思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

魂の話し・小林秀雄

2012年05月13日 | 宗教

[思考] ブログ村キーワード

 新潮社から出ている小林秀雄講演CD全五巻の第二巻は「信ずること考える」という題で鹿児島県霧島での行なわれた講演内容が収録されています。

 ディスク二枚組で

 DISC1
 1 ユリ・ゲラーの念力
 2 ベルグソンの哲学に
 3 近代の科学の方法
 4 魂について
 5 文学者・柳田國男

 DISC2
 1 信ずることと知ること
 2 なぜ徒党を組むのか
 3 質問の仕方
 4「考える」ということ
 5 日本の神道 
 6 親と子
 7 歴史は鏡
 8 感受性は育つ

の項目内容です。今日という日に書きたいのは、柳田國男の書かれた作品に込められている魂の話です。著書『考えるヒント』にも書かれている話ですが、原文である講演会での小林先生の感性を感じることができないので講演の話内容で書きます。

 柳田國男先生について語る最初は、柳田先生の実体験としての魂の話です。事情があっておばさんの家で育てられた國男少年は、死んだおばあさんの祠(ほこら)のあることを教えられます。子どもですからどうしても見たくて仕方がない。

 ある日こそりその祠の中をのぞいたところ、蝋石(ろうせき)の玉が一つポツンとある。
ろうせきというものは子どもの頃にチョーク代わりに路面に線を書いた柔らかい石です。

 後で聞いたところ、その地方では死んだ人を祠に祭る風習があったようで、おばあさん生前この蝋石の玉で身体を磨いていて、死んだ時にこの玉をもっていたようです。お孫さんがおばあちゃんをお祀りするのだけれどこの玉が一番記念になるだろうと祠(ほこら)してふさわしいだろうということで祀ったようです。

 國男少年がその玉をもったところ不思議な感じ異を受け、空を見上げると昼間ですから星が見えるはずがないのに一つ光る星が見えた。恐ろしささえ感じる不思議な時間であったようです。手にした蝋石にそのような事情があることは全く知りません。

 その時突然鳥の声が聞こえる。アッと我に返った柳田少年、柳田先生曰く「その時鳥の声がなければ私は発狂していただろう」という話。馬鹿馬鹿しいけれども本当の話と言いながら、この話に小林先生は魂をみると言います。

 そして「魂の話は馬鹿馬鹿しいがぼくは信じていますよ。私のおばあさんの魂を信じている、なぜなら(おばあさんを)思い出すからです。」ともいっています。

そして語られるのが、柳田作品の『山の生活』の序文。当時の自然主義と言われる文壇の人々の感受性の欠乏を「魂」に重ね合わせながら熱く語ります。

<新潮社『小林秀雄講演』第二巻から>

 柳田さんの話になったからついでにもう一つ話そうかね。あの人に『山の人生』という本がありますよ。山の中で生活する人の色んな不思議な話を書いている。その序文にね、こういう話がある。「わたしはこの話をもう記憶している人が私一人だけだから書いておく。それで序文に替える」としてこの話を書いている。これはどこだったか牢屋に入れられた囚人の話です。この囚人はどうして牢屋に入れられたかというと、その人は炭焼きだったんですよ。

それで山の深い所で炭を焼いてそれを里にもって行って売って、それで暮らしを立てていた。もうおかみさんは早くから死んで、14歳になる子がいた。どこからもらったのかは知らないけれども、やっぱり同じ年頃の女の子を一人もらい三人で暮らしていた。

 でぜんぜん炭が売れない。まあだいたいいつも炭をもって下りてくると、お米一合にはなったと、・・・・・一合の米も無くなってしまった。誰も炭を買ってくれない。子どもたちがひもじくてひもじくて、・・・・・ある日て炭をもって里に下りるんです。

 これもやっぱり売れないんです。手ぶらで帰ってくる。もうしもじがっている男の子と女の子の顔を見るのが恐ろしくて、あんまり可哀そうで恐ろしくて、そしてコソコソって自分の部屋に入ってしまうんです。

 そしてコロンと昼寝をしてしまうんです。そしてフッと目が覚めると何か音がする。それで覗いてみると、男の子が鉈(なた)を磨いでいるんです。炭焼きで使う木を切る鉈を磨いでいるんです。女の子はそれを見ている。しゃがんでい見ている。

 フッと出て行くと夕陽が、その時入口一面に当っていたと、・・・・・・すると男の子は、鉈をもって、・・・・入口いっぱいにいい陽が当たっている入口に丸太があった。

 その丸太の上にコロンと寝て、・・・女の子もコロンと寝た。すると「おっとう。俺たちを殺してくれ」と言った。二人で丸太の上にコロンと寝てしまった。その時に、その炭焼きがクラクラと目まいがして、何が何だかわからないで殺してしまうんです。

 鉈で首を、子どもの首を二つ切ってしまうんですよ。それで自分も死のうと思った。ところがうまくいかないで、里でウロウロしているところを警察に捕まる。

 それが囚人の話しなんです。

炭焼きで生活する50ばかりの男がいた。女房はとうに死に、13の男の子と同じ歳のもらってきた女の子を山の炭焼き小屋で育てていた。世間はひどく不景気で、里に下りても炭は売れず、一合の米も手に入らなかった。子供たちはひもじがっている。その日も手ぶらで帰ってきて、飢え切っている子どもたちの顔を見るのが恐ろしい。で、小屋の奥にそっと入って、昼寝しちまう。

 眼がさめると、小屋の口いっぱいに夕日が差していた。秋の末のことだという。二人の子どもは日当たりのところにしゃがんでしきりに何かしている。そばにいってみると、仕事に使う大きな斧を磨いていた。

「おとう。これでわしたちを殺してくれ」と言って、入り口の材木を枕にして、仰向けに寝たそうだ。
男はそれを見るとくらくらっ!として、前後の見境無く、二人の首を打ち落としてしまった。
自分は死ぬ事ができなくて、やがて捕らえられ、牢に入れられた。

これを序文に書いた。序文に代えるというんです。そんな時に柳田という人は何を考えていたか分かりますか。

ちょうどその頃はね、あの日本の文壇では、中山花袋だとか自然主義文学が盛んなときさ。

それで、どこかの女の子と恋愛して、その女の子に逃げられて、女の子の移り香が布団に匂ったとか、そんな小説書いていた、そして得意になっていたころですよ。それが「自然主義だ」と。いろんなつまらん恋愛を書いてだね、心理的な小説をいくつもいくつも書いて、得意になっていた頃ですよ。いろんなつまらん恋愛、心理的な小説を幾つも幾つも書いてえばっていたころに、・・・・柳田さんはおそらく「なーにをしてるんだ諸君」と言いたかったんだな。僕はそう思うよ。

 僕がいま語っているのが人生なんだよ。何だよ、諸君の教育なんかいう、自然機微だ、これこそ人生の真相だなどとえばり腐ったものは、・・・あんなものはみな言葉じゃないか。よくもまあ、あんなこせこせした小生意気な、恋愛みたいなものを書いて、これを人生の真相なんて言っているなら、まあそういう囚人が子供二人を殺して死んだか。そういう話を・・・・・・聞いてごらん。

 そういう話。悲惨な話しですけれどね、・・・だけどだね、その子どもね、もっと違ったところから見るとねえ、こんな健全なことはないんです。お父っつぁんが可哀そうでたまらなかったんですよ、子どもは。・・・それはひもじかったけれども知れないけれど「俺たちが死ねば少しはお父っつぁんは助かるだろう」という気持ちでいっぱいなんじゃないか。

 それだから君、・・平気で君・・そういう精神の力でだね、・・・・・鉈を研いだんでしょ? そういうものを見ますとね、実になんと言いますかね、言葉に、言葉というものにとらわれないよ。・・・・・もっと言えば心理なって言っていいね。心理額にとらわれない、本当の人間の魂、そういうきっと子どもの魂がどこかにいますよ。

そういう話を聴いて感動するる私は・・・・魂はきっといるね。

<以上>

 志ん朝に似た江戸弁と前にも書きましたが、この調子で熱く語られている「魂」の話です。

 昨日書いたことですが、地球は太陽を中心に回っています。人によっては違うという人もおられるかもしれませんが地軸を中心にして真正面に地球を見たとすると右に回転しています。従って太陽が右側はるか遠くに太陽があるとすると、日本から朝鮮中国大陸の順番で夜が明けて行きます。それを太陽が昇ると言います。それで日の出を拝む信仰があるのですが、

 科学的物理的な星の運行に関係のない創造された物語の想像される世界観です。そこには太陽の神もあれば、自然という森羅万象の荘厳な働きがあり何ものかのありがたさを感じる心の芽生えもあれば、また日の出の太陽光に新鮮な偉大なる力を感じる人もいる。

 太陽だけではありませんが、多神教の人々はある条件の範囲内に適合すれば、どんな信仰をしようとも理解可能な世界観をもつことができます。

 海の神、山の神、河の神、水の神、火の神、かまどの神・・・・・・限がありまえん。

 あるか・ないかの話になると小林先生の話ではありませんが馬鹿馬鹿しいが、そうなんだということです。

 どこまでが許されて、どこからが許されないのか?

 明確に説明しているように見えて、実はなにも語ってはいない。それは何も見えてはいないからではないだろうか。

 そもそも自分の目を自分で見ることができないように、聴く耳で聞いているのに耳が見えないように、口で言っているのに口が見えないように人間はできています。

 手足が見えるようには行かない。従って自分の持ち物であるのに分からない。あるのは自覚する感覚だけです。

 「魂」は見えないものですが、感じることはできます。見えるのではなく感じることができるのは普通の人間の創りの様です。

 世の中にはこの感覚を一生懸命無くそうとする人たちがいます。答えは簡単、無いものは無い、見えないものは無い、という論理です。

 ある面、魂の物語は書けないということです。カフカの作品が実存主義文学と言われるのはそこにあります。

 ひたすら視点の変更だけです。本当は魂の叫びに見えるのですが、本人には見えない。

 実存主義者、実存的な思考の強い人はその傾向が強い。拠りどころがないから怖さが先に出るので、払拭することに最大限の努力をする。論理的な展開です。

 全体が悪人である。煩悩の数だけ教があるの逆説的な展開でそうも導き出すことができますが、・・・・・。

 「どうすれば、真の幸福になれるのか。」続きはまた次回。

という話を耳にしました。こんな重大なことは今の今、話さないでどうしようとしているのか不思議に思いました。

 今はなすべきことが見えていない。

 極端な話、話の内容でなくて今聞きたい人がいるということに視点がなぜ置けないのか。

 どんなに素晴らしい高みの自分であると自覚していても、正直さは出てきます。人はそのように創られている。

 先送りせずに今のこの瞬間を窮める・極める・究めることが肝心とそういう哲人が多いのに残念です。

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