以前「暴力装置とは、どんな装置?」という題名で記事を書いたところ、
<コメント>
思想に基づいて云々する人がおられますが軍隊、警察、消防など普段は危害目的でなく必要に応じて制圧する為の道具を持って又、それを行使するための権力を有する諸団体を暴力装置というのは何の問題も無い
そして、暴力で有るからこそ抑止が働くのである
今の日本は平和であるから暴力団だけを想起するから可笑しな考えになるだけだ 暴力の根源の意味を考えてください
凶器という言葉もそうでしょう、包丁、果物ナイフ、バットなども普段は凶器とは言わないが危害を加える道具になれば凶器となります。 それと同じである
<以上>
というコメントをいただきました。仙石官房長官の国会における発言に対するアプリオリな無意識発言、若いころの国家権力に対する素直な反感から出た旨の内容のものに対するコメントでした。
コメント内容については、私もまったく同感で否定しようのないものだと答えました。 その際、コメント内で「暴力の根源の意味を考えてください」と言及されていましたので若いころにこの「暴力」という言葉に対して研究したことを書きました。
暴力というものは一般的に「相手を抑圧する程度」のもので、身体に対するもの、精神に対するもの、直接的なものから間接的なものまでを問いません。
したがってマザーテレサでがいう愛に対する反対語「無視」いわゆる「しかと」も含めた態度的なものも暴力だと付け加えました。
その際古典上の「悪眼」を主張の論拠として提示しました。
本朝文粹の宇多院為河原左相府没後修諷誦文巻14に出てきます。
「悪眼も邪心の門であり然も禍を加えへる力あり」
禍を起こすものも武器であり、暴力である。
と。
日本人ばかりではないと思いますが、視線というものは「うしろめたし」でも言及しましたが、人間の憶測という性質も手伝って非常に怖いものです。
目の不自由な方には言葉に一層その強さがありますから、ことばもそれに加わるとほとんど人によっては殺傷能力のある武器になります。
昔の人はさらし首という、今では考えられない野蛮な行為を人民に対する治安秩序安定手段(考え方によっては、支配側の抑圧手段)を行っていました。
(※なぜ「さらし首」の話が出てきたかといいますと上記の「修諷誦文」はこれについて言及しているからです。)
そこにさらされた者の目の見開きの「悪眼」怖さから、そのようなみじめな姿の「恥」というさらされる主体と観る客体がわの相互の認識効力が前提とされていたように思います。
だから「「悪眼も邪心の門であり然も禍を加えへる力あり」と言う文面は一面的な眼でみると意味の弱いものですが、自分側の眼に置き換えると非常に教えられる言葉に思います。
「悪眼」は目だけではなく心のもち方も含みます。素直(すなお)な心とは自分の思想・倫理観・道徳感に忠実な態度です。そしてそれは目にも態度にも出てきます。
そして言葉にも出てきます。ついつい言わんでもいいことを言ってしまう。
悪い芽は元から断(た)たなければダメ!
という大昔、自然農法が叫ばれる前に農薬のコマーシャルがあります。
悪眼=悪い芽
元がしっかりしないと他人様に不愉快を与えることがあります。あなたの眼は住んでいるでしょうか。
仙石さんではありませんが、国会議員にはこのような「ついつい」言ってしまう悪眼の人が多いように見えます。
象徴憲法である日本国憲法の擁護者が不敬な発言をする。時代は平成であるから、ある面よかったのかもしれません。さらし首になることはないのですから。
そんな馬鹿者の話はさておき、身を慎む、身を修める。昨今実に教えられることが多々あります。 に参加しています。
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