さて将来は現在の内容としてのみ存在し、過去が無に等しいならば、実在の意味において存在するのは、ただ現在のみである。しかるに、その現在は、単独唯一の存在となるとともに、無に帰するのである。もっとも主体が、したがって現在が存在している限り、他者もそれの対手としていつも存在している。主体は客体を他者としていつも前におかねばならず、いつも可能的自己へと向わねばならぬ。しかもその自己は、実現されることによって壊滅に入る、皮肉なる運命の下に立つのである。かくして「時」は、一の可能性より他のそれへ、一の形相より他のそれへと、いはばいつも自己の幻影を追いつつ、生と滅とが窮みなく交替する果てし無き帰無の旅路を、急ぐ旅人の姿を示すであろう。要するに、純粋の人間的文化的生の姿として、「時」は将来より過去への方向を取る。否そればかりでない、将来は実は現在である故、過去へと向う現在、無へ向う有、こそ時の本質的性格である。 (「時と永遠」波多野精一全集第四巻P261から抜粋)
人間というものは時の上にあることだ。過去というものがあって私というものがあるのだ。過去が現存しているという事が又その人の未来を構成しているのだ。
この文章は、昭和2年2月9日付けの西田幾多郎が友人山本良吉宛に出した手紙に書かれている。
以上は、昨年の8月4日のブログで「時と永遠」で引用させてもらった、京大の波多野先生とと西田先生のお考えです。
朝のジョギングをしていると「現在・今・瞬間」の現前の「ある」姿をみる。 実体とはそもそも無いんだといったところで、現実は間違いなくある。秋葉原の殺人事件、東北の地震があるようにそれは現実である。
悲しみは極限に至る。当事者には誰でもがなりえるが、現実は、そうではない。その時、その場所にいたものに起き、関係者に起きる。
これが何百年も昔ならその他の人々にとっては、遙か彼方の出来事で、起きたことさえ知らないで一生を終わる人もいる。が現代社会では瞬時に知りえる。同時共同感覚の中に落とされる。
このような社会は、ある面では末法的な社会と思ったころと相似している。したがって現実を離れた理想主義に、夢物語に期待してしまう。
説一切有部がいうところの実在はある面ではその通りであると思う。「仏道とは実体論」と西嶋老師がいわれていたが、いわゆる仏教は現実と、どのように対するか私たちに教えてくれる。
「大地有情同時成道」「山川草木悉皆成仏」「諸法実相」これらは全て現実肯定の教えであるのですが、分別の塊である私は永遠という空想の時間の中で見てしまい、来たらざる未来に惑わされ、過ぎ去った過去に引きずられ、また自分の弱さで悪人にもなってしまいます。
世の中は、全てのつながり以外には無い。
全てのつながりが現実を構成している「空即是色」。
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