思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

時は実在する・一刹那の実在

2012年05月23日 | 思考探究

[思考] ブログ村キーワード

 一昨日の金環日食、ちょうどその時間帯には松本市内にいました。部分日食という程度のものでしたが、薄暗さを体感することができました。

 日食がどうして起きるのかを知っていれば不思議なことはないのですが、その知識を全く知らない古代の人々には大変な出来事で、恐怖が襲ったことに相違ないと思いました。

 当たり前に陽がのぼり突然太陽が暗くなることがないのに1・2分の出来事とはいえ太陽が姿を消す、驚きと恐怖、天変地異の異変ではないか、悪しき出来事が起きる前兆ではないか、さまざまな憶測や風評が起きたことでしょう。

 どうして神話がつくられるのか、科学的に解明ができない古代人にとっては、理由なき恐怖心を解消するために物語るしかなかった、「人間は物語る生きものである」まさにその通りに思います。

 記紀(古事記・日本書紀)に書かれている天照大御神の岩戸隠れの神話については日食を物語るものではないかという話ががありますがうなづける話です。

 物語には、怯えを解消してくれる力があるということです。最近のブログに時間というものについての考え方を説いた、英国の哲学者ジョン・マクタガート(1866-1925)という人の話を書きました。

 時間については、A系列とB系列の二つの考え方があって、A系列とは、事象が「過去---現在---未来」という特性をもつことであり、B系列とは、二つの現象が「より前」「同時」「より後」のいずれかの関係で構成されている。内海健著『さまよえる自己』筑摩選書 p48から)。

という話です。A・B系列のどちらの考えにしても今回の金環日食は、時間の経過で元の姿にもどります。原因がなければ結果はあり得ないという因果の世界、

「過去---現在---未来」

「より前・同時・より後」

そこには間違いなく「瞬間」というものがあるように思います。移行する狭間にある瞬間です。「瞬間における亀裂の生起」それが時制的、連続的な流れの中で積み重なり時間というものが形成されていきます。

「時は実在する」「時は実在である」

 慶応大学文学部教授で哲学倫理学者の斎藤慶典(さいとう・よしみち)先生が書かれた『「実在」の形而上学』(岩波書店)の中でそのように語っています。

 この本では形而上学を実在という概念で紐解いていこうというものです。西田幾多郎先生の「論理は実在の自己表現の形式」という言葉にも解説を加え西洋哲学にはない「実在」を解説しています。

 今朝はこの本から「時と実在」についてジョン・マクタガートの話しから書かれた部分を紹介します。

<斎藤慶典著『「実在」の形而上学』(岩波書店)>

 ・・・・・その特異な時間論で知られた二〇世紀初頭の英国の哲学者、ジョン・マクタガートの議論だろうか。彼は、時間という事態の中核をなすのは、彼が「A系列」と名づける「過去・現在・未来」という時制だと考えた。何かが何かの「前に」ある(あるいは「後に」ある)という前後関係は(これを彼は「B系列」と名づけた)、必ずしも時間的なそれであるとはかぎらず、空間的なそれでも論理的なそれでもありうるからである。

前後関係が時間的な意味を帯びるためには、すでに時間という事態がB系列以外のところで成立していなければならず、それが「過去・現在-未来」というA系列だと考えたの
だ。しかし、同じ一つの事柄がこの三つの時制を併せ持つのは矛盾だという。なぜなら、過去はもはやなく、現在はあり、未来はいまだない以上、同じ一つの事柄が「あり」かつ「ない」ということになってしまうからだ。ここから彼は、この矛盾のゆえに、時間という事態は「非現実的(unreal)」であると結論した。

 しかし、本章からすれば、マクタガートのこの議論はミスリーディングである。なぜなら、そのように言うと、時間は、夢や幻や錯覚が「非現実的」と呼ばれるのと同じ意味で、「非現実的」なものとなってしまうからだ。

彼自身は、おそらくそう考えたのだろう。だが、彼が時間という事態の中核ないし本質をなすと考えた「過去ー現在-未来」というA系列に託して言わんとしたのが、本章の言う<「瞬間」における断層ないし亀裂の生起>のことだったとしたら、どうだろうか。この「瞬間」において、何かが決定的に失われ、すなわち失われたものとして姿を現わし、同時にそこに何かが、いや、いまだ「何」かとは言えない新たな次元が開かれるのだった。

この事態は「過去・現在・未来」という時制的・状態的な連続体に決定的に先立っており、一方で、この連続体のどこが「いま」(正確には「現在」)なのかを指定する、その隠れた前提をなしていた。だが、同時に、他方でこの「瞬間」は、この時制的・時間的連続体内部の特定の場所に位置を占めるものではなかった。

それは、あえて言えば、大きさ(拡がり)を持たない点であるがゆえにこの連続体の中には存在せず、むしろ逆に、この連続体のすべてがそれに服しているという意味では連続体のすべてに浸透していた。この意味では、「過去-現在-未来」のすべてが「いま」なのである。

そして、「過去-現在-未来」という時制的・時間的連続体の内部にあってこそ、つまりは「状態」として現象する世界の内部でこそ、何が現実的で何が非現実的かが測られる。したがって、それらすべてに先行する∧「瞬間」における亀裂の生起)は、何が現実的で何がそうでないかを測る尺度の埼外にあるという意味で、「非-現実的」なのだった。この意味での「時」の「非-現実性」は、残念ながらマクタガートの議論でうまく捉えられているとは言い難い。

「時」は(彼の結論が示唆するところに反して)夢や錯覚のようなものではないのだ。

 では、あらためて問おう。「時」とは何か。それは「瞬間」が生起する、その「時」である。この「瞬間」は、私たちを含めた世界のすべてに先行し、世界はそれに全面的に服するがゆえに、そしてそれに服することではじめて「いま」が定まり(このことを通して「現在」も定まり)、かくしてすべてが現にあるとおりとなるがゆえに、つまり、それの生起するところがつねに「いま=現に」であるがゆえに、それは「実在」との接触、正しくは、それに向き合うことも叶わない仕方での「遭遇ならざる遭遇」だった。つまり、本章が言う意味での「時」の「非-現実性」は、「実在」ということと矛盾しないのである。

 かくして、「時は実在する」。時は実在である。ちょうど「いま・ここで・現に」そうであるように。

<p286~p287>

私がこだわっている「実在」という仏教的な一刹那のおける実在的なものの考えにも通じる話に思います。

<「いま・ここで・現に」そうであるように。>

すべてが含まれる述語の世界が、今その瞬間に「ある」

 私は実在的な思考とは実在論に対抗するものではありませんが、実存的な思考がが主語を無くした述語の世界ならば、「実在」という言葉にリアルではない、西洋流ではない、観念論も対抗しない意味をもたせることもよいのではないかと思います。

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