思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

安曇野伝統の雪形・常念岳・常念坊のその後

2010年05月19日 | 古代精神史

  安曇野の田植えは、ほぼ90%は終了しているようです。今は兼業農家が多くどうしても休日を利用しての農作業ということになるので、今週末にはすべて終了となると思います。

 田植えの季節を知らせる雪形。安曇野は常念岳の常念坊という、お坊さんの左方向を向いた姿で、5月1日付きでその姿が現れたことを書きました。

 連日のさわやかな、春日より、時には真夏に近い暑い晴天の天候で、その常念坊の姿がくっきりと鮮やかに浮き出ていました。

      常念坊の雪形

 このところ毎日、常念岳を眺める機会があり、常に見える位置を調べて確認しましたところ、梓川という上高地から流れる河の東側に広がる松本平、反対に西側に広がる安曇野平、松本平からは常念坊は全く見えないことがわかりました。

 松本平は、鉢伏山の「鶴(雁という人もいますが、歴史的には鶴)」の雪形、安曇野は常念坊じつにその通りなのです。

 さらにこの常念坊が、はっきり形らしい形で確認できるのは、旧豊科町の市街地から穂高町の市街地にかけてです。

 この雪形を眺め、田植えの時期を決め、田植えを始める。昔の人々のそのような生活スタイルを思うと、時間の流れ(哲学的に無いなどという人もいますが)が今とは違うのどかな流れを感じます。

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 自然というものは時には、牙を向けるときがあります。災害がそれなのですが、記紀の時代は障り(さわり)ということで、障害という概念でとらえていました。

 雨障り(あめさわり・あまつつみ)などは雨が降りすぎることによる災害・障害で、この障害は「罪(つみ)」と呼ばれていました。

 天津罪(あまつつみ)・国津罪(くにつつみ)には、人間の行為、今でいえば不道徳な行為、そしてある種の身体的な障害は、罪という言葉で表現されていました。

 古代の人々は、この障害に対してどのような現象学的な視点をもってそのような言葉で表現していたかといいますと、自ずからあるべき姿、自然としてある姿に対する障害、あるいは、ある流れをせき止める堤(つつみ)的な、または、包(つつ)み的な壁的・隔離的な感覚をもっていたようです。

 それに対して西洋的な「罪」の視点で見ると、罰する側の主語を考えてしまいますが、古代日本精神史の中で見ると罰する主語は無く、恣意的な処罰と、処罰に値するもの、というような感覚は成立しません。

 その障害は「違和感」ではなく宿命的な、無常的な流れの中での感覚であるように思います。

 古代精神史においては、「罪」はあくまでも自然の阻害であって、主語が主語である形になると、その主語を自己の感覚で思考するようになり、自己の主体側の意識にその感覚に練りこまれてきます。

 災害、障害、災いがあるとつい、己の非を感じ、また新興宗教の勧誘につけ込まれることにもなりますが、合いますが、ある種、二元的なものの考え方が根付いていることになるといえます。

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