思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

ハーバード白熱教室では語られなかった「恥」(2)あるべき自分に恥じる

2010年10月29日 | 東洋思想

                                 (写真:これがあるから辞められません)

 白熱教室@東京大学を前にマイケル・サンデル教授が心配されていた「日本人は恥ずかしがりや」旨の言葉がありました。対話型講義が成立するかの懸念があったのです。
 
 今朝は、対話型の講義の中では語られませんでしたが、サンデル教授が日本人に事前にもっていた印象、「恥」に関して思考材料を紹介したいと思います。

 日本人の「恥」といえば、古く『菊と刀・日本文化の型』(ルース・ベネディクト著、長谷川松治訳 社会思想社)が有名な初ですが、下記の紹介文書の中にも登場するものですが、これに関しては有名になったかどうかはわかりませんが作家の小谷野敦(こやの・とん)さんが書かれた『日本文化論のインチキ』(幻冬舎新書)の中での『菊と刀』書評を当該ブログの前に掲出しましたので参考にしてください。

※ マイケル・サンデル教授は個人的に尊敬しています。したがって当方のブログは、白熱教室やサンデル教授を批判するものではありません。

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 先月(10月)23日付けの地方新聞信濃毎日文化欄に「思索ノート」という文化欄に、今回で19回になりますが「やまと言葉の倫理学」が掲載されていました。

 今回は「はずかしい」という言葉に焦点を当て副題は「あるべき自分い恥じる」です。個人的にとても分かりやすい内容でした。

<引用>

 先日、「人間・死と生をみつめる」というシンポジウムでジャーナリストの鳥越俊太郎さんらとご一緒した。
 鳥越さんは、自分は5年前にがんが見つかり、4度手術をしてきたが、むしろがんになってからの方が、いろいろなものが深くおもしろく感じられ、これまでにもまして仕事や人間関係を生き生きとやっていると話していた。
 
 そこで何より大切なのは、がんならがんという病気の現状に目を背けずにまっすぐに立ち向かう姿勢だ、と強調した。困難な事態に出合ったとき、その困難を乗りこえさせるのは、自分みずからそれを積極師に「見る」という姿勢の力だ、と。
 
 その前向きな気持ちの持ち方は、今や2人に1人の割合でがんになるとも言われる現代日本においては、多くの人を勇気づけ、元気づけるものであろう。
 鳥越さんのこうした言葉に説得力があるのは、それが、武士道や『徒然草』など、これまでの死生観の精神伝統を確実に引き継ぐものでもあったからだと思う。
 
 シンポジウムで私は、その毅然とした姿勢には、「見る」と同時に、さらに「見られる」という意識のもたらす力もあるのではないか、と発言した。山本常朝『葉隠』では、「見る」とともに、「見られる」意識こそが武士をほんとうの武士たらしめるものであり、「名」や「恥」を重んぜよ、と繰り返し説かれている、と。
 
 むろんそれは、武士だけのことではない。戦後まもなく、R・ベネディクト『菊と刀』は、日本文化は「恥の文化」だと規定した。神に対して心の内面を深く問う西洋の「罪の文化」に対して、日本人の文化は、他人や世間の目を強く意識する「恥の文化」だというものである。あとでも少しふれるように、これにはいくつか反論すべき点もあるが、日本人の生き方の基本に「野なるものがあるという指摘自体はきわめて重要なことであった。
 
 「恥づかし」とは、「恥づ」の形容詞形であり、「自分の能力、状態、行為などが、相手や世間一般に及ばないという劣等意識を持つ意」と説明される言葉である(『岩波古語辞典』)。
 しかしそれは、たんなる劣等意識ではない。むかしは「はづかし」とは、自分が気おくれするほど、相手が優れているさまを語るのにも用いられていた。
 
例えば、「御息所は心ばせのいとはづかしく」(『源氏物語』)とは、御息所の気立て・心配りがたいそう優れていて、という意味であるし、また「我が司の佐もはづかしき人ぞや」(『宇津保物語』)とは、司の佐もまた立派な人だという意味である。

 そこには、自分が劣等だと意識すると同時に、そうした優れたあり方をほめたたえ、またみずからもそうした方へと向かわせようとする倫理意識が働いている。「恥」を知ることは、すでにそこからの脱出が意識されているということである。
 
 向坂寛『恥の構造』は、日本語「恥づ」の成り立ちについて、「はづ」の「は」は、葉・歯・端など、本件から「外づれて」はみ出した端っこのことであり、「はづ」とは、はみ出す、はずれるという動詞である、と説明している。つまり、「はづ」とは、何らかの本体や本来あるべき姿から「外づれる」ことを意識するということである。
 
 ということであれば、ベネディクトが考えたように、「恥の文化」は、「罪の文化」より必ずしも浅いとは言えない。何らかの本体、本来から「外づれて」いるという「世の意識は、何らかの本体、本来に背いて犯したという「罪」の意識と簡単に分けられるものでもなければ、どちらが深い、浅いという問題ではないからである。
 
 「見られる」「恥じる」意識とは、いわゆる世間体や外目を恥じることにとどまるものではない。神や仏に「見られる」意識から、恥じるということもあるし、あるべき自分に恥じるということもあるのである。
 
 またシンポジウムでは、日本人の死生観には、以上のような、「見る」「見られる」意識において、「みずから」を毅然と律するだけではなく、生老病死など不可避の「おのずから」の働きを「かなしみ」や「あきらめ」において受容するという、もうひとつの大切な側面があるということも話題になった。それは、この連載でも繰り返し取りあげてきたものでもある。(鎌倉女子大教授、長野県須坂市出身)
 
<引用終わり>

最後の部分に、

> 「見られる」「恥じる」意識とは、いわゆる世間体や外目を恥じることにとどまるものではない。神や仏に「見られる」意識から、恥じるということもあるし、あるべき自分に恥じるということもあるのである。<

と書かれています。とても参考になる話だと思います。

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 最後にベネディクトの『菊と刀』、小谷野さんに酷評されてしまった本ですが、この本の中に、

>恥をひき起こし、名に対する「義理」が問題となるような事態を避けるために、あらゆる種類の礼法が組み立てられている。<

>殺人者でさえ、事情によっては許してやってもよい。しかしながら嘲笑だけは、全然弁解の余地がない。なぜならば、故意の不誠実なくしては、罪のない人間を嘲笑することはできないからである。・・・・・したがって嘲笑は最悪の罪である。<

>日本人のいわゆる心的特異性の多くは、きれい好きと、それと表裏一体の、けがれを忌む態度とに起因する。まったくそれ以外に説明のしようがない。実際われわれは、家の名誉や国民的誇りに加えられた侮辱を、申し開きによって完全に洗い浄めるのでなければ、もと通りすっかりきれいになり、またなおりきることのない、けがれや傷とみなすようしつけられているのである。<

という文章が少し見ただけでも随所に出てきます(同書第八章「汚名をすすぐ」p181~p187)。

今の政治の世界もさることながら、私などは納得してしまうのです。人それぞれにいろいろな考え方があります。知らないで通り過ぎればそれだけのこと。


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ハーバード白熱教室では語られなかった「恥」(1)・日本文化論のインチキ

2010年10月29日 | 東洋思想

                    (写真:冬山だけはやめようと思います)

 これまでに、私の「思考の部屋」ブログでは、

日本文化論のインチキ
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/eb3af8ae3b7c1c008e33f1f140810d88

自分を忘れることの大切さ
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/c8e39a0e9866726f6a8becc9ac264ea9

で、日本文化論に対する批判書『日本文化論のインチキ』、著者は比較文学者で作家の小谷野敦(こやの・とん)さんですが、紹介してきました。今回はご本人が、「日本文化論論争の天王山のような趣があり」とまで言及する、一つの日本文化論の批評を紹介したいと思います。
 

 紹介のきっかけは、ハーバード白熱教室で、有名なハーバード大学の政治哲学者であるマイケル・サンデル教授が、日本の授業を開催するに心配ごとに中で、「日本人は恥ずかしがりや」ということを話されていました。

 日本人スタッフの事前の話もあったとご本人も言われていましたが、サンデル教授も言われたからということもあり、また、最近鎌倉女子大の竹内整一教授が地方紙に「はずかしい」という「やまと言葉」を話題にしていましたので、「恥ずかしい」という言葉に再度興味を持ち、その時とてもインパクトのあった小谷野さんの本を思い出し、再度読んだところ、知っておきたい書評と思い、メモとして残すことにしました。

 「恥」といえばベネディクト女史の『菊と刀』ですがこれをどのように評価しているか、その他の日本文化論者の名前もたくさん出てきており、小谷野さんのお考えがよくわかる文章だと思います。

<引用p116~p118>

 文化論論争の天王山『菊と刀」を再考する
 
 さて、お前はいろんな日本文化論をあれはいい、これはいかんと決め付けているが、では『菊と刀』はどうなのか、と言われるかもしれない。何しろ『菊と刀』は、日本文化論論争の天王山のような趣があり、作田啓一の『恥の文化再考』(一九六七)とか、いろいろな人が論じている。著者ルース・ベネディクトは女性で、文化人類学者のマーガレット・ミー下とは恋愛関係にあった。つまりレズである。そして、日本へ釆たことはなく、日米戦争当時、敵国研究の目的で、文献から作り上げたのがこの本で、著者が死んだ一九四八年に長谷川松治の邦訳が出て、これが現代教養文庫で長く読まれたが、版元の社会思想社が倒産し、二〇〇五年には講談社学術文庫に入り、二〇〇八年には光文社古典新訳文庫に、角田安正の新訳が入った。
 
 表題の「菊と刀」は、天皇制と武士道を表している。内容的には雑多なものだが、いちばん有名なのは、西洋文化が罪の文化であるのに対して、日本文化は恥の文化だというものだろう。つまり西洋はキリスト教だから、神の前に罪を意識して生きているのに対し、日本では世間的な恥を気にして生きている、というのだ。
 
 そう言われればそうであるような気もするが、阿部謹也のように、日本でも西洋でも「世間」というものが大きな役割を果たしている、と述べていた人もいる。もっともそれはきちんと完成せずに終わったが。また西洋人だって、注意して見ていればずいぶん「恥」意識で動いてもいる。もしかするとそれは単や前近代的な地域社会とかに生きているか、近代的な個人主義的社会に生きているか、知識人であるか一般庶民であるか、あるいは個人差でしかないかもしれない。
 
 ただ私は『菊と刀』には、あまり興味がない。というのは、もう六十年も前のものだし、多くの人がああだこうだと論じてきたから、特にこれを権威と奉じて何かを言う人が現代ではほとんどいないからである。
 
 むしろ、『菊と刀』が論じられることがあまりに多いのが気になるくらいで、当初これが出たころには、まず鶴見和子(一九一八~二〇〇六)が批判し、ほかに批判者としては和辻哲郎(『埋もれた日本』新潮社)、津田左右吉(『文学に現はれたる我が国民思想の研究』岩波文庫)、柳田国男、竹山道雄(『主役としての近代』講談社学術文庫)といった錚々たる面々がおり、評価する者として川島武宜、米山俊直(一九三〇~二〇〇六) (ベネディクト『文化の型』を一九七三年に翻訳)、作田啓一、岸田秀がおり、さらに西義之(一九二二~二〇〇八)が『新・「菊と刀」の読み方』(PHP研究所、一九八三) で擁護し、和辻を批判している。さらにダグラス・ラミスが批判し、池田雅之との共著『日本人論の深層-比較文化の落し穴と可能性』(はる書房、一九八五)でも主として『菊と刀』が論じられている。また最近では長野晃子(一九三八~ )が『「恥の文化」という神話』 (草思社、二〇〇九)を出して、『菊と刀』は原爆投下を正当化するためのものだったと激しい批判を展開している。
 
 批判者は概して、日本文化を否定的に論じられたと感じる者が多いようだが、和辻の批判は当たっているものの、全集からはその文章は除かれ、西は、ベネディクトの方法が和辻の『風土』と同じなので外したのではないかと推測している。またラミスなどは元「べ平連」なので、米帝国主義批判の文脈で批判している。
                                        
 もっとも、『菊と刀』に欠陥があるのは当然ともいえるので、むしろ、こうした毀誉褒貶(きよほうへん)の激しさのほうが興味深い。これは畢竟、敗戦後の、戦勝国の米国人による日本文化論に対する日本人(ラミスを除く)の激しい関心の持ち方を示していると言うべきだろう。土居の『「甘え」の構造』のほうが、『菊と刀』などより遥かに欠陥が多い、というより、まるで論理的読解が不可能なのに、本格的に批判したのはデールくらいでこれは邦訳されず、李のものは前提を批判してはいるが特に継承されず、これはいずれも外国人による批判で、『菊と刀』に比べると、土居健郎は「甘やかされて」いるのではないかとすら思う。

<引用終わり>

内容の中に性的差別的な表現がありますが、とても個性あふれる書評のように思います。


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