思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

人間の性(さが)と統合的私について

2019年04月07日 | 思考探究

  「私というもの」という言葉を文章に織り込む場合は、自己紹介的な文面を内容としたものになりそうです。そこには人柄、性格など、私が他者との比較の中で想像し、知覚されたものを書きこむことになります。これは表現を変えれば「私のこと」を書いたわけで、そのことによって他者に私というものを知ってもらうことになります。

 

 あるサイトを見ていたら人柄がいい人の特徴を表す言葉が10ほど書かれていました。

悪口を言わない。噂話に惑わされない。公共のルールを守る。相手を思いやった行動ができる。前向きな行動力がある。周りから尊敬されている。人当たりが物腰柔らか。責任感が強い。純粋で誠実。おおらかで楽観的。

 

なるほどと納得できそうな人柄の内容表現です。それならば次に性格についてはどうでしょう。考えるよりもサイトを参考にします。すると、

 

長所として

 明るい性格を想像できる「朗らか」。爽やかな「さっぱりしている」。積極的な印象の「社交的」。信頼感を持たれる「責任感がある」。温かみのある人・ホッとする人柄の「誠実」。

短所として、
 悲観的。頑固・自我が強い。大雑把。大雑把。短気。

と長所・短所に分けられていて、短所の性格は嫌な人間の見本のようです。

 このように私は自分の人柄、性格を書くにあたり、自分を見つめることになります。しかし、自分だけを見つめたところで、「純粋で誠実」な人柄はわかるものではなく、第三者である他者との対比がなければ現れてきません。

 

誠実なのか誠実でないのか。自己の持つ誠実でない人という意味の範疇がなければ判断ができず、誠実ではない人というレッテルは貼れないのです。

 

今回の課題は、「私の人柄」です。知識としての各人柄の区分の範疇の「当てはめ」、経験なくして知識は生まれず、多くの他者を自分に取り込み人柄像を作り上げてきました。自分を見る自分が立ち現れてそういう人柄、そうでない人柄かを分析していきます。そして統合的意識が自己意識として歯がゆさはあっても「純粋で誠実な私」という評価を出すわけです。

 こう考えると私以外の他者の存在がなければ、私の存在は成らず、また私の中に各種の人柄でそれに該当した「である」という述語の主体である別枠の私がいるわけです。

私をAとし、この場合の別自己をBとするならば、等式で書くとA=非A=Bのように思われてしまいますが

A(主体)に対しての述語であらわされるA人柄像の私
B(主体)が述語であらわされるB人柄像の私

統合的私は、A人柄像は、相依関係にあるB人柄像との比較衡量よって構成されたものであると考えます。

統合的私という自己意識=A人柄像>B人柄像orA人柄像<B人柄像

統合的私は、どちらで現れるのか。ここが人間存在の重要なところで、個人的な課題を敵記されます。

 最近の思考はこればかりですが、哲学、精神医学等を見ても他者との関係性を語る場合、自己は受け取り側として統合的な自己意識のまなざしのみで展開されているように思われます。

 「自己を見つめる」という反省的思惟に立つ場合に、述語の主体である主語的な別自己を明確に描く必要があると思うのです。言動で失敗するする人は、この別自己を常に欠落させているのではないでしょうか。麻薬に溺れる事態ということよりも麻薬に溺れている自分自身がそこに登場し、隠し切れない、どうしようもない自己がそこに表せなければ自体からの脱却は難しくなり薬物の依存が強化されるように考えます。

 よく第三者の目で自己を見つめると言いますが、第三者の目である別自己をしっかりと思考内に映し出すということです。

 このようなことを頭の片隅においていると、過去ブログで紹介した宮沢賢治の未完の物語『学者アラムハラドの見た着物』という作品を思い出します。手元にない方はサイトの「青空文庫」で簡単に読むことができます。

 

その物語は、アラムハラドという学者が教育者として11人の子供らを教えています。ある日勉強疲れの子どもたちを連れて森へ出かけ、いろいろなことを教える話です。

 アラムハラドは、子供たちに色々なことを教えます。

 「火が燃もえるときは焔(ほのお)をつくる。焔というものはよく見ていると奇体(きたい)なものだ。それはいつでも動いている。動いているがやっぱり形もきまっている。その色はずいぶんさまざまだ。普通の焚火の焔ならだいだい色をしている。けれども木によりまたその場所によっては変に赤いこともあれば大へん黄いろなこともある。硫黄を燃せばちょっと眼のくるっとするような紫色の焔をあげる。それから銅を灼(やく)ときは孔雀石のような明るい青い火をつくる。こんなに色々さまざまだがそれはみんなある同じ性質をもっている。・・・・それからまたみんなは水をよく知っている。水もやっぱり火のようにちゃんときまった性質がある。それは物をつめたくする。どんなものでも水にあってはつめたくなる。からだをあつい湯でふいても却ってあとではすずしくなる。夏に銅の壺に水を入れ壺の外側を水でぬらしたきれで固くつつんでおくならばきっとそれは冷えるのだ。なんべんもきれをとりかえるとしまいにはまるで氷のようにさえなる。このように水は物をつめたくする。また水はものをしめらすのだ。それから水はいつでも低い所へ下ろうとする。・・・このように水のつめたいこと、しめすこと下に行こうとすることは水の性質なのだ。どうしてそうかと云いうならばそれはそう云う性質のものを水と呼ぶのだから仕方しかたない。」

 こんな話を次々とし、そして、

 「それからまたみんなは小鳥を知っている。ウグイスやミソサザイ、ヒワやまたカケスなどからだが小さく大へん軽かるい。その飛ときはほんとうによく飛ぶ。枝から枝へうつるときはその羽をひらいたのさえわからないくらい早く、青ぞらを向むこうへ飛んで行くときは一つのふるえる点のようだ。それほどこれらのウグイスやヒワなどは身軽でよく飛ぶ。また一生けん命に啼なく。ウグイスならば春にはっきり鳴く。ミソサザイならばからだをうごかすたびにもうきっと鳴いているのだ。」

 そして、

 「さてこう云うふうに火はあつく、乾かし、照し騰(の)ぼる、水はつめたく、しめらせ、下る、鳥は飛び、また鳴く。魚について獣についておまえたちはもうみんなその性質を考えることができる。けれども一体どうだろう、小鳥が啼かないでいられず魚が泳およがないでいられないように人はどういうことがしないでいられないだろう。人が何としてもそうしないでいられないことは一体どういう事だろう。考えてごらん。」

と子どもたちに「人が何としてもそうしないでいられないことは一体どういう事だろう。」と質問をします。

 そして子供たちの答えを聞いて、アラムハラドは次のように言います。

 「そうだ。私がそう言おうと思っていた。すべて人は善こと、正しいことをこのむ。善と正義とのためならば命を棄る人も多い。おまえたちはいままでにそう云う人たちの話を沢山たくさん聞いてきた。決してこれを忘わすれてはいけない。人の正義を愛することは丁度鳥の歌わないではいられないと同じだ。」

と、するとセララバアドという小さな子が何かを言いたそうなので、アラムハラドは「お前は何か言いたいように見える。云いってごらん。」とこの小さな子供の言うことに耳を傾けます。するとセララバアドは、

「人は本当のいいことが何だかを考えないでいられないと思います。」

と答えます。賢治は次のようにアラムハラドのこころの内を描きます。

 「アラムハラドはちょっと眼をつぶりました。眼をつぶった暗闇の中ではそこら中ぼうっと燐の火のように青く見え、ずうっと遠くが大変青くて明るくてそこに黄金の葉をもった立派な樹がぞろっとならんで燦燦と梢こずえを鳴らしているように思ったのです。アラムハラドは眼をひらきました。」

 そしてジッとアラムハラドを見上げる子どもたちにアラムハラドは言います。

 「・・・人はまことを求もとめる。真理を求める。本当の道を求めるのだ。人が道を求めないでいられないことは丁度鳥の飛ばないでいられないと同じだ。おまえたちはよく覚えなければいけない。人は善を愛し道を求めないでいられない。それが人の性質だ。これをおまえたちは堅く覚えてあとでも決して忘わすれてはいけない。おまえたちはみなこれから人生という非常な険しい道を歩かなければならない。たとえばそれはパミールの氷や辛度(しんど)の流れや流沙(るさ)の火やでいっぱいなようなものだ。そのどこを通るときも決して今の二つを忘れてはいけない。それはおまえたちを守る。それはいつもおまえたちを教える。決して忘れてはいけない。・・・」

と。話は続くのですが、「人間の性」ということを考えるときにこの部分がとても心に響きます。

「人は本当にいいことが何だかを考えないではいられないと思います。」

というセララバアドの答え。そして、

「人は善を愛し道を求めないではいられない。それが人間の性質だ。」

というアラムハラドの子供たちへの教え。

 作家のロジャー・パルバースさんが『賢治から、あなたへ』(集英社)の中で、この話について次のように書いています。

<ロジャー・パルバース>
 つまり、善い行い、尊い行いについて考えるのは人間の「性(さが)」だ、ということです。それは、鳴くことが鳥の「性」であり、泳ぐことが魚の「性」であるのと全く同じです。善い行いについて考えることは私たちの「本質(nature)」や「人間性(human nature)なのです。
 これが「自己」の意味、すなわち「『わたし』とは何か」という問いに対して、賢治が到達した結論に違いありません。<以上上記書p96>

このような結論に到達できる賢治、

「人は善を愛し道を求めないではいられない。それが人間の性質だ。」

過去ブログにも書いたことですが、この性質を性(さが)という言葉で表現したいと思います。

 性質=性(さが)

 このように宮沢賢治は、人間の根本には「人は善を愛し道を求めないではいられない」という性(さが)があるというのです。当時の日本や世界を見渡せばそれが真実ではないは明らかでないことは確かな話ですが、それでも「それが人間の性質だ」と物語る所が賢治は意識性の高い人だったように思われます。

長々とわけの分からない話を書き綴っているのですが、

統合的私=A(善を愛し道を求めないではいられない人間)

賢治が物語る人間は、この統合的私でありそれが人間の性(さが)だと言い切ります。

 「こういう私でありたい」という希求は、賢治のメモ帳に書かれていた「雨にも負けず・・・」にも書かれている言葉です。

 別枠の別自己で、明確にイメージできるからからこそ、このような物語る子供や教師を描けるのだと思うのです。

 今回の最後になりますが、悲哀の直中(ただなか)の私、この私に相依する私があるのは明確なこと。ここに以前ブログで語った「あの日の星空」の意味なすものが現れてきます。


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