(二階席から意見を述べるリー・パクさん)
「ハーバード白熱教室@東京大学」の「戦争責任を論議する」の講義の中で、世代に渡る戦争責任の謝罪が討論されました。
その中で学生さんではありませんが、リー・パクさんという方が次のように話されていました。サンデル教授の質問の言葉からです。
【サンデル教授】
さて最後の質問をはじめよう。コミュニティの一員であること、その絆を大切にするということは、自分の国が過去に犯した過ちに対する道徳的責任をも、引き受けなければならないのかどうかだ。
最後の質問では実際にとても難しく、道徳的に激論を招きそうな問題を君たちに出したい。道徳的責任は世代を越えて負うべきものだろうか?
<現代は前の世代の過ちの責任を負うべきか?>
【サンデル教授】
私が生まれる以前の過去に、私のコミュニティや国が犯した不公正に対する道徳的責任、特別な責任を今の私が負うべきなのだろうか。
道徳的な責任は、個人的な自分の意思、自分の選択から生じるものだと考えるのならば答えはNoだろう。
ではこの質問でみんなの考えを試してみよう。1930年代や第二次世界大戦中に日本人の前の世代が、東アジアの国々に対して犯した過ちはどうだろうか。
現在の日本人は、前の世代が犯した過ちに対して、公に謝罪する道徳的責任があるのか。
Yesの人は?
Noだという人は?(Yesより少ない)
さあ議論しよう。
謝罪は必要ないという人から始めよう。君、立って。
【リー・パク】(40歳ぐらいの男性)
過去に犯された罪の問題というものは、当然歴史として我々は認識しておかなければいけない、これは当たり前のことであります。しかし、謝り続けるのは・・・何時(いつ)まで謝り続けなければいけないのか、という時間の問題もあると思うのです。歴史の問題、今でこそ太平洋戦争の話しになっていますが、もっともっと昔の話もいっぱいあったと思うのです。
この話をいつまでも謝り続けなければいけないのか、ということになれば私は、それはどうなのかな、ということで私は、・・・・・。
【サンデル教授】
君は原則として、今の世代は前の世代の過ちに道徳上責任はないと思うのかね?
【リー・パク】
私は必要ないと思います。
【サンデル教授】
それは、なぜ。
【リー・パク】
さっきも申し上げましたように、歴史としては理解しておかなければいけない。しかしこれは、自分の祖父なり曾祖父なりの世代の人がやったと、・・・やったというとおかしいですけれど、問題でありまして、そのことを我々が引きずっていなければいけないのかという、もっと前向きに考えたいという、・・・これはちょっと情の世界が入っているかもしれませんけれども、そういうふうに思います。
<引用以上>
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パクさんは、日本語で「情(じょう)」という言葉を使いました。パクさんは、
<現代は前の世代の過ちの責任を負うべきか>
という問題提起に対しては、はっきりと謝り続ける必要はないと答え、道徳的責任はあるのかの質問に対しては、「情の世界」という言葉を使い説明しました。
分かりずらい話かもしれませんが、
情の世界だと謝り続けなければならない。
情の世界だと謝り続けなくともいいのではないか。
パクさんの「情の世界が入ってくる。」この言葉を、通訳の方は英語に翻訳し、サンデル教授は理解したのか非常に興味があるところですが、サンデル先生はあくまでも「道徳的責任」を論点としたいために、このことについては言及しませんでした。
あくまでも西洋流の道徳的な責任を論点としたかったのでしょうか?
発言者のパクさんは、多分在日の方かと思います。しっかりした日本語ですので日本で生まれ育った方のように見受けられました。
私が興味を持ったのは、直観で「情の世界だと謝り続けなくともいいのではないか。」と言っているように理解したからです。サンデル先生が西洋的な道徳的責任にこだわることに対しては全く問題にはしませんが、話が遮断されたことに残念さが残りました。
”正義(justice) ”に、共通に、善き生に、日本的な考えがどのようにかかわってくるのかその点が知りたかったのです。
パクさんの論ずるところは、「もう謝り続けるのはやめよう」は、「もういいじゃないの」という実に日本的人情論のように思えます。
つべこべ言うなよ、もう充分じゃないの、それよりも仲良くやろうよ。
人情的に許してあげてもいいのではないか。
そのように思えたのです。あくまでも「訴えてやる!」的な権利・責任の世界とは異なる「情」の世界を見た感じがしました。
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サンデル教授の講義は、”正義 ”です。それも哲学的な、ある面理屈を駆使した討議の様相を呈しています。こう言うと語弊がありますが、しかし、理屈の述べ合うということではないかと思うわけです。
よくこんな言葉を聞くことがあります。
「理(り)で解ろうとするな」
という言葉です。理屈を述べる前に、体で覚えろという時などに使われています。
注:私のブログは次々に話が飛んでいけませんが、思考の過程を追うのでご理解をお願いします。
「理で解ろうとする」という言葉、それならば「理」とはどういう意味なのか、と追及したくなります。
広辞苑で「理」を弾いてみますと、
り【理】
① 物事の筋道。ことわり。
② 中国哲学で宇宙の本体。
③ 物の表面にあらわれた細かいあや。文理。
-が非でも ぜひとも。むりにも。
-が非になる 理論上は正しいのに、口不調法などのために却って非とされる。
-に落つ 理屈っぽくなる
-に勝って非に落つ 道理の上では勝ちながら、事実において負けとなる。
-を以て非に落ちる 「に勝って非に落つ」と同意。
理屈で解ろうとするな!
理屈がの意味が「①物事の筋道。ことわり。②現実を無視した条理また、それを言い張ること。」
「理」は、「ことわり」とも読みます。そして意味は「①道理。条理。②理由わけ。③当然のこと。もっともなこと。④(副助詞について)もちろん。無論。⑤礼儀。
で重なりますがあくまでも「り」です。
「理で解ろうとするな、体で覚えなさい」と伝承芸能、技術はなどの伝統的なものはそのように師匠の無言の教えを受けます。
要は気づき、自らの気づきに期待するものですが、世の中そういかないのが普通、そんな悠長なこともしていられません。
とりあえずマニアルに沿った仕事をし、細かいノウハウは経験の中から掴むしかありません。
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ここで少々首をかしげたくなります。言葉のみから考えると「理屈で解ろうとするな!」は、「物事の道理で解ろうとするな!」です。しからば「道理」とは、
どうり【道理】
①物事のそうあるべき理義。すじみち。ことわり。
②人の行うべき正しい道。道義。
ここで新しい文字が出てきました。
りぎ 【理義】道理と正義と。
どうぎ【道義】人の行うべき正しい道。道徳のすじみち。
ここで正義と道徳が出てきます。
「理で解ろうとする」とするは、「(己の持つ)道理、正義、道徳で理解する」ということになります。
「理で解ろうとするな、体で覚えなさい」は、己の持つ道理の観、正義観、道徳観を捨てなさい、自らの経験から掴みなさい、気づきなさい。ということを言っているように思います。
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ブログ内容が「情」から「理」へきてしまいましたが、ここである言葉に気がつきます。お分かりのとおり「情理(じょうり)」という言葉です。
広辞苑には、
じょう・り【情理】①人情と道理 ②事情の筋道
とあります。お分かりの通り、かつて「義理と人情」を書きましたが、今回は「人情と道理」です。2010.9.6付「義理と人情を秤にかける前に」で古語辞典(大修館版)から
ぎり【義理】(名)
① 物事の筋道。道理。
② 道義。倫理。例:弓矢の義理、これにしかじ(武士の道義はこれに及ぶものはない)
③ 責任。義務。例:義理をかきて細かなる算用ばかりして暮らせば(責任を果たさず勘定高い計算ばかりして暮らせば)
④ 世間への体裁。体面。例:ありゃ義理でした色さ(あれは体面上仕方がなくした色事さ)
⑤ 事情。わけ。
⑥ 血縁関係のない親族関係。例:義理ある子(血縁のない子)
ということを調べました。①に
古くから義理には道理の意味がありますから「情理」とは義理人情の話と同じです。
さてここで、思考を統合する情動がふつふつと動き出してきます。
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今回にブログの書き出しは”正義 ”の講義の中の「情」で途中に「理で解ろうとする」という言葉の「理」でした。
「理で解ろうとする」を掲出したかですが、動機とはきっかけがある分けで、印象に残った語り目にしたからです。
僧侶の方ではないのですが、坐禅を専門にされている方の文章に、この言葉を見たからです。実に排他的な語りに違和感を持ったわけで、何ら非のある言葉ではありませんが、語る情感から、私も素人ではありますが、立ち戻り生きる世界の実相のすばらしさが、語りからは観(み)えてこず、頭に燻製の煙が如く染みついていたのです。人によりますが。
話がそれますので、軌道に修正します。
ハーバード白熱教室は”正義 ”justiceの世界です。上記の「理」の中に正義が出てきました。
理=正義
「正義」という言葉は、
ごきょうせいぎ 〔ゴキヤウセイギ〕 【五経正義】
五経の注釈書。180巻。孔穎達(くようだつ)・顔師古らが唐の太宗の命により編定。653年成立。魏の王弼(おうひつ)、漢の孔安国・鄭玄(じょうげん)、晋の杜預(とよ)ら、諸家の経書解釈を折衷・総合し、正統な標準解釈として、科挙の用に供した。
というくらい古い言葉で、後の宋学につながり日本では朱子学を中心に維新へと向かいますが、話がそれますので言及しませんが、当然やまと言葉ではありませんが古語です。
日本人ならば、人情話がないとどうも落ち着きません。日本のコミュニティニズムはこの人情がないとストンと落ちません。
サンデル教授にこの「ストン」が伝わらなかったように思います。翻訳者はどう訳したのか、パクさんの言葉は非常に日本的な「情の世界」の言葉でした。
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上記の「「義理と人情を秤にかける前に」からの引用です。
<引用そのまま>
「人情」はどうでしょう。「人間らしい~」ということは、万人が認めるところの共通善であるとともに理想をも含みます。「そうありたい」という願いでもあり、人情話が成立する理由は、そこにあります。
最後に、この義理と人情を英語で表現するとどうなるか調べてみました。研究社の大型の和英辞典では次のように訳されています。
giri 義理 n :[正道]justice[義務(心)](a sense of)
duty
ninjo 人情 n :[人間的感情] human feelings
などと説明されています。
ハーバード白熱教室の「justice」が出てきました。「正義の話をしよう」でコミュニタリアンのサンデル教授の語る「正義」、ここでは正道となっていますが、日本人が義理を説明するときには、「justice」か「duty」を使うことになるということです。
※ アルク出版社の『日本語を語る』という辞典では、「義理と人情」=「love and duty」となっていました。
以上です。
「love and duty」の世界、「ハーバード白熱教室@東京大学」で「情」が語られることはなかったのですが、日本の共通善の背景にはこの共有がどうしても避けて通れないように思います。
ハーバード白熱教室の会話起こしに熱意を燃やすのは、このようなところにあるのです。細かく意見者の心を知る、耳と指(身体)・・・・実に思考の世界(頭)は・・・・自己満足の世界です。
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