思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

日日是れ好日/意味への信仰

2014年09月08日 | 東洋思想

 Eテレの100分de名著の今月は『般若心経』の再放送ということで「もと」からの学びのメッセージと解して、数多(あまた)ある『般若心経』の解説本の中から臨在禅の山田無文老師(1900年7月16日ー1988年12月24日)が、還暦の頃に書かれた『生活の中の般若心経』(春秋社)という本をめくってみました。

 目次に墨跡としてよく見かける「日日是れ好日」という文字に気がとまりました。軸では「日日是好日」で「れ」抜きの五文字がほとんどのような気がします。

 通俗的には「毎日お陰さまで感謝しています。」ということになりますが、ここでは中国の雲門大師の次の問答から始まります。

「十五日已前(いぜん)は汝に問わず、十五日已後(いご)一句を道(い)いもち来たれ」

この言葉の意味するところは、

「成人になるまでのことは尋ねまい。今日、成人になったとしたら、明日からどういう生活をする覚悟か言うてみい」

ということだそうです。先ほどの通俗的な「毎日お陰さまで感謝しています。」という解釈で心持ちに納めて生きられるかというとそうもいきません。

 「善き者にも悪しき者にも降る雨」でして難儀な事には、人災もあれば天災もあり、そのような事象、事態は人を選ばず現象として<わたし>に現われます。

 <わたし>とは私にも貴方にもあの人にもという意味でひらがなの「わたし」を一般的なそれぞれの人の一人称として書きました。したがってその意味取りの背景には「人を選ばず」の言葉を置きます。

 無文老師の話からずれてしまいましたが、この本には次の説話が出てきます。

むかし、南禅寺の門前に、無き婆さんという有名な婆さんがあって、降っても照っても年中泣いてばかりおりました。ある時、南禅寺の方丈さまが、おかしな婆さんだと思って、「婆さんや、お前はいつ通っても、泣いてばかりおるが、何がそう悲しゅうて泣くんや」と尋ねられますと、婆さんは涙をふきふき答えました。

「方丈さま、まあ聞いておくんなされ。私には二人の息子がおりましてな、一人は三条で傘屋をしており、一人は五条で雪駄屋(せったや)をしております。雨が降ると五条の雪駄屋が今日は売れんじゃろうと思うと可哀そうで、つい泣けます。天気だと山上の傘がさっぱり売れんだろうと思うと、これも可哀そうでまた泣かずにはおれません。」

 方丈さまはそれを聞かれて、「そりゃ婆さん、お前、心のもち方が悪いわい。雨が降ったら三条が売れて売れて、目の回るほど忙しいと思ったら、うれしかろうが。天気になったら五条の雪駄が羽が生えて売れると思ったら、これもあり難かろうがな。お前のように物事をそう悪い方にばかりとってはいかぬ」と言うて聞かされますと、婆さんも「成るほど」と合点し、それから毎日、喜んで暮らすようになったと申します。

この話は、息子ではなく、嫁に行った娘に代えて話されている説かれる方もいます。

 無文老師は、次のように話されています。

 このように世の中には万事、心の持ちよう一つで、日日是れ好日と喜んで暮らせるのだ、とも解釈できますが、そのくらいの事なら、何も雲門大師に言うてもらわねばならぬことはありません。

 台風で屋根は吹っ飛び、浸水は床上まで越し、子どもは流さた、主人は出たまま帰らない、電気はいく日もつかない。米は無い、水は無い、そんな場合でも、「日日是れ好日」と頂けるでしょうか。お蔭さまでと感謝されましょうか。心の持ちようで解釈できましょうか。雲門大師ほどの大徳の言われたのは、そのような極端な、万一の不幸を計算に入れての日日是れ好日であるはずです。

 良寛さんが、「災難の時は災難に遭うがよろしく候、病む時は病むがよろしく候、死ぬる時は死ぬがよろしく候」と言った境地こそ、この心境でありましょう。
 どんな災難が湧き起こっても、素直に受け入れられる心、たとい大病になっても、ウロウロせずに静かに病人になっておられる心、殺すといわれても笑って手が合わせられる心、そんな心が自覚できませんと、軽々しく「日日是れ好日」などと、大口を叩かれません。

こう無文老師は凡人にはたどり着けない境地を例に出され、通俗的な「毎日お陰さまで感謝しています。」で示される「日日是れ好日」を説かれます。

「殺すといわれても笑って手が合わせられる心」

この言葉に次のことを思い出しました。あまりにも衝撃的な内容で、

「ホロコーストを生きのびて ~シンドラーとユダヤ人 真実の物語~」[2010年08月15日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/6a2c9f833b683c411b6d8abb72c31647

で番組内容を紹介しました。

 映画「シンドラーのリスト」でも有名な強制収容所、そこに登場する残忍なゲート所長の悪魔の所業の話で、

 14歳の少年がロシア語の歌を歌うことができるという理由だけで、収容者の前で絞首刑にされる話があります。少年の首に巻かれた紐、干物結び目が緩く3回も失敗します。
 
 するとゲート所長は、”殺さないでください”と命乞いをする少年の声に耳を傾けることなく、処刑に携わる人たちに向かい”今度失敗したらたずさわった者を処刑する”と言い放ち、遂に少年を処刑してしまいます。
 そしてゲート所長はなにをしたか、死んでいる少年の顔面に何発もの銃弾を撃ち込んだそうです。

 少年は、ひざまずき手を合わせ懇願したに違いなく・・・悪魔の所業です。

 人はどこまで残酷になれるのか。

 これはゲート所長ばかりの話でもなく、現実に世界で起こっており、アメリカのジャーナリストの殺害の場面はインターネットに行為者の手によって全世界に知らされました。

 「人はどこまで残酷になれるのか」という問いは、誰にも当てはまる行為者になれることを示す問いでもあります。

 無文老師はそのようなことは言っていませんが、このように聞かされると虚無感に襲われます。

 「事」は起る。

 事象、事態は人間にとってというよりも、<わたし>に現われた現象という「こと」である。人災もあれば天災もあり、「善き者にも悪しき者にも降る雨」として難事は現れる。

 「こと」はなぜ起こるのか。

 そこには、<わたし>の現存在の確実性よりも、何故<わたし>に起るのかという根源的な問いもたなければならないと思うのです。

 そしてその根源的な問いとは真理性へと達せんがための<わたし>という「もの」の根底からの働きによる、私という主体性の問いならなければならないと思うのです。

 山田無文老師の還暦の頃に話された「日日是れ好日」の最後は、

 それは心が絶対無にならなければできぬことであります。明暦々、露堂々、縦に三世を貫き、横には十万に通貫する絶対無の心を「摩訶」と申します。摩訶般若の「摩訶」であります。翻訳して「大」と申します。(上記書p79)

 その後の解説は無く、ここで閉じられています。こう説かれてしまいますと、二進も三進も進みません。

 「絶対無

は西田幾多郎先生の造語です。この絶対無は、西谷啓治先生では「空」と、上田閑照先生ならば「虚空」となるようです。田辺元先生も絶対無を使われています。

 このくらいで今朝は止めと置けばよいのですが、関係性の思念が次の言葉を思い出させます。

 以前に参照した『新潮 2014.9』掲載されている、「原発事故のあと、哲学は可能か」と題したの対談「中澤新 + 東浩紀」のお二人の話です。

【東浩紀】僕は京都学派にはシンパシーを覚えています。彼らは日本において哲学がどう機能するかすごく真剣に考えていたと思うし、これは僕なりの見方だけど、彼らが禅とか仏教というのは方便のところもあるんと思うんですよね。ハイデガー哲学をそのまま言ったとしても、日本人にはわからんだろうと。しかし禅とかと結びつければ、日本の中で多くの人が関心を持ってくれるというような計算も、おそらくどこかにあった。

【中沢新一】僕は逆だと思います。西田幾多郎も田邊元も日本語で書いているけど、世界に向かって書いているんですよ。この島国で形成されてきた哲学、というか哲学、というか哲学の形にもなってないものをカントやヘーゲルの概念を使って表現したらどうなるか。それを西洋に向かって発信したらどうなるかということで書いていたと思うんだ。残念ながら、西洋人はあんまり振り向いてくれなかったけれどね。日本人に向かって西洋的なことを書くっていうんだったら、かつても今も唐代の先生たちがやっているよ。そんなチャチなことをあの人たちは狙ってたんじゃないと思うよ。

対談のほんの短いやり取りを取り出しましたが、実におもしろい京都学派というよりも西田哲学の話です。

『善の研究』は今では多くの言葉に翻訳されて読まれていると事実があります。

 私という現象は如何なものか、ここでV・E・フランクルの次の言葉を引用したくなりました。

 存在者は、その存在者を認識する精神的に在る者にとって、決して「外に」あるのではなく、常に端的に「現に」(da)あります。そして次に、あらゆる心理学に固有の反省的態度において初めて、この端的な「現に」---「あること(《Da》-sein 現-存在)が主語と客体に分裂するのであります(『制約されざる人間』P66)。

 哲学者の山田邦男先生が指摘されていますが、非常に西田哲学と重なるものがあります。私も西谷啓治先生の今度は西谷哲学ですが、接して行くと全く同じに感じられます。

 今朝は土日の勤務で休みとなり、時間があるので引用だらけですが、今現在の思考の世界を記述しました。

  絶対無の心を「摩訶」と申します。摩訶般若の「摩訶」であります。翻訳して「大」と申します。

 大いなる不思議を感じ入る。『般若心経』の意味への信仰話でした。


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