思考の部屋

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普遍的な自由と自由主義・上原良司

2015年05月05日 | つれづれ記

 最近地元紙を見ていたところ「“戦後70年”上原良司と<いま>を生きる。」と題した【平和をテーマに】高校生を対象にした意見感想文の応募が行なわれていました。過去 今月の待つまでの募集期間で400字詰め原稿用紙4枚程度で、主催は「わだつみのこえ70年の会」で事務局は松本市内にあるようです。

 戦後70年とはまさに戦争体験者が70歳以上になり実際に実体験の記憶を持つ人はそれ以上の年齢になっているということになります。

 上原良司と「わだつみのこえ」という人名と言葉から岩波文庫の日本戦没学生の手記『きけわだつみのこえ』を思い出す人も多いと思います。
 
 上原良司は、フリー百科事典ウィキペディアには次のように紹介されています。

【ウィキペディア】
 
 長野県北安曇郡七貴村(現・池田町)に医師の上原寅太郎の三男として生まれ、旧穂高町(現・安曇野市)有明で育つ。2人の兄、良春と龍男はともに慶應義塾大学医学部を卒業後に軍医となり、龍男は良司が慶大に進学した年に、ニューヘブリデス諸島の沖で潜水艦と共に沈んで戦死している。
 旧制松本中学校(現松本深志高校)を卒業後に上京し、慶應義塾大学予科に入学。1942年に慶應義塾大学経済学部に進学するが、経済学部在学中に徴兵猶予停止によって学徒出陣、大学を繰り上げ卒業した。1943年12月1日に陸軍入営[1]。歩兵第50連隊に配属となり、第2期特別操縦見習士官として熊谷陸軍飛行学校入校、館林教育隊にて操縦訓練を開始し、1944年に熊谷陸軍飛行学校を卒業した。
 1945年5月11日、陸軍特別攻撃隊第56振武隊員として愛機の三式戦闘機「飛燕」に搭乗して知覧から出撃、約3時間後に沖縄県嘉手納の米国機動部隊に突入して戦死、享年22。
戦没学生の手記『きけわだつみのこえ』(岩波文庫)では「所感」という題名の遺書が巻頭に掲載されている。この文章は多くの人々の胸に響き、映画「きけ わだつみのこえ」やドキュメンタリー番組でも特集されるなど戦没学生の手記の代表格とされ度々取り上げられている。なお、特攻出撃前夜に、陸軍報道班員に「所感」を託していた。
2006年10月22日、池田町に上原の記念碑(石碑)が建立された。

『きけわだつみのこえ』の第一篇の最初に紹介されている手記が上原良司の遺書です。

 昭和19年7月末 館林から知覧に転属になった際に上原良司帰郷し、自宅で書き残したもので第2の遺書と呼ばれるものです。ウィキペディアでは「所感」と紹介されている文章が紹介されていますが、岩波文庫に掲載されているのは次の「遺書」です。

 「遺 書」
 生を享(う)けてより二十数年何-つ不自由なく育てられた私は幸福でした。温かき御両親の愛の下、良き兄妹の勉励により、私は楽しい日を送る事が出来ました。そして、ややもすれば我優になりつつあった事もありました。この間御両親様に心配をお掛けした事は、兄妹中で私が一番でした。それが何の御恩返しもせぬ中に先立つ事は心苦しくてなりませんが、忠孝一本、忠を尽くす事が、孝行する事であると云う日本においては、私の行動を御許し下さる事と思います。
 空中勤務者としての私は、毎日毎日が死を前提としての生活を送りました。一字一言が毎日の遺書であり遺言であったのです。高空においては、死は決して恐怖の的ではないのです。このまま突っ込んで果して死ぬのだろうか、否、どうしても死ぬとは思えません。

 そして、何かこう突っ込んでみたい衝動に駈られた事もありました。私は決して死を恐れてはいません。むしろ嬉しく感じます。何故ならば、懐かしい龍兄さんに会えると信ずるからです。天国における再会こそ私の最も希ましい事です。私はいわゆる、死生観は持っていませんでした。何となれば死生観そのものが、あくまで死を意義づけ、価値づけようとする事であり、不明確な死を怖れるの余り為す事だと考えたからです。私は死を通じて天国における再会を信じているが故に、死を怖れないのです。死をば、天国に上る過程なりと考える時、何ともありません。
 私は明確に云えば自由主義に憧れていました。日本が真に永久に続くためには自由主義が必要であると思ったからです。これは馬鹿な事に聞えるかもしれません。それは現在日本が全体主義的な気分に包まれているからです。しかし、真に大きな眼を開き、人間の本性を考えた時、自由主義こそ合理的なる主義だと思います。
 戦争において勝敗をえんとすれば、その国の主義を見れば事前において判明すると思います。
 人間の本性に合った自然な主義を持った国の勝戦は、火を見るより明らかであると思います。
 日本を昔日の大英帝国の如くせんとする、私の理想は空しく敗れました。この上は、ただ日本の自由、独立のため、喜んで命を捧げます。
 人間にとっては一国の興亡は実に重大なことであります。宇宙全体から考えた時は実に些細な事です。騎れる者久しからずの例えどおり、若し、この戦に米英が勝ったとしても、彼等は必ず敗れる日が来る事を知るでしょう。若し敗れないとしても、幾年後かには、地球の破裂により粉となるのだと思うと、痛快です。加之(しかのみならず)、現在生きて良い気になっている彼等も、必ず死が来るのです。ただ、早いか晩(おそ)いかの差です。

 離れにある私の本箱の右の引出しに遺本があります。開かなかったら左の引出しを開けて釘を抜いて出して下さい。
 では、くれぐれも御自愛のほど祈ります。
 大きい兄さん清子始め皆さんに宜しく。
 では、さようなら、御機嫌良く、さらば永遠に。                                 良司より

  御両親様へ

 2年ほど前に特攻隊が話題になったころにこの遺書を紹介しました。出身地の安曇野市の隣池田町の「あづみの池田クラフトパーク」のふるさとが見える丘には「わだつみの声記念モニュメント・上原良司の碑」があることも紹介しました。

 

 今年の春先にもこのふるさとの丘から北アルプスの見える風景を紹介しましたが、今日は安曇野の稲作前に田んぼに水が張られた輝く田園風景を見るためにこの丘に登り、「わだつみの声記念モニュメント・上原良司の碑」にもあってきました。

 

「所感」は、ウィキペディアに書かれているように、特攻出撃前夜に、陸軍報道班員に託したもので、この文面から抜粋した言葉が記念碑に刻まれています。

 

自由の勝利は
明白な事だと思います。

明日は自由主義者が
一人この世から
去って行きます。

唯願はくば愛する日本を
偉大ならしめられん事を

国民の方々に
お願いするのみです。


昭和19年7月末ごろの遺書(上記)
昭和20年5月11日前夜の所感(ウィキペディアに掲載されている)

この二書にはその時代に生きた若者の姿があります。

「“戦後70年”上原良司と<いま>を生きる。」

に云うところの<いま>とは、「自由」「自由主義」は時代にどう読み解かれていくべきものなのか。

 普遍的な「自由」「自由主義」なるものがあるのか。


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