思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

語る言葉の世界

2019年02月19日 | ことば

きしかた・こしかた「来し方」という言葉があります。源氏物語の時代から使用している言葉で、意味するところは過ぎ去った過去、通り過ぎてきた場所・方角です。
 そして、きしかたゆくさき・こしかたゆくさき「来し方行く先」、きしかたゆくすえ・こしかたゆくすえ「来し方行く末」と過去を振り返り、今いる現在から未来へと、場、時間、空間を感情表現しています。

この中から次の言葉表現に思考視点を置いてみたいと思います。
きしかた‐ゆくすえ〔‐ゆくすゑ〕【来し方行く末】の意味
出典:デジタル大辞泉(小学館)では、
1 過去と未来。来し方行く先。「来し方行く末を思う」 
2 過ぎてきた方向・場所と、これから行く方向・場所。来し方行く先。
と解説されています。

 いろいろなこと、これまでのこと、これからのことを思う表現です。このように表現する主体は当然言説する私です。わが身を顧みて、これからを思う。このように内に生起する能動的な能力はその表現の意味を理解できるのですから万人に備わっていることです。
 未来的表現である「これからのこと(ゆくすえ)」ですが、心境のみならず経済予測、政治予測も含め現在時点における来し方が無ければ行く末は生起されないと思うのです。哲学者マルクス・ガブリエルの著書を読んでいたところ、ドイツ観念論に関係する箇所に、
「世界の内に在る何か規定されたものを指示する我々概念能力は、事実の後でのみ成立する。」
という言葉がありました。著書全体は翻訳本ですが私の能力では理解不能な本ですが、この文章になぜかハッとしました。

 私が今まで書いたようなことをガブリエルが書いるのではなく、関係性はないのですが、「来し方行く末」を頭の隅に置いていると、異なる読書本の文中に私の心に響く言葉に出遭うのです。
 「事実の後のみに」の「事実」とは何か。反省起点で現れ去り行き、刻み行くその瞬間に現れる只今のリアルなのか。

  額田王の万葉歌に「冬ごもり 春さり来(く)れば 鳴かざりし 鳥も来鳴(きな)きぬ 咲(さ)かざりし 花も咲けれど ・・・・」(巻1-16)があります。

  万葉人がここで歌う「春さり来れば」という言葉、現代人が描くのは「夏が来ることか?」と思いきや「春になると」という現代語訳になるわけで、この言葉の前の「冬ごもり」が、表現しようという春の様相につながっているわけです。

 「冬ごもり」とは、「寒い冬の間、動植物が活動をひかえこと」で、寒いから閉じこもろうという意味ではなく、この言葉を使う時は、春の待ち遠しい芽のふくらみや冬眠中の動物が眠りの中で春を夢見る活動前夜を想像するような息吹を実感して使うわけで、まさに「春が来たならば・・・」と、自然界の歓喜が現れてくるわけです。

 最近は短歌や俳句がよく取り上げられています。俳句の夏井いつき先生の解説は個性的で非常にわかりやすく、俳句をしたくなる人も多いのではないかと思います。表現される言葉の奥行、深さ・・・に気づかされます。

 今回は、語る言葉の世界に視点を置いてとりとめのない話をしています。人は自ら作り出す物語の中に生きているわけで、物語は言葉で綴られます。時々どのような言葉を使い作り出しているのか考えてみるのもよかろうと思うのですが。

 


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