死に対する見方の中には、どこを探しても、「イスラーム教徒」が収まるべき場所がない。

<以上p721~p725>

私が解説するような話ではありませんが、話しの展開に感激しました。

事実存在(existenz)=あるものがあるかないか=があるという存在

本質存在(essentia)=あるものが何であるか=であるという存在 

実存=がある

実在=である

とします。日本語辞典で「実存」と「実在」を調べると一般的に、

実存=実際に(現実に)存在すること。

実在=実際にある(いる)こと。

となります。どうしても実存という言葉は明治の訳語「存在」が登場します。

「~が」と「~で」・・・・・・「存在」(ある)

 その思想的背景、思考の発想の現象学的なさらには深層心理的な意識的な発動、無意識的な心の働きが見えそうです。

今朝は、事実存在(existenz)と本質存在(essentia)について二人の解説を紹介しました。私自身の意見を出すようなレベルではないのでとりあえず納得のうちに幕を閉めることにします。

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「実存」と「実在」・ハイデガーのExistenzの訳語(1)

2012年05月27日 | 思考探究

[思考] ブログ村キーワード

 今朝も昨日の続きでこだわりの「実存」「実在」に関する話です。

「ハイデガーのExistenzの訳語」に関するもので、哲学者の木田元先生と社会学者大澤真幸先生の両語の関する解説を紹介したいと思います。

 ハイデガーと言えば木田元と呼ばれ、木田先生の書かれた『ハイデガーの思想』(岩波新書)には、存在論における事実存在(existenz)と本質存在(essentia)の関係が語られています。

 「存在とは何か」については、中世までは山内得立先生の解説を既に書きましたが、『ハイデガーの思想』には「中世から近世へ」にかけて事実存在(existenz)と本質存在(essentia)の成立過程が説明されています(同書p76~)。さらに『現代の哲学』(講談社学術文庫)には「<実存>Existenzという概念が、今日のことばに与えられているような意味と重みをもって登場してきたのも、・・・・・・この概念をそうした意味合いで最初に使ったのは、晩年のシェリング(1774-1854年)であった」(同書p40)
と書かれており、キルケゴール(1813-1855年)より早いことが分かります。

 まず最初に「事実存在(existenz)と本質存在(essentia)」についての解説ですが、『ハイデガーの思想』では「本質存在と事実存在」と逆の見出しになりますが次のように語られています。

<木田元著『ハイデガーの思想』(岩波新書)から>

五 本質存在と事実存在

 <デアル><ガアル>
 ハイデガーの見解では、<存在=被製作性>という存在概念を、カントはデカルトから承け継いだのであり、そのデカルトはまた、それを中世のスコラ哲学から引き継いでいる。

というのも、カントは表象作用の主体である(主観性)の概念を規定する際、デカルトの<われ思う>(コーギトー)に無批判に依拠しているが、デカルトは「われ思う、われ在り(コーギトー スム」のその<在り>(エッセ)を規定するのに、明らかにスコラ哲学の影響下にあった<思考するもの>(レース・コギタンス)という概念を拠りどころにしている。

このばあいの<もの>(レース)はむろん<存在者>(エンス)の一種であるが、スコラにあっては<存在者>(エンス)は一貫して<被造的存在者>(エンス・クレアートウム)、つまり神の<創造作用>(クレアーテイオ)によって造られた被造物と解されている。ここでも<存在=被制作性)という存在概念が根底に据えられているのである。

 ハイデガーは『現象学の根本問題』第一部第二章では、中世存在論つまりスコラ哲学における<本質存在>(エッセンティア)と<事実存在>(エクシステンテイア)の区別を問題にしている。<本質存在>とは<あるものが何であるか>、つまりそれが机であるか椅子であるかというはあいの<存在>を言い、(事実存在)とは<あるものがあるかないか>、たとえばここに机があるかないかというばあいの<存在>を言う。

簡単に言えば、<デアル>という意味での存在と<ガアル>という意味での存在のことである。キリスト教神学と密着しているスコラ哲学においては、神によって創造された被造物の<本質存在>と(事実存在)の関係をどう捉えるかは、神の創造の働きをどう考えるかという問題に直接結びつくので、実に煩瑣な議論がおこなわれていた。

そしてここでも、<事実存在>を意味する<現実性>(アクトウアーリタス)には<働き>(アゲレ)という言葉が過去分詞の<actus>(アクトウス)というかたちでふくまれている。つまり現実性を成り立たせるのはやはりなんらかの<働き>だと考えられているのである。もっとも、ここではこの働きほ神の創造の働きである。

つまり、神によって創造されたものだけが<現実に>存在するとみなされるのである。創造作用も広い意味での制作作用であろうから、スコラ哲学において<存在>が<作られてあること・被制作的存在>と解されていることが、ここからも確かめられる。

 ハイデガーによれは、近代や中世のそうした<現実性>の概念の源は古代ギリシアの存在論にある。たしかに、ギリシア語で現実性を意味する<energeia>(エネルゲイア)という言葉は、<en(エン)+ergon(エルゴン)+語尾>というつくりになっており、<作品()エルゴン)のうちに現われ出ている状態>)、制作過程が完了し作品として安らっている状態という意味をこめてアリストテレスによって造語されたものである。

音の類似から容易に推測しうるように、近代の<エネルギ><エナージー>という言葉は、たしかにこの<エネルゲイア)から派生したものであるが、<現に働いているカ>というその意味は、制作が完了してその終局に安らっているという<エネルゲイア>の原義とはまったく逆になっていると、ハイデガーは指摘している。
                                         <エネルゲイア>とほとんど等価的に使われる<完成態>(エンテレケイア)という言葉があるが、これも<en>(エン)十telos(テロス)+echein(エケイン)というつくりであり、<制作過程の終局(テロス)のうち(エン)に身を置いている状態(エケイン)>という意味をこめて、アリストテレスの造ったものである。

<エネルゲイア>も<エンテレケイア>も、いずれにおいても作品の制作過程が問題になるのだが、古代ギリシアにおいては、その制作の働きはあくまで人間のそれである。ということはつまり、人間の制作行為に定位して形成された古代存在論の(エネルゲイア)の概念が意味を変えながら中世存在論の<actualitas>(アクトウアーリクス)や近代存在論の<Wirklichkeit>(ウイルクリッヒカイト)の概念に承け継がれたということである。

近代においても一般には、<現実性>を成り立たしめる<働き>は、事物が主観の感覚器官を刺激するその働きかけ、あるいは事物の他の事物に対する働きかけと解されていた。つまり、そうした働きかけの力をもつものだけが<現実に>存在するとみなされていたのである。ところが、先に見たとおり、近代の哲学者のなかでもカントだけは例外的にこの働きを判断主体の<定立作用×表象作用>と考えた。ハイデガーは、カントのこの考えが<現実性>の概念の古代ギリシア的原義をかなり的確に言い当てていると評価しているのである。

<以上p115~p118>

と書かれています。

事実存在(existenz)=あるものがあるかないか=があるという存在
本質存在(essentia)=あるものが何であるか=であるという存在 
                                          
ということになるわけです。

※ 素人の私は「実存=よってなる」にしたいのですが、軽薄なのでしょうか、この問題については今後思考を重ねて行きたいと思います。

※今朝は最終的に10657文字になってしまいましたのでに分割したいと思います。

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