余震の連続は体感の中で不安を助長する。目に見えない放射能の水道水への汚染、大地の汚染は数値で不安を助長する。
今朝現在警察発表によると今回の地震と津波による死者・行方不明者合わせると2万5000人だとのことである。
宮城県のある被災地で避難場所にもなっている小学校で卒業式が行われて、できないと思っていた卒業式、感謝の気持ちを保護者の母親が語っていた。津波で卒業証書は汚れてしまったが、校長と教頭が丁寧にその汚れをぬぐい取り子供たちに手渡された。
地震に耐えた証(あかし)勇気を与える証書旨の校長先生の言葉、手にした子供たちの言葉もその励ましに答えるものであった。
他人事で傍観する私の心に突き刺さるが、その痛みは何かを伝えてくれる。
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連日連夜、数値が流れる。予想される余震の震度は6弱から6強とのこと、それに答えるように大地は揺れる。
人間が作り出した、見えない脅威の数値、自然界にも存在する同じものも、人間が数値の脅威に変えてしまった。いつ来るかもしれない死への恐怖である。
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私は何かを知り、何かを学び取らなければならない。「お前は何を学ぶか?」そんな問いを今突きつけられている。
『荘子』に養生して徒らに食われた男の話がある。そんな話を森三樹三郎先生は次のように紹介している。
〔養生して虎に食われた男〕
魯(ろ)の国に単豹(ぜんぴょう)という男がいて、岩屋にすんで水を飲み、世の人なみの楽しみを求めようとしなかった。このため七十歳になりながら、まだ赤ん坊のような色つやをしていた。ところが不幸にも飢えた虎に出会い、そのために食い殺されてしまった。
また張毅(ちょうき)という男がいて、富貴の人がすむ邸宅の前を通るときには、必ず小走りして通りすぎ、敬意を表するという礼儀正しい人物であったが、あまり身のふるまいに気を使ったために、四十歳になったとき熱病を起こして死んでしまった。
単豹はわが身の内をよく養ったのであるが、虎がその身の外を食ってしまった。
張毅はその身の外をよく養ったのであるが、病気がその身の内を攻めたのである。
すべて養生には、一つのことだけにとらわれないことが大切なのである。
世俗の養生法はすべて不十分なものばかりである。完全な養生法とは、自然の道に従う
以外にはない。
<引用『老子・荘子』(森三樹三郎著 講談社学術文庫p237)
完全な養生はない、自然に従うだけ、一つのことに囚われない心がその道だというのである。
人間とは不思議なものである。内なる声の中に最低と最高、最悪と最高、幸いと不幸をみる。真実なのかニセモノなのかすべては混合している。
善いと思ったことが悪いこともある。注意深さが思いがけない落とし穴にはまることもある。
敵だと思っていた者が実は味方で、仲間だと思っていた者が実は敵だったということもある。
「真実なのかニセモノなのかすべては混合している。」とはそういう意味で、今の世の中すべての思いは混合して見えているのである。
原始仏教典にこんな偈がある。
<引用>
おのれを害(そこなう)うもの
南伝 相応部経典 三、二 [人]
漢訳 雑阿含経 四六、一九
かようにわたしは聞いた。
ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祓陀)林なる園にあられた。
その時、コーサラ国の王パセーナディは、世尊を訪れ来たり、世尊のかたわらに坐して、白(もう)して言った。
「世尊よ、どのようなものが人の心の中に生ずる故に、人は苦しみ悩み、不安となるのであろうか。」
「大王よ、人々が苦しみ悩み、不安におちいるのは、三つのものが心の中に生じるからである。その三つとは、何であるか。大王よ、貪(むさぼ)りがそれであり、瞋(いか)りがそれであり、愚かさがそれである。この三つのものが、人の中に生ずるとき、その人は不幸となり、不安となり、苦しみ悩まねばならぬのである。」
かく説いて、世尊はまたさらに、偈をもって次のように教えた。
「むさぼりと、いかりと、おろかさと、
この慈しき心、うちに生じて、
おのれを害(そこな)うこと、あたかも
竹の果(み)を生じて倒るるがごとくである。」
<以上『仏教の根本経典』増谷文雄著 大蔵出版p139>
最後の「竹の果(み)を生じて倒るるがごとくである。」がわからない。
相応部経典(サンユッタ・ニカーヤ)『ブッダ 神々の対話』(中村元著 岩波文庫)第三篇第一章第二節「人」では、
<引用>
「人」
一 〔あるとき尊師は、〕サーヴァッティー市の〔ジェータ林・(孤独な人々に食を給する長者)の〕園に〔住しておられた〕。
ニ そのとき、コーサラ国のパセーナディ王は、尊師のましますところにおもむいた。近づいてから尊師に挨拶をして、傍らに坐った。
三 傍らに坐って、コーサラ国のパセーナディ王は、導師に次のように言った、---「尊いお方さま。どれだけの性質が、人の内部に生じて、その人の不利、苦悩、不快適な暮しとなるのですか?」
「大王さま。三つの性質が、人の内部に生じて、その人の不利、苦しみ、不快適な暮しとなるのです。その三つとは何であるか? 貪りという性質は、人の内部に生じて、その人の不利、苦しみ、不快適な暮しとなるのです。また憎しみという性質は、人の内部に生じて、その人の不利、苦しみ、不快適な暮しとなるのです。迷妄は、人の内部に生じて、その人の不利、苦しみ、不快適な暮しとなるのです。以上これらの三つの性質は、人の内部に生じて、その人の不利、苦しみ、不快適な暮しとなるのです」と。
四 〔尊師は次のように言われた、---〕
「貪りと怒りと迷妄とが、己れに生じると、悪心ある人を害する。---
茎の細い植物が、実が生(な)ると、〔害されて倒れる〕ようなものである」と。
<以上上記書p165>
弱気茎の細い植物のような人間、実の重さに耐えず倒れてしまう。この場合の「実」は何ぞや。
貪(むさぼ)りがそれであり、瞋(いか)りがそれであり、愚かさがそれである。
貪りと怒りと迷妄
これらの言葉があらわす思いが、人の心に生じると、不幸となり、不安となり、苦しみ悩み、人の不利、苦しみ、不快適な暮しとなるというのである。
原発の放射能流出の問題に絞ると、現在の不安、不快適な暮らし、人によっては最大の苦しみになっているかもしれない。
貪るわけでもなく、怒りでもなく、道理に暗く実のないものもあるように思っている、心の迷いの中にあるのか。
愚かさの真っただ中にいるのか。
数値で表される、形なきものである。そのものの働きは高ければ早急な細胞破壊になり、緩やかな蓄積も細胞破壊の道筋をたどる。行きつくところはだれもが平等に有する死である。
養生して虎に食われた男のごとく、死への道筋は多様である。
すべてに明らかなことは、すべての事実について自分が直面しているということである。
直面とは考えさせられる時を得ているということである。
私は、あなたは、何を考え何をしようとしているのか。
だれがこのストーリーを考えたのだろう。
ストーリーが描き出そうとしているものは何か。
しっかり考える時を与えられている。そんな気がする毎日である。
実は、負のみであるわけがない正を含むものである。恵みの実となるに違いない。そう信じたい。
「養生して虎に食われた男」だけにはなりたくない。
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