老荘的な無為自然な生き方から「求めない」という言葉の教について、思考すると主体性の向きであろうか心が整わない感覚を受ける。
求めない
すると
比べなくなる
(ひとと自分を 過去と今を 物と勝ちを 持つとも持たぬとを)
(「求めない」加島祥造著 小学館P102から)
「求めない」という言葉自体が、「自分」という主体を前提にしているからであろうか。
「自然外道」という言葉があります。一切のものは因縁のないままに生まれたもので、自然に生まれ、万物それぞれが自然でありそれが絶対的な存在である。そのことを体得することが悟りの境地とする思考の世界のことで、仏教の縁起という教えに反するので、隋の嘉祥大師が老荘をそのように読んだということです。(「無」の思想 老荘思想の系譜 森三樹三郎著 講談社現代新書 P23参照)
「何ごとの おわしますをば 知ねども かたじけなさに 涙こぼるる。」西行さんのこの歌、僧侶ですので存在論的な何ものではなく、縁起の中のわたしが得る心であったと思います。
わたしがそう思っていることをわたしから教わり、そのわたしは他己(何ごとのおわします)を知る。
朝から南直哉さんの再々放送を見てから朝陽の昇るのを見ると、縁起の中に「わたしはあるなあ」と、思います。
最新の画像[もっと見る]
- 安曇野有明山麓の朝 4年前
- 安曇野有明山麓の朝 4年前
- 安曇野有明山麓の朝 4年前
- 人生の贈り物 6年前
- 安曇の山麓の古墳 6年前
- 安曇の山麓の古墳 6年前
- 安曇の山麓の古墳 6年前
- 安曇の山麓の古墳 6年前
- 真田の赤備え甲冑、実は武田の赤備え 6年前
- 真田の赤備え甲冑、実は武田の赤備え 6年前