さて「ハイデガーのExistenzの訳語」なのですが、ハイデガーというとナチス・ドイツとの関係が出てきます。ナチスの立場にあった哲学者、そこにはこの言葉とともに何があったのか、という大きな問題が横たわっています。
この点に視点をおいて論ずるのが社会学者の大澤真幸先生です。大澤先生は講談社から『ナショナリズムの由来』という877頁の5cmほどの厚い著書があります。この中に「存在の思考 事実存在と本質存在」と題して次のように書かれています。
<大澤真幸著『ナショナリズムの由来』講談社から>
「存在の思考 事実存在と本質存在」
ハイデガーは、存在忘却へと対抗する態度をナチズム(ファシズム)の内に見出しうる、と考えていたと思われる。われわれはこう論じた。存在忘却とは、存在者と存在の間の存在論的差異が見失われている状態、存在者とは区別された存在が見定められていない状態である。忘却されている存在とは何か? この点をここで確認しておこう。
存在の中の存在、存在についての関心の中心にあるものは何か? 無論、それは、伝統的には神であった。十一世紀にアンセルムスによって提唱された、神の存在の存在論的証明と呼ばれる、有名な議論がある。それは、次のような論法である。
「神は完全な存在者であり、それゆえ、あらゆる肯定的規定(無限である、全能である、全知である等)を含む。ところで『存在する』もまた肯定的規定である。それゆえ、神は存在する」。
この証明の要点は、(神の)本質存在の内に事実存在が合意されている、という点にある。そして、ハイデガーが 『現象学の根本問題』でカントの「存在は事象内容を示すrealな述語ではない」というテーゼ(『純粋理性批判』等)に立脚して反論しているのは、この神の存在証明が論拠とした存在概念である。
述べたように、二つの存在概念がある。木田元がハイデガー論において明快に論じているように、本質存在essentiaは、日本語の「Xである」というときの存在(ある)に対応し、事実存在existentiaは、日本語の「Xがある」というときの存在(ある)に対応している。西洋語ではbe動詞の系列の語によって表現される本質存在は、存在するということ(esse)が、それが「何であるか」ということと、その事物の同一性と、要するにその事物の本質(エッセンス)の規定と一体化している。
それに対して、事実存在は、それが「あるかないか」ということに関係している。ハイデガーの論点は、事実存在(「神が存在する」)は本質存在(「紳は全能である」等)には還元できない、ということにある。
つまり、いくぶん厳密さを犠牲にして言えば、ハイデガーが忘却の淵から救出しようとした存在概念とは、事実存在だと-----あるいは本質存在だけではなく事実存在をも含んだ存在概念の全体だと-----見なすことができるだろう。
「存在論的差異」と言えば、いかにも深遠なものに聞こえる。だが、この問題は、今日の分析哲学の領域で、浅薄な遊戯のように論争されてきた主題と並行的な関係にある。その主題とは、固有名の本性はどこにあるか、という問題である。
伝統的な主流は、固有名とは、名指された単一の事物を一意に同定しうる、その事物の性質についての記述(の束)の代用品である、と考えてきた。
たとえば、「夏目漱石」という固有名は、「東大の英文学の教師」「明治時代の小説家」「『妨ちやん』の作者」等の連言を意味する、ということになる。だが、ソール・クリプキは、非常に緻密な議論を通じて、固有名は、性質の記述には置き換えられないことを論証した。
「夏目漱石が『妨ちゃん』を著さなかったならば」という可能世界を仮定することができる、という事実が、クリプキの反記述説を支える論拠の一つとなる。固有名の記述への還元不可能性を、本質存在と事実存在の解消できない差異の言語上への反響として解釈することができるだろう。
ある事物を他から分かつような性質を記述するということは、その事物の本質存在-----「それが何であるか」-----を言語によって規定することを意味するだろう。
だが、「これは夏目漱石である」という指示は、「これ」と指示された個体の性質を記述するものではない。それは、ただ、「夏目漱石」と名づけられた「これ」が存在しているということのみを、つまり「これ」の事実存在を指し示しているのである。固有名と記述の間に代替可能性がないということは、それゆえ、事実存在が本質存在のうちに還元しえないことを合意する。
ところで、事実存在を意味するラテン語「actualitas(アクトウアーリタス・現実性)」は、「働き」を合意する動詞の過去分詞形actus(アクトウス)を含んでいる。つまり、現実性を成り立たせているのは、働き-----神の創造の働き-----であると考えられていたのである。
「現実性」という概念の源は、ハイデガーによれば、ギリシア語の「energeia(アナルゲイア)である。アリストテレスの造語のひとつとして知られるこの語は、「作品(エルゴン)のうち(エン)に現れ出ている状態」つまり、制作過程が完了して安らいでいる状態を指している。
木田元が実に鮮やかに要約しているように、ハイデガーは、古代の存在論が、すべて制作の概念に立脚しているものであることを、明らかにしている。すなわち、「本質存在」を表示する古代哲学の基本概念、「モルフェー」「エイドス」「イデア」「ト・ティ・エーン・エイナイ」「ホロス」「ホリスモス」といった諸概念は、制作過程に定位することによって容易に理解することができる。
たとえば、「形(エイドス)」は、アリストテレスによって「ト・ティ・エーン・エイナイ(それがそうであったところのものthe being which is what it was)」と言い換えられる。
職人は、何物かを制作する際、その完成形態(what it was)を最初に思い浮かべ、先取りする。それが現実化したものが、「形(エイドス)」なのである。
古代ギリシア語における「制作」とは、「手の届く範囲にもちきたらすこと」、しかも「制作されたものがそれ自体で自立したものとして見出されるように、眼前におくようにもたらすこと」である。
こうした定義に、『存在と時間』における、用具的存在者Zuhandensein/客体的存在者Vorhandenseinの区別の反響を見ることができるだろう。ハイデガーによれば、すべての事物はこの二種類に分割することができる。
客体的存在者は、用具的存在者ーーーーー「手元にある存在者」ーーーーーの頽落態であり、事物への本来の関係性ーーーーー配慮Sorge-----を失ったときに立ち現れる。制作は、対象を、用具的存在者として定立する操作であると見なすことができるだろう。
ハイデガーによれば、こうした制作の概念をベースにして考えれば、アリストテレスが、「存在」を「ウーシア」と表現した理由もわかる。ウーシアとは、家・財産のことである。
存在とは、家・財産のように、制作されたことによってもたらされる使用可能性と現前のことなのである。と、同時に、われわれは、存在が、近さの内にあることーーーーー「手元にあること」-----、家の内にあること、要するに「故郷」の内にあることとして捉えられていることに、注意しておこう。
こうして、ハイデガーによれば、古代ギリシア以来の西欧哲学の伝統の中では、存在するということ、現前するということ、そして制作されてあるということ、これら三者が同一のこととして捉えられてきた。
ところで、制作にあたっては、完成において現れるべきものが先取りされている。つまり、それが何であるか、何であるべきかということは既定されており、被制作物とは、その「何であるか」が現前にもたらされたものである。この先取りされた同一性(何であるか)が、先に述べた「エイドス」であり、またプラトンの「イデア」である。
そうであるとすれば、ここに見出されている存在は、本質存在だということになるだろう。ここには、事実存在が失われている。
だが、しかし、ハイデガーによれば、事実存在は、西洋的思考の中になかったわけではない。「ソクラテス以前の思想家たち」ーーーーー「西洋的思考の偉大な始まり」ーーーーーの中では、事実存在こそが、その思考の主題だったのである。ソクラテス以前の思想家たちは、「自然(ピュシス)」をめぐって思考した。
自然こそは、後に「事実存在」と見なされるものの本来の姿である。「ピュシス」は、「ピュエスタイ(生ずる、生える)」という動詞から派生する語である。それゆえ、万物を「自然(ピュシス)」と見なしていた初期のギリシア人にとつては、存在者の全体が、植物のように「自ずから発現・生成するもの」として現れていたということになる。
自然としての事実存在の第一義的な意味は、ソクラテス以降の思想の中では失われる。とはいえ、ハイデガーは、自然(ピュシス)と制作(ポイエーシス)が単純に対立していたと考えていたわけではない。制作は、自然の一様態なのである。
初期のギリシア人にとって、すべての物は、無限定な混沌(伏蔵体)としての自然のうちから発現し、特定の形(エイドス)をとって立ち現れる。この関係は、固有名によって指示されている個体は、さしあたって、いかなる述語的な規定(性質の記述)も受け取りうる普遍性として潜在しており、それについて述定するときに、特定の述語を与えられて現れる、という関係と類比的である。制作は、無限定な混沌が非伏蔵体へと現れる運動のひとつの様式なのである。
ハイデガー哲学の以上の簡単なサーヴェイによって、次のように結論することができる。忘却から救出されるべき存在とは、事実存在としての自然である、と。だが、事実存在(自然)とは何か、何を自覚したら、それを忘却していないことになるのか? ファシズムがその忘却へと対抗しうるかのように見えたのはなぜなのか?
このように問うとともに、ここで、われわれは、ハイデガーの哲学が「忘却」していることもあるということ、あるいは、ハイデガーの哲学が構造的に記録しそびれていることがあるということ、こうしたことにあらかじめ注意をむけておこう。
ハイデガーの哲学が記録しそびれていること、その「記憶」の守備範囲に入れておくことができなかったこととは、あの「収容所」の「イスラーム教徒」(の死)である。後に述べるように、ハイデガーにとって「死」は、特別な価値をもつている。真正な死は、現存在(個々の人間)に己の有限性を自覚させ、引き受けさせるものである。真正な死の自覚とともに、現存在は、未来へと投企する本来の実存に覚醒するとされるのだ。
それに対して、死を思うことなく日常の些事に埋没している人間は、「世人Das Man」と呼ばれる。気力と体力を完全に失い、動物の生以下の生を生きる「イスラーム教徒」は、本来的な実存を生きているとはとうてい言えまい。だからといって、彼らを世人と見なすのは、なお一層、不適切である。「本来的な実存」と「世人」は、あの収容所における、「一者」と「利己主義者」にならば、大雑把にではあれ対応している、と言えるかもしれない。だが、ハイデガーの死に対する見方の中には、どこを探しても、「イスラーム教徒」が収まるべき場所がない。
<以上p721~p725>
私が解説するような話ではありませんが、話しの展開に感激しました。
事実存在(existenz)=あるものがあるかないか=があるという存在
本質存在(essentia)=あるものが何であるか=であるという存在
実存=がある
実在=である
とします。日本語辞典で「実存」と「実在」を調べると一般的に、
実存=実際に(現実に)存在すること。
実在=実際にある(いる)こと。
となります。どうしても実存という言葉は明治の訳語「存在」が登場します。
「~が」と「~で」・・・・・・「存在」(ある)
その思想的背景、思考の発想の現象学的なさらには深層心理的な意識的な発動、無意識的な心の働きが見えそうです。
今朝は、事実存在(existenz)と本質存在(essentia)について二人の解説を紹介しました。私自身の意見を出すようなレベルではないのでとりあえず納得のうちに幕を閉めることにします。