(写真:これがあるから辞められません)
白熱教室@東京大学を前にマイケル・サンデル教授が心配されていた「日本人は恥ずかしがりや」旨の言葉がありました。対話型講義が成立するかの懸念があったのです。
今朝は、対話型の講義の中では語られませんでしたが、サンデル教授が日本人に事前にもっていた印象、「恥」に関して思考材料を紹介したいと思います。
日本人の「恥」といえば、古く『菊と刀・日本文化の型』(ルース・ベネディクト著、長谷川松治訳 社会思想社)が有名な初ですが、下記の紹介文書の中にも登場するものですが、これに関しては有名になったかどうかはわかりませんが作家の小谷野敦(こやの・とん)さんが書かれた『日本文化論のインチキ』(幻冬舎新書)の中での『菊と刀』書評を当該ブログの前に掲出しましたので参考にしてください。
※ マイケル・サンデル教授は個人的に尊敬しています。したがって当方のブログは、白熱教室やサンデル教授を批判するものではありません。
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先月(10月)23日付けの地方新聞信濃毎日文化欄に「思索ノート」という文化欄に、今回で19回になりますが「やまと言葉の倫理学」が掲載されていました。
今回は「はずかしい」という言葉に焦点を当て副題は「あるべき自分い恥じる」です。個人的にとても分かりやすい内容でした。
<引用>
先日、「人間・死と生をみつめる」というシンポジウムでジャーナリストの鳥越俊太郎さんらとご一緒した。
鳥越さんは、自分は5年前にがんが見つかり、4度手術をしてきたが、むしろがんになってからの方が、いろいろなものが深くおもしろく感じられ、これまでにもまして仕事や人間関係を生き生きとやっていると話していた。
そこで何より大切なのは、がんならがんという病気の現状に目を背けずにまっすぐに立ち向かう姿勢だ、と強調した。困難な事態に出合ったとき、その困難を乗りこえさせるのは、自分みずからそれを積極師に「見る」という姿勢の力だ、と。
その前向きな気持ちの持ち方は、今や2人に1人の割合でがんになるとも言われる現代日本においては、多くの人を勇気づけ、元気づけるものであろう。
鳥越さんのこうした言葉に説得力があるのは、それが、武士道や『徒然草』など、これまでの死生観の精神伝統を確実に引き継ぐものでもあったからだと思う。
シンポジウムで私は、その毅然とした姿勢には、「見る」と同時に、さらに「見られる」という意識のもたらす力もあるのではないか、と発言した。山本常朝『葉隠』では、「見る」とともに、「見られる」意識こそが武士をほんとうの武士たらしめるものであり、「名」や「恥」を重んぜよ、と繰り返し説かれている、と。
むろんそれは、武士だけのことではない。戦後まもなく、R・ベネディクト『菊と刀』は、日本文化は「恥の文化」だと規定した。神に対して心の内面を深く問う西洋の「罪の文化」に対して、日本人の文化は、他人や世間の目を強く意識する「恥の文化」だというものである。あとでも少しふれるように、これにはいくつか反論すべき点もあるが、日本人の生き方の基本に「野なるものがあるという指摘自体はきわめて重要なことであった。
「恥づかし」とは、「恥づ」の形容詞形であり、「自分の能力、状態、行為などが、相手や世間一般に及ばないという劣等意識を持つ意」と説明される言葉である(『岩波古語辞典』)。
しかしそれは、たんなる劣等意識ではない。むかしは「はづかし」とは、自分が気おくれするほど、相手が優れているさまを語るのにも用いられていた。
例えば、「御息所は心ばせのいとはづかしく」(『源氏物語』)とは、御息所の気立て・心配りがたいそう優れていて、という意味であるし、また「我が司の佐もはづかしき人ぞや」(『宇津保物語』)とは、司の佐もまた立派な人だという意味である。
そこには、自分が劣等だと意識すると同時に、そうした優れたあり方をほめたたえ、またみずからもそうした方へと向かわせようとする倫理意識が働いている。「恥」を知ることは、すでにそこからの脱出が意識されているということである。
向坂寛『恥の構造』は、日本語「恥づ」の成り立ちについて、「はづ」の「は」は、葉・歯・端など、本件から「外づれて」はみ出した端っこのことであり、「はづ」とは、はみ出す、はずれるという動詞である、と説明している。つまり、「はづ」とは、何らかの本体や本来あるべき姿から「外づれる」ことを意識するということである。
ということであれば、ベネディクトが考えたように、「恥の文化」は、「罪の文化」より必ずしも浅いとは言えない。何らかの本体、本来から「外づれて」いるという「世の意識は、何らかの本体、本来に背いて犯したという「罪」の意識と簡単に分けられるものでもなければ、どちらが深い、浅いという問題ではないからである。
「見られる」「恥じる」意識とは、いわゆる世間体や外目を恥じることにとどまるものではない。神や仏に「見られる」意識から、恥じるということもあるし、あるべき自分に恥じるということもあるのである。
またシンポジウムでは、日本人の死生観には、以上のような、「見る」「見られる」意識において、「みずから」を毅然と律するだけではなく、生老病死など不可避の「おのずから」の働きを「かなしみ」や「あきらめ」において受容するという、もうひとつの大切な側面があるということも話題になった。それは、この連載でも繰り返し取りあげてきたものでもある。(鎌倉女子大教授、長野県須坂市出身)
<引用終わり>
最後の部分に、
> 「見られる」「恥じる」意識とは、いわゆる世間体や外目を恥じることにとどまるものではない。神や仏に「見られる」意識から、恥じるということもあるし、あるべき自分に恥じるということもあるのである。<
と書かれています。とても参考になる話だと思います。
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最後にベネディクトの『菊と刀』、小谷野さんに酷評されてしまった本ですが、この本の中に、
>恥をひき起こし、名に対する「義理」が問題となるような事態を避けるために、あらゆる種類の礼法が組み立てられている。<
>殺人者でさえ、事情によっては許してやってもよい。しかしながら嘲笑だけは、全然弁解の余地がない。なぜならば、故意の不誠実なくしては、罪のない人間を嘲笑することはできないからである。・・・・・したがって嘲笑は最悪の罪である。<
>日本人のいわゆる心的特異性の多くは、きれい好きと、それと表裏一体の、けがれを忌む態度とに起因する。まったくそれ以外に説明のしようがない。実際われわれは、家の名誉や国民的誇りに加えられた侮辱を、申し開きによって完全に洗い浄めるのでなければ、もと通りすっかりきれいになり、またなおりきることのない、けがれや傷とみなすようしつけられているのである。<
という文章が少し見ただけでも随所に出てきます(同書第八章「汚名をすすぐ」p181~p187)。
今の政治の世界もさることながら、私などは納得してしまうのです。人それぞれにいろいろな考え方があります。知らないで通り過ぎればそれだけのこと。
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