時々ブログに書く道歌があります。仏教の一夜賢者の偈にも通じる歌なのですが覚えやすい流れのある歌です。
今今と 今という間に今ぞなく、
今という間に 今ぞ過ぎ行く。
存在認識における実在や実存という言葉の口にするときの思考の志向性に興味を持っていると、この道歌の「いま」に「ある」という言葉を挿入したくなりました。
あるあると あるという間にあるぞなく、
あるという間に あるぞ過ぎ行く。
この「ある」を漢字に変換します。
在る在ると 在るという間に在るぞなく、
在るという間に 在るぞ過ぎ行く。
有る有ると 有るという間に有るぞなく、
有るという間に 有るぞ過ぎ行く。
とここに二字の「ある」という漢字表記でこの道家を文章にすることができます。日本語辞典でその他にどんな漢字表記ができるかと辞書をみると次の漢字があることに感動を覚えます。※私だけかもしれませんが。
あ・る【生る】古語(下二自)生まれる。現れる。
辞書で分かるように古語であり、現代社会では「ある」と言って「生」に漢字変換することもなく、日本語の「うつす」を「写」「移す」「映す」などのように漢字との直結性は失われている言葉といえると思います。
この「生」を「ある」という存在の視点から十分に意味理解して、次のように詠う。
生る生ると 生るという間に生るぞなく、
生るという間に 生るぞ過ぎ行く。
夏になると「生ビール」。私はほとんど酒を飲みませんが、一杯だけなら飲めますので、夏の暑い日に飲むビールの美味さは分かります。
経済用語に「効用」という言葉があってこの言葉の意味理解に当って、この一杯目のビールの美味さを「効用が大」であると体感的に記憶したことがありますが。
現実性の「生々しさ」という表現がここに成立するわけです。
少しこの話の筋から離れたような文章の引用をします。時々紹介している社会学者の大澤真幸先生の『ナショナリズムの由来』(講談社)からです。
この文章は哲学者の竹田青嗣著『<在日>という根拠』(国文社)に書かれた金鶴泳著『錯迷』の一節を語った文章の引用部分で、引用の引用のような話です。
直接引用しないのは、書評的に大澤先生が書かれていてその差異の大澤先生の言葉の使用に、主眼があるからです。
<「言葉の回帰」から>
竹田青嗣が引用している、金鶴泳の『錯迷』の中の次のような場面は、非常に感動的である。それは、まさに、「言葉」の回復の瞬間-----「語ることの不可能性]が克服される瞬間-----を印づける場面であると言える。
主人公淳一の妹明子は、ある日、突然、「北朝鮮」に帰ると言い出す。近所の同胞たちは、明子の勇気を称賛したりもする。このとき明子が、金鶴泳(の小説の主人公たち)が胡散臭いものを覚えた、朝鮮民族主義者であったことは間違いない。だが、淳一、明子を動機づけているのは、「祖国」北朝鮮への愛というよりは、「暗い家庭」から逃亡したいという欲求であることを見抜いている。ついに、明子が淳一や母に見送られて、「帰還」する日が訪れる。ドラが鳴り、船がゆっくりと岸壁を離れた・・・・・。
そのとき、甲板の上の明子の表情が、さっと変わった。それまで静かに無表情だった明子の顔に、急に動揺の色が走った。まるで自分はいま母や家族から一人離れ、見知らぬ土地に行こうとしているのだということを、はじめて真に悟ったのごとく、・・・・・中略
・・・・・
「お母さあん! お母さあん!」
「明子お! 明子お!」
そして明子の顔が急に崩れ、みるみる歪んで、その目から涙が溢れてきた。
「お母さあんツ! お母さあんツ!」
涙をポロポロ流しながら、明子は泣きながら、はらわたに弛みる鋭い声で、何度もそう叫んだ。船が急ピッチで岸壁を離れて行く。・・・・・ふっと熟いものが私の胸にこみ上げてくる。涙が溢れ、視界が曇る。<どうしたことか。これはどうしたことか>そんなことを心に呟いているうちに、涙は抑えようもなく、つぎつぎと溢れてきて、頬を伝わる。
ここで、言葉の回帰は、「オモニ」という語から「お母さん」という語への回帰として現れている。日本における「暗い家庭」を憎んでいた明子は、母親を「お母さん」とは呼びたくなかったに違いない。「オモニ」という語を使い、朝鮮へと帰ろうとする明子は、むろん、朝鮮という「民族(ネーション)」への志向に呪縛されている。だが、今まさに朝鮮に発とうとした瞬間に、「民族」が、明子には、自身の生きられた現実性(リアリティ)への欺瞞を前提ににした「虚構(物語)」であることが生々しく実感されたのであろう。こうなると、もはや、「民族」への所属感を維持することは難しい。「お母さあんツ!」と泣き叫んでいるとき、明子は、朝鮮という1民族」とは異なる共同体に属している。それは、何か? 日本というもう一つのネーションと見なすべきではない。
この場面の感動は、竹田青嗣も指摘しているように、「お母さん」という語の回帰が、船が岸壁を離れ始めたその瞬間に初めて可能になっているという一点に、負っている。つまり、「お母さんLという語は、日本でもなく、朝鮮でもない、その両者の移行性にこそ属しているのである。ここで明子が自ら所属を実感している対象は、日本人にも朝鮮人にも等値しえない「在日朝鮮人」というマイノソティであるというほかあるまい。・・・・・・以下略。
<以上p544~p540>
在日朝鮮人の方々の置かれている立場が直接伝わる作品です。注目したいのは大澤先生がこの文章の中で「現実性」という言葉を使い「リアリティ」と英語に訳していることです。
そもそも「Reality」には「現実性」の意味があるのですが、この場面のこのときの現実性には、「実在」という哲学用語の「Reality」が表されていると思ったからです。
人間存在の存在の場、存在の時、存在の環境あらゆる私自身をも含むすべての存在がこの「現実性」に現れているからです。
実存の形而上学的意味理解、そこには身体感覚も「ある」という言葉の深さを感じます。
少々いつもの通りの一方的なことを書いてしまいましたが、「ある」という言葉と「である」「がある」という本質存在、事実存在の「実存」に対する話であはありませんが「現実性」という言葉に感動した次第です。
生る生ると 生るという間に生るぞなく、
生るという間に 生るぞ過ぎ行く。
勝手に「ある=生る」に読み替えたのですが、納得すると落ち着くのです。