思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

人を裁くということ(5)責任能力

2009年12月19日 | つれづれ記

 大陸からの寒気団は、間違いなく雪を降らしました。休日なので慌てる必要がなく助かりました。 

ギリシャ神話を読んでいますと、神と人間の境目がまったくなく語られていることに気がつきます。まさに人は神の操るままです。
 
 深層心理学それよりも古い唯識学などで語られる心の奥底にあるものが、意識世界にある人間行動を決定しているとするならば、その人の現実の行為から発生する害に対する責任は、誰が負うのか。

 現代社会は、責任能力の有無の判断で最終的に加害者に責任を負わします。「心神喪失者の行為はこれを罰せず(責任無能力者)」「心神耗弱者の場合はその処罰刑を減ずることができる」ということで現実は精神鑑定の結果は参考にはしますが、最終的には裁判官、裁判員に委ねられる(恣意的判断に任せる)ということになっています。

 処罰されるのは人であって、人ではない人は「除外する」といっているのと同じで、実にあやふやな世界で人は処罰されることになっています。

 しかし全ては結果責任、条件説、相当因果関係説等で出導き出される間違いなくその人が原因した結果については責任を取らなければなりません。

 現在の法体系からも「条文」に該当する行為であれば身柄は当然拘束され、責任能力は関係ありません。ですから「心神喪失者」であろうとその例外ではありません。また軽い処罰規定の犯罪を除き誰でも、現い行い、行い終わったことが明らかならばその犯人の身柄を拘束することができます。

 処罰できない「責任無能力者」であろうと捕縛(状況にあれば縛り上げることも)できるのですから、同じ法体系の中にありながら論理的に矛盾しています。

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 きのう昨年(2008)3月に茨城県で発生した9人殺傷事件の「死刑」判決がありました。

 地裁判決(水戸)ですので、当然のごとく弁護団は控訴しました。「人を殺すのは蚊を殺すのもいっしょ」と言う被告人。

 結果とは目の前の事実です。犯罪の責任論には心理的責任論という考え方があります。「責任は行為に対する行為者の心理状態の確定にある」というもので、この考え方に従うと、心理状態を結果の認識(予見)とその認識の可能性(予見可能性)とに分け、前者を故意、後者を過失とするものです。

 殺す認識があれば故意であると思います。認識しない身体的な動静(行為)などがあるのだろうか。

 夢遊病的な状態、酩酊状態の行為、責任無能力者の行為・・・・

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 古代の人びとは神々とともにありました。反面人はあやふやなものであるということになります。人生も然りで、見とおしがたいもの。

 人の裁きは、神にゆだねる。

 この考え方は未だに、占いの世界で残っています。

 結果は誰が負うか、自分が負う以外にないことは明らかなのに、そうはならない(自分以外に求める)。

 仏教では無我を説きます。その意味は大きく難しい体得です。理論では解けない、働きの中で観るしかありません。

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 雪景色の今日。また、思いつきで取り留めのないことを書いてしまいました。

 人を裁くということは「働き」の中でおこなわれます。言葉を変えれば主語がない述語の中で行われます。

 主語は、本来的自己であることが望ましいのですが、その本来さえ掴めません。

 仏の世界はそこにあります。仏様の働き、照らされ写し出される私に気づき、三世の世界で、本来的な自己に近づいて行く。

 裁判員制度の今日的意味。非常に大きな課題を私たちに突きつけてくれているように思います。

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