思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

「ハーバード白熱教室@東京大学」語られなかった「情」・正義と理

2010年10月11日 | ハーバード白熱教室

               (二階席から意見を述べるリー・パクさん) 

 「ハーバード白熱教室@東京大学」の「戦争責任を論議する」の講義の中で、世代に渡る戦争責任の謝罪が討論されました。

 その中で学生さんではありませんが、リー・パクさんという方が次のように話されていました。サンデル教授の質問の言葉からです。


【サンデル教授】
 さて最後の質問をはじめよう。コミュニティの一員であること、その絆を大切にするということは、自分の国が過去に犯した過ちに対する道徳的責任をも、引き受けなければならないのかどうかだ。

 最後の質問では実際にとても難しく、道徳的に激論を招きそうな問題を君たちに出したい。道徳的責任は世代を越えて負うべきものだろうか?

<現代は前の世代の過ちの責任を負うべきか?>

【サンデル教授】
 私が生まれる以前の過去に、私のコミュニティや国が犯した不公正に対する道徳的責任、特別な責任を今の私が負うべきなのだろうか。
 
 道徳的な責任は、個人的な自分の意思、自分の選択から生じるものだと考えるのならば答えはNoだろう。

 ではこの質問でみんなの考えを試してみよう。1930年代や第二次世界大戦中に日本人の前の世代が、東アジアの国々に対して犯した過ちはどうだろうか。

 現在の日本人は、前の世代が犯した過ちに対して、公に謝罪する道徳的責任があるのか。

 Yesの人は? 

 Noだという人は?(Yesより少ない)

 さあ議論しよう。

 謝罪は必要ないという人から始めよう。君、立って。

【リー・パク】(40歳ぐらいの男性)
 過去に犯された罪の問題というものは、当然歴史として我々は認識しておかなければいけない、これは当たり前のことであります。しかし、謝り続けるのは・・・何時(いつ)まで謝り続けなければいけないのか、という時間の問題もあると思うのです。歴史の問題、今でこそ太平洋戦争の話しになっていますが、もっともっと昔の話もいっぱいあったと思うのです。

 この話をいつまでも謝り続けなければいけないのか、ということになれば私は、それはどうなのかな、ということで私は、・・・・・。

【サンデル教授】
 君は原則として、今の世代は前の世代の過ちに道徳上責任はないと思うのかね?

【リー・パク】
 私は必要ないと思います。

【サンデル教授】
 それは、なぜ。

【リー・パク】
 さっきも申し上げましたように、歴史としては理解しておかなければいけない。しかしこれは、自分の祖父なり曾祖父なりの世代の人がやったと、・・・やったというとおかしいですけれど、問題でありまして、そのことを我々が引きずっていなければいけないのかという、もっと前向きに考えたいという、・・・これはちょっと情の世界が入っているかもしれませんけれども、そういうふうに思います。

<引用以上>

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 パクさんは、日本語で「情(じょう)」という言葉を使いました。パクさんは、

      <現代は前の世代の過ちの責任を負うべきか>

という問題提起に対しては、はっきりと謝り続ける必要はないと答え、道徳的責任はあるのかの質問に対しては、「情の世界」という言葉を使い説明しました。

 分かりずらい話かもしれませんが、

 情の世界だと謝り続けなければならない。

 情の世界だと謝り続けなくともいいのではないか。

 パクさんの「情の世界が入ってくる。」この言葉を、通訳の方は英語に翻訳し、サンデル教授は理解したのか非常に興味があるところですが、サンデル先生はあくまでも「道徳的責任」を論点としたいために、このことについては言及しませんでした。

 あくまでも西洋流の道徳的な責任を論点としたかったのでしょうか?

 発言者のパクさんは、多分在日の方かと思います。しっかりした日本語ですので日本で生まれ育った方のように見受けられました。

 私が興味を持ったのは、直観で「情の世界だと謝り続けなくともいいのではないか。」と言っているように理解したからです。サンデル先生が西洋的な道徳的責任にこだわることに対しては全く問題にはしませんが、話が遮断されたことに残念さが残りました。

 ”正義(justice) ”に、共通に、善き生に、日本的な考えがどのようにかかわってくるのかその点が知りたかったのです。

 パクさんの論ずるところは、「もう謝り続けるのはやめよう」は、「もういいじゃないの」という実に日本的人情論のように思えます。

 つべこべ言うなよ、もう充分じゃないの、それよりも仲良くやろうよ。

 人情的に許してあげてもいいのではないか。

そのように思えたのです。あくまでも「訴えてやる!」的な権利・責任の世界とは異なる「情」の世界を見た感じがしました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 サンデル教授の講義は、”正義 ”です。それも哲学的な、ある面理屈を駆使した討議の様相を呈しています。こう言うと語弊がありますが、しかし、理屈の述べ合うということではないかと思うわけです。
 
 よくこんな言葉を聞くことがあります。

「理(り)で解ろうとするな」
 
という言葉です。理屈を述べる前に、体で覚えろという時などに使われています。
 
注:私のブログは次々に話が飛んでいけませんが、思考の過程を追うのでご理解をお願いします。

 「理で解ろうとする」という言葉、それならば「理」とはどういう意味なのか、と追及したくなります。

広辞苑で「理」を弾いてみますと、

り【理】
① 物事の筋道。ことわり。
② 中国哲学で宇宙の本体。
③ 物の表面にあらわれた細かいあや。文理。
-が非でも ぜひとも。むりにも。
-が非になる 理論上は正しいのに、口不調法などのために却って非とされる。
-に落つ 理屈っぽくなる
-に勝って非に落つ 道理の上では勝ちながら、事実において負けとなる。
-を以て非に落ちる 「に勝って非に落つ」と同意。

理屈で解ろうとするな!
理屈がの意味が「①物事の筋道。ことわり。②現実を無視した条理また、それを言い張ること。」

 「理」は、「ことわり」とも読みます。そして意味は「①道理。条理。②理由わけ。③当然のこと。もっともなこと。④(副助詞について)もちろん。無論。⑤礼儀。

で重なりますがあくまでも「り」です。

 「理で解ろうとするな、体で覚えなさい」と伝承芸能、技術はなどの伝統的なものはそのように師匠の無言の教えを受けます。

 要は気づき、自らの気づきに期待するものですが、世の中そういかないのが普通、そんな悠長なこともしていられません。

 とりあえずマニアルに沿った仕事をし、細かいノウハウは経験の中から掴むしかありません。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ここで少々首をかしげたくなります。言葉のみから考えると「理屈で解ろうとするな!」は、「物事の道理で解ろうとするな!」です。しからば「道理」とは、

どうり【道理】
①物事のそうあるべき理義。すじみち。ことわり。
②人の行うべき正しい道。道義。

ここで新しい文字が出てきました。

りぎ 【理義】道理と正義と。
どうぎ【道義】人の行うべき正しい道。道徳のすじみち。

ここで正義と道徳が出てきます。

 「理で解ろうとする」とするは、「(己の持つ)道理、正義、道徳で理解する」ということになります。

 「理で解ろうとするな、体で覚えなさい」は、己の持つ道理の観、正義観、道徳観を捨てなさい、自らの経験から掴みなさい、気づきなさい。ということを言っているように思います。

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 ブログ内容が「情」から「理」へきてしまいましたが、ここである言葉に気がつきます。お分かりのとおり「情理(じょうり)」という言葉です。

 広辞苑には、

じょう・り【情理】①人情と道理 ②事情の筋道

とあります。お分かりの通り、かつて「義理と人情」を書きましたが、今回は「人情と道理」です。2010.9.6付義理と人情を秤にかける前に」で古語辞典(大修館版)から

ぎり【義理】(名)
① 物事の筋道。道理。
② 道義。倫理。例:弓矢の義理、これにしかじ(武士の道義はこれに及ぶものはない)
③ 責任。義務。例:義理をかきて細かなる算用ばかりして暮らせば(責任を果たさず勘定高い計算ばかりして暮らせば)
④ 世間への体裁。体面。例:ありゃ義理でした色さ(あれは体面上仕方がなくした色事さ)
⑤ 事情。わけ。
⑥ 血縁関係のない親族関係。例:義理ある子(血縁のない子)

ということを調べました。①に

 古くから義理には道理の意味がありますから「情理」とは義理人情の話と同じです。

さてここで、思考を統合する情動がふつふつと動き出してきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 今回にブログの書き出しは”正義 ”の講義の中の「情」で途中に「理で解ろうとする」という言葉の「理」でした。

 「理で解ろうとする」を掲出したかですが、動機とはきっかけがある分けで、印象に残った語り目にしたからです。

 僧侶の方ではないのですが、坐禅を専門にされている方の文章に、この言葉を見たからです。実に排他的な語りに違和感を持ったわけで、何ら非のある言葉ではありませんが、語る情感から、私も素人ではありますが、立ち戻り生きる世界の実相のすばらしさが、語りからは観(み)えてこず、頭に燻製の煙が如く染みついていたのです。人によりますが。

 話がそれますので、軌道に修正します。

 ハーバード白熱教室は”正義 ”justiceの世界です。上記の「理」の中に正義が出てきました。

  理=正義

 「正義」という言葉は、

 ごきょうせいぎ 〔ゴキヤウセイギ〕 【五経正義】
  五経の注釈書。180巻。孔穎達(くようだつ)・顔師古らが唐の太宗の命により編定。653年成立。魏の王弼(おうひつ)、漢の孔安国・鄭玄(じょうげん)、晋の杜預(とよ)ら、諸家の経書解釈を折衷・総合し、正統な標準解釈として、科挙の用に供した。

というくらい古い言葉で、後の宋学につながり日本では朱子学を中心に維新へと向かいますが、話がそれますので言及しませんが、当然やまと言葉ではありませんが古語です。

 日本人ならば、人情話がないとどうも落ち着きません。日本のコミュニティニズムはこの人情がないとストンと落ちません。

 サンデル教授にこの「ストン」が伝わらなかったように思います。翻訳者はどう訳したのか、パクさんの言葉は非常に日本的な「情の世界」の言葉でした。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 上記の「「義理と人情を秤にかける前に」からの引用です。

<引用そのまま>
 「人情」はどうでしょう。「人間らしい~」ということは、万人が認めるところの共通善であるとともに理想をも含みます。「そうありたい」という願いでもあり、人情話が成立する理由は、そこにあります。

 最後に、この義理と人情を英語で表現するとどうなるか調べてみました。研究社の大型の和英辞典では次のように訳されています。

giri 義理 n :[正道]justice[義務(心)](a sense of)
duty

ninjo 人情 n :[人間的感情] human feelings

などと説明されています。

 ハーバード白熱教室の「justice」が出てきました。「正義の話をしよう」でコミュニタリアンのサンデル教授の語る「正義」、ここでは正道となっていますが、日本人が義理を説明するときには、「justice」か「duty」を使うことになるということです。

 ※ アルク出版社の『日本語を語る』という辞典では、「義理と人情」=「love and duty」となっていました。

以上です。

「love and duty」の世界、「ハーバード白熱教室@東京大学」で「情」が語られることはなかったのですが、日本の共通善の背景にはこの共有がどうしても避けて通れないように思います。

 ハーバード白熱教室の会話起こしに熱意を燃やすのは、このようなところにあるのです。細かく意見者の心を知る、耳と指(身体)・・・・実に思考の世界(頭)は・・・・自己満足の世界です。

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リルケの「秋」・fallen(落ちる)

2010年10月11日 | ことば

 フェリス女学院の小塩節(おしお・たかし)理事長の「~心に残る珠玉の名言~」と言うラジオ番組、と言ってもドイツ語の番組ですが、その中で語られる、ドイツ人の名言を紹介するときがあります。

 私はどちらかと言うと信州ゆかりの人に惹かれる方で、小塩先生が「中学の4年から旧制松本高校へ進み,一年後に東京大学文学部独文科に入学しました。」という話を聞き、一段と親しみを感じています。

 1931生まれの79歳ということですが、本場仕込みのドイツ語が今も語調の中に生き生きと感じられ引き込まれてしまいます。

 番組の最後の方で、登場人物に成り代わって、雰囲気を出して朗読されるのですが、それがとてもいいのです。

 今朝は、その珠玉の名言からあの詩人リルケの言葉を紹介し小塩先生の思いを記したいと思います。

ドイツ語で「秋」は「Herbst(ヘルプスト)」でリルケの「秋」と言う詩からです。

                


木の葉が散る,遠くからのように散り落ちる
空で遥かな庭園がすがれてでもいくかのように
否む身振りで 木の葉が落ちる


そして夜には 重い地球の大地が落ちる
すべての星から離れて 孤独の中へ

わたしたち みなが落ちる この手が落ちる
そして他の人びとを見よ 万物に落下がある


そのとおりだが「一人(ひとり)の方(かた)」がいらして
この落下を限りなくやさしく 両の手に受けとめる

                     (小塩節訳)
                     
小塩先生はこの一行目を名言と紹介しています。

               
                    木の葉が散る,遠くからのように散り落ちる

この言葉について、

【小塩節】
 パリの街路樹でマロニエより多いプラタナス(すずかけ)の、人の手のような形をした葉が枯れて、風にのり、まるで遠い天空のどこか遠くからのように落ちてくる、散ってくる、その姿からうたい始めた一行です。

と説明されています。

 Rainer Maria Rilke[ライナー・マリーア・リルケ](1875-1926)は、ドイツの詩人でこの詩は、かれが27歳のときにパリに行き、ひと月めに作った秋の詩のひとつで、先生は”「木の葉が落ちる=木の葉が散る」というなんでもない平凡な書き出しですが、忘れ難い名詩の一行です。 ”と語ります。なぜか、それはこの一行の「fallen(ふァれン)・落ちる」という言葉にあります。

【小塩節】
 「fallen(落ちる)、これがこの詩のキーワードです。木の葉は風にのり、「いやだ」と否(いな)む身振り・手振りで散る。

 枯死へと落ちる。その身振りは「ノー」と言う手の振り方に似ていて、ここから「手」 die hand がテーマを支える大事な道具立てになります。

 最後にギリシャ哲学でいう「一者(いっしゃ)、一人の方」が両の手で万物の落下をしかと受けとめる、と、「おまかせした安心感」がうたわれる。

 これはいわば宇宙「全」であり、日本の禅でいう「無」に通ずる境地かもしれません。

 先生はこのように語っています。リルケを詠まれる方は多いかと思いますが「仏陀」と言う詩もあり、当然天使の詩もあります。実に面白い詩人です。この詩からは華厳経の世界を見ているようで、先生は「無」としますが分かるような気がします。

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ハイバード白熱教室@東京大学(後編)Lecture2「戦争責任を論議する」(1時間版)2-2

2010年10月11日 | ハーバード白熱教室

「ハーバード白熱教室@東京大学 日本で正義の話をしよう」・Lecture2-2

<オバマ大統領は、原爆投下を謝罪すべきか?>

 アメリカ人の現世代は、広島・長崎の原爆の投下に対して責任を負うべきだと思うだろうか、みんなはどう思うだろうか?

 現世代のアメリカ人は、原爆投下に何らかの道徳的な責任があると考える人は?

               

 そう思わない人?(挙手者数は同程度と見える)

               

 もっと具体的な質問をしてみよう。オバマ大統領が原爆投下について、日本の人々に対し謝罪を明らかにするべきだと思う人は?(挙手による確認)

                         

 謝罪すべきではないと思う人は?(すべき挙手者よりも少ない)
 
                              

 面白い分かれ方だ。では謝罪すべきではないという人から意見を聞こう。

【B・男性】
 謝罪をするのであれば、加害者の世代と被害者の世代同士でやるべきだと思います。それを次々に引き継いでしまうと加害者でない子孫が被害者の子孫に謝罪するという形になってしまいます。それは非常に形として可笑しいと思います。

【サンデル教授】
 加害者とはだれを指しているのかな?

【男性】
 今の問題では1940年代、1950年代の人たちがダイレクトな加害者であって、オバマは直接的な加害者にはならないと思います。(若干の拍手)

【サンデル教授】
 いいだろう。黒いシャツの君。

【トモマサ】
 この問題で一番問題になっているのは、生まれるところは選ぶことができない。選ぶことができないのに謝罪を強制させられているところにやはり問題があると考えています。
 
 自分のやったことに対して責任を持つのは当然ですが、例えば自分が関われないところの問題に、自分が責任を持つのは、やはり何か納得のいかないところがあります。

【サンデル教授】
 君は、我々は何時・何処に生まれてくるのかを選ぶことはできないというのだね。我々の道徳的責任の全ては、自分が自らの意思で選択したことから生じる、と思うのだろうか?

【トモマサ】
 その通りです。やはり全て自分で自分を持っているという前提のもとに行動した結果については責任を持つのは当然だと考えますが、そうではない場合に責任をとれと言われても納得される方はそんなに多くはないと思います。

【サンデル教授】
 大きな問題が提示された。これまで追い求めてきた哲学的な問題だ。全ての道徳的責任とは、我々の選択や意思から生じる義務なんだろうか?

 それとも他のところからも道徳的義務が生じるこもあるのではないだろうかこれが問題の本質ではないだろうか?

 ケンジ・マコトどう思う? 君たちはトモマサの考えを否定するかな?

【ケンジ】
 ハイ、否定します。彼に質問があります。

【サンデル教授】
 なぜ。

【ケンジ】
 もし親が隣人を殺しても責任を感じませんか? 自分は関係ない、殺していないって言いますか? でもあなたの親ですよ!

 国や歴史でも同じだと思います。それが私の意見です。

【サンデル教授】
 それはいい反証だ。どう思う?

【トモマサ】
 確かに責任は感じますが、例えばそのことで親の犯罪で子どもが罰せられることはあってはならないことだと思います。確かに相手が親が起こしたことで、借金で苦しんでいるということがあれば、確かにそれは解決すべきですが、だからと言って自分の責任に転嫁するのは正しくないと私は思います。(少数だが会場拍手)

【サンデル教授】
 ケンジ!

【ケンジ】
 処罰を受けろというのではなく、謝罪をするべきだと言っているのです。罰金でもなく、謝罪です。謝罪はタダです。

【サンデル教授】
 君は少し、日和ったのではないか?(笑い)

               

【ケンジ】
 罰を受けるのではなく、家族に代わって謝罪が必要だと言っているんです。

【サンデル教授】
 もし祖父母だったら?

【ケンジ】
 祖父母でも同じです。

【サンデル教授】
 もし君の両親が原因で近所の家を全焼させてしまったらどうなる。君の理論では君には責任があるんだろう? 
 
 君の考えでは、刑務所に入れられることこそないが、その家の再建費用を支払う責任があると思うが?

【ケンジ】
 ハイ、責任があると思います。

【サンデル教授】
 では謝罪以上ということになる。賠償までいくわけだ。君自身がその家を焼き払ってはいない、その家を焼き払った両親のもとに生まれてくることも選んでいない、でも君はその家の再建費用を支払う義務があると考えるわけだ。
 
 自分の選択からでも君の自由意志からでもなければ、この義務はどこから来るんだろう?

【ケンジ】
 それは親によります。ぼくにお金をかけ大切に育ててくれたなら責任があります。
 でも、気にかけず大切に育ててくれなければ・・・・
 
【サンデル教授】
 ちょっと待って、もしケチで悪い親だったら近所の人の家を全焼させて君は弁償する必要はないのかい?

【ケンジ】
 それが僕の個人的な見解です。両親に義務を感じるのは、僕を気にかけてくれるからで
・・・彼らのおかげで成長したからです。

【サンデル教授】
 彼らの過ちの後始末をすることで、借りを返すんだね?

【ケンジ】
 はい、そうです。

【サンデル教授】(別の意見者を指名)
 君、道徳的義務は個人的なものか、それとも集合的なものか、どう思う?

【ケイ】
 たまたまですが、広島の出身です。僕は世代を越えても責任はあると思っています。戦争というものは国というコミュニティとミニ(※聞き取れませんでした誤りかも知れません))コミュニティの戦いで、さらに小さなコミュニティを考えた時に、ある会社で不祥事が起きた時に担当者が変わったからと言いてそれが変わるかということだと思うのですよね。

 僕らは関わった人は死んで行ってもコミュニティは続いていく、だからコミュニティが続く限り、もしくは相手が納得するまでそれを責任もって、それについては責任を持たなくてはいけない。

【サンデル教授】
 アメリカと広島のケースでもかい?

               

【ケイ】
 はい。

【サンデル教授】
 オバマ大統領にとっての最善で、最適な表現は何だと思う?
 彼が生まれる前にアメリカが原爆を投下した道徳的責任や、道徳的重荷について表現するとしたら、・・・その時彼は生まれていなかった。私も生まれていなかった。
 
【ケイ】
 私もです。

【サンデル教授】
 オバマ大統領は原爆投下に対して謝罪するべきなのだろうか?
 あるいは、現世代のアメリカ人は核兵器のない世界の実現に果たすべき特別な責任、特別な道徳的重荷があるとオバマは考えるべきなのか?

 それともその両方なのか?

 この歴史的な道徳的責任をどう表現すればいいだろうか?

【ケイ】
 少し難しいので小分けして考えると、謝罪は当然すべきだと思います、彼が核の脅威をなくそうというものであればコミュニティが続いている限り、核の脅威を最初に示した国がそれをちゃんと説明しないと核の脅威というそのものに対する説得力が無くなるので、これについてはまず自分らの国がしなければいけない、ただ一方で歴史が流れているからこそ有利な点もあって、彼らはもう直接的なこれの加害者ではなくて、その点を使って過去の過ちは過ちだと認めて、だからこそ新しい世界を作る義務があるんだ、と彼らにはそう言う権利がある。

 だからそのような形で考えでいけばオバマは、核をなくすための素晴らしいリーダーとなりうると思います。(会場から拍手)

【サンデル教授】
 では・・・最初の部分の謝罪を考えてみよう。広島・長崎の人々への謝罪だ。

 原爆投下につながる状況を考えれば、原爆投下に対するオバマ大統領による謝罪は、日本とアメリカ相互の謝罪であるべきだと思うかな?

 つまり・・・現世代の日本のリーダによる戦争事体に対する謝罪も含めた、相互のものであるべきだろうか?

【ケイ】
 そう思います。ただそれを実現するための相互の話し合いというものが全くないと思います。

 戦争の勝った、負けたというところで一方的な裁きがあって、負けた国にはなにも発言権もない。

 では本当にあれが必要だったのかという公式な説明もなければ、日本があれをしなければならなかったというのが、ちゃんとしたトップ同士で話される場が無かった。

 僕はそれをやるためにお互いのトップ同士がキチンと話し合ってお互いに謝るべきところは謝るべきだと思います。でないと何時までもたっても、いつまで謝り続けるんだというあちらの人の意見もありますが、・・それはおっしゃる通りで、このような話は、昔ローマ人が攻めて来たではないかという話をするのではなく、お互いに未来志向になるためにどこかに区切りを作るために、もっとお互いにお互いを知る必要があると思っています。(会場多くの拍手)

【サンデル教授】
 よろしい。すばらしい議論だった。ここまで話し合ってきた過去の過ちに対する公の謝罪と賠償に関する問題というのは、今日の政治で最も道徳的に争われ、困難で議論されてきたものだ。

 これ以上に繊細で、激しやすく感情的で、道徳的に衝突する問題は他にはないだろう。

 私が素晴らしいと感じたのは、みんなが異なる見解を示し、みんなが心に深く根差した信念によって異議を唱えながらも尚、お互いの意見に耳を傾けあったということだ。

 そして問題の根底にある、道徳原理を探ろうとして議論してきたことだ!

 我々は問題を解決することはなかった。しかしディベートや道徳的議論、公共の討議は大抵の場合、全員の合意を得るものではないだろう。

 世界を見渡せば我々は、異なる価値観が存在し、相反する道徳や宗教的信念に満ちたグローバル社会に生きている。

 今日の議論で我々は、前進し自信を得たと思う。意見の言い易い遠い話題から、とても深く、本当に我々の心に触れ、心を動かし、意見の相違を際立たせる問題へと移る内に自信と美徳と力を得たように思う。

 我々にできたのなら、つまり公共的生活の中で直面する最も難しい道徳的問題についての真剣なディベートを・・・この場でできたのなら、おそらくできるのはこの空間に集まった1000人だけではない!

 このような考え方、議論の仕方、論法、お互いに意見を聞き会うくやり方は、意見が一致しない場合であってもお互いに学びあうことがある。

 多分これが、我々の社会の中で公共的生活を実現できるやり方なのだと思う。それは安田講堂の外でも同じだ。これこそが私の願いだ。

 我々はここで哲学的な議論を交してきた。私の結論はこうだ。冒頭で君たちに話した、日本の友人は、「日本人は、真剣な対話に積極的に参加することはないだろう」と言った。しかし私が正しく、彼が間違っていた。(会場笑い)

 現世代の君たちが皆、道徳と政治哲学の最も大きな問題に深く関心を持っている。そして市民として毎日直面する困難な問題に、それを当てはめることができる。

そのことが分かって、とても刺激的で励みになった。

 政治において意見が合わない時、道徳や共通善、正義が直面する大きな課題について決して同意することがないのにどうしてわざわざ考え続けるのか、と言われることがある。

 ある意味それは正しい。哲学は不可能に見える。

 なぜなら偉大な哲学者が何世紀にも渡り執筆してきたのに合意に達していないし、結局彼らにも結論が出せなかった。

 ではどうして我々がそれ以上にできると自信を持てるのか。

 私の答えは、哲学はある意味不可能だが、決して避けられないということだ。

 我々は毎日その問いに対する答えを生きている、哲学者の問だ。

 何よりも感動的で刺激的だったのは、ここにいる君たちと二つの講義で行った議論が、哲学は世界を変えることができると示してくれたことだ。

 君たちは意見を戦わせ、”正義 ”について共に考える力を見せてくれた。

          

 どうもありがとう。・・・・・

               

          

<講義終了>

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
<発言者>

【ケイ】
 やはり授業のやり方が、物凄く上手(うま)い。わざと反対のことを言いて、議論を引き出すといった、オーケストラの指揮者みたいに解ってやっているのだろうなあーということを、実際ライブで受けてみるとやはり存在感らしい、でもそれが威圧的ならないような、チャーミング、人間的に素晴らしい先生だと思いました。

               

【ケンジ】
 僕の意見に納得しないという人が、多分大多数の人かなという実感を受けまして、まだまだもう少し、意見をまとめて発表できる能力をつけていかなければなあ、と思っているところです。

               

【市会議員】
 すごく感動させていただきました。興奮の連続で頭を使って熱が出ているような感じ・・あとは議論の大事さを我々の議会に生かせなければいけないなと思いました。

 手を挙げていたのですが、どうも力が弱かったみたいで、・・・・したかったんですがね。

【高校教員・女性】
 生徒の意見を引き出して、自分の持っていきたい方向に持って行く。一方向ではない相互の関係性の中で深めていくという・・業(わざ)というか、迫力というか、それともパワーというか・・・少しでも取り入れたいと思います。


<最後に>

【サンデル教授】
 ハーバードの”Justice ”の講義では、高名な哲学者の思想を教えていますが、その方法として哲学者の思想を現代の問題と結びつけるように心がけています。

 つまり学生や一般市民が、普段もっている意見や確固たる信念を刺激し、道徳的で政治的な論争に結び付けるのです。

               

 対話型の授業をする理由は、学生たちをそれぞれの学びや教育に巻き込むためです。

 最高の教育とは、自分自身で考えることだという、強いメッセージを送りたいのです。

 どうやって質問し、反論し、議論を挑むか、その方法を学ぶことなんです。

 反論し、議論する相手は、自分の教授であり偉大な哲学者でもあり得るのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 実際の講義は3時間に及ぶものであり、今夜(10月10日)のLecture2「戦争責任を議論する」は1時間版です。

 ETV特集「ハイバード白熱教室@東京大学」では放送されなかった意見、サンデル教授の講義あり、ETV特集に厚みが付いたものになりました。

 英語発言者は編集段階で要訳され日本語表記されるので分かり易いのですが、日本語発言者は言いたいことがなかなか表現できないようで、反復、矛盾して聞こえるような場合がありました。私的に理解し起こしてありますので承知して下さい。

 何度も聞いて思うのですが、サンデル教授の最後の語りは人を感動させるものです。

 私のブログは、番組の要約ではありません。自分が深く理解したいために語感にある思考のあり方を見るためのものです。相手はどのように考え、自分はその時どのような視点でその意見を聞いているのか。

 会話を文章に起こすことは、若い時から会議録で慣れています。しかしこの歳になると耳がやや弱り、聞き取れない言葉もありました。今回は前回と重なる部分も十分に訂正・追加の努力をしました。人様の参考になればと思います。

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ハイバード白熱教室@東京大学(後編)Lecture2「戦争責任を論議する」(1時間版)2-1-2

2010年10月11日 | ハーバード白熱教室

<現代は前の世代の過ちの責任を負うべきか?>

【サンデル教授】
 私が生まれる以前の過去に、私のコミュニティや国が犯した不公正に対する道徳的責任、特別な責任を今の私が負うべきなのだろうか。
 
 道徳的な責任は、個人的な自分の意思、自分の選択から生じるものだと考えるのならば答えはNoだろう。

 ではこの質問でみんなの考えを試してみよう。1930年代や第二次世界大戦中に日本人の前の世代が、東アジアの国々に対して犯した過ちはどうだろうか。

 現在の日本人は、前の世代が犯した過ちに対して、公に謝罪する道徳的責任があるのか。

 Yesの人は? 

 Noだという人は?(Yesより少ない)

 さあ議論しよう。

 謝罪は必要ないという人から始めよう。君、立って。

【リー・パク】(40歳ぐらいの男性)
 過去に犯された罪の問題というものは、当然歴史として我々は認識しておかなければいけない、これは当たり前のことであります。しかし、謝り続けるのは・・・何時(いつ)まで謝り続けなければいけないのか、という時間の問題もあると思うのです。歴史の問題、今でこそ太平洋戦争の話しになっていますが、もっともっと昔の話もいっぱいあったと思うのです。

 この話をいつまでも謝り続けなければいけないのか、ということになれば私は、それはどうなのかな、ということで私は、・・・・・。

【サンデル教授】
 君は原則として、今の世代は前の世代の過ちに道徳上責任はないと思うのかね?

【リー・パク】
 私は必要ないと思います。

【サンデル教授】
 それは、なぜ。

【リー・パク】
 さっきも申し上げましたように、歴史としては理解しておかなければいけない。しかしこれは、自分の祖父なり曾祖父なりの世代の人がやったと、・・・やったというとおかしいですけれど、問題でありまして、そのことを我々が引きずっていなければいけないのかという、もっと前向きに考えたいという、・・・これはちょっと情の世界が入っているかもしれませんけれども、そういうふうに思います。

【サンデル教授】
 反対意見の人は? 君。

【B・女性】
 私の祖父は戦争に参加して・・・私の命までつながってきたわけですよね。そうすると祖父が参加したことが自分の世代までつながっているということですから、それは確実に責任があると思います。

 いつまで謝らなければいけないのかということは、相手が痛みを忘れるまでだと思います。私がもし殴られたら、その殴られたことを忘れるまでは謝るべきではないか、と考えます。

 いくら世代を経ていても相手が忘れない限り、過去に犯した過ちは残ると思いますので、私は世代が変わっても責任は残り続けるのではないかと考えます。(会場拍手)

【サンデル教授】
 ありがとう。君。

【A・男性】
 なぜ前の世代がしたことが引き継がれるのかというのは、前の世代が行ったことが土台になって我々の世代があるのであって、日本と東アジアの関係であれば、日本の1930年代に行なったこと、行った人が次の新しい世代を作り、また新しい世代を作り、私たちの世代につながって来た。それに対して東アジアの人たちから見れば1930年代にひどい状況があり、そして次の世代、次の世代とつながり現代の世代につながって来たということを考えると、前の世代がやったことについて我々は責任を負うべきだと思います。

               

【サンデル教授】
 はい、君。

【エミコ】
 今の話の反対意見になりますが、私は過去の過ちに関しては行った世代が責任を取るべきだと思います。ただ行っていない世代に関してはそれに対しての責任を取るべきではないと思います。
 取るべきではない、取るべきではないというのはおかしいのですが・・・・あと過ちに関して、間に入った世代は、伝えて行く義務があると思います。ですので、次の世代というのは、道徳に対する責任は負わなくていいと思いますが、伝える義務ということは負っていると思います。

【サンデル教授】
 歴史は知られるべきであり、受けつがなければならないが、現在の世代はその過ちに謝罪したり、償ったりする道徳的責任はない。その理由は、今の世代がやったのではないからということだね。

 エミコに意見がある人は? 歴史や知識、事実を共有することをさらに越えて、現代の世代が祖父母の世代の過ちを謝罪し、賠償までする責任はあるのだろうか。

【C・女子】
 謝罪や賠償する責任はあると思います。一番端的な例で言うと例えば日本とアメリカで昔戦争があり実際原爆が落ちたりして、それが現在核の問題などになっているのですが、そこに生まれてくるのは憎しみ、そういう悲しみが親の世代にされたことをどうかと言うとやはり、それは悲しいし、やった相手に対する憎しみは、残り続けると思います。

 それをきちんと解消してあげるということをやらないと、同じようなことがまた起きる・・・。
  
【サンデル教授】
 ありがとう、君。

【リョウタ】
 一度は賠償をする必要はあると思います。それはおそらくやった世代の人々がすることがいいと思うのですが、それがズート未来永劫に渡ってやっていくということは、あまり現実的な意見ではないと思います。

 未来の世代というのは昔の人がどんなことをしたか、選ぶことができずに生まれてきています。加害者になるにしても被害者になるにしても選択する権利というか自由がない。

 ということは結局その人たちが、自由がないわけですから自分がその時代に生きていたらそれをしなかったかもしれない、ということを考えると、未来永劫補償、謝罪をする必要はないと私は思います。(若干会場拍手)

【サンデル教授】
 君はどう思う?

【マコト】
 私は謝罪するという立場をとり続けた方がよいと考えます。現役世代は過去の世代の過ちの責任を負わないというのは、私には関係ないからだという意見だと思います。

 それならば過去の戦争に反対し続けた人はどうなるのか、彼らは戦争に反対し続けているのにジェネレーションという言葉の元で集団的謝罪を負わされているわけです。結局ケンジ君が言ってくれていましたが、私たちは同じ文化や制度、憲法の元で育てられていて、突然あらわれてきたことではないのです。

 僕は文化というものは連続的なものであるとは考えますが、しかしそれは未来永劫に続くものだとは考えません。豊臣秀吉の朝鮮出兵のことを未だに蒸し返す人はいません。これは現代の問題なのです。勝手に過去の問題にすべきではない。(会場拍手)

【サンデル教授】
 さっきケンジが言った我々のアイデンティティはコミュニティによって形作られる、という考えを真剣に受け止めるなら、道徳的責任は個人の選択のみから生じるのではない。

 君はこれについてどう思う?

【リョウタ】
 文化は連続していることだというお話でしたが、我々は戦争に負け、戦前と戦後の考え方はかなり大きく変わっています。戦前であれば富国強兵、挙国一致でアメリカ、ソビエトをやっつけようという意識があったと思いますが、それが戦争に負けて考え方が変わった、憲法の上ではやらないなどと・・・。そのように変わることもあり得ることで、必ずしも全部悪いことではなかったかもしれない。

 それは考える人によって異なりますし、文化というものが、それぞれの時代の人が常に同じことを考えていると限らないので、昔の人の考えを我々が継承しなければいけないということではないと思う。

【マコト】英語
(彼が)何を言いたいのかよくわかりません。

【サンデル教授】
 彼は、文化は変わるものだと言っている。過去と現在の間には、切れ目があるのだから現世代が祖父母の世代の行為に道徳的に責任をもたされるべきだと考えるのは間違いだということだ。

【マコト】
 なぜですか?
 時間の隔たりがあるからですか?

【サンデル教授】
 時間がたてば、文化は変わる。そういっているんだね。

【マコト】ここから英語
 継続しています。時間も文化も続いています。

【サンデル教授】
 コミュニティは連続している。過去の責任も引き受けるほど強く永続性のあるものだと思うだね?

【マコト】
 でも永遠ではありません。

【サンデル教授】
 1000年ももつものではない。

【マコト】
 ええ、でも。
 現在の問題である限り続きます。

【サンデル教授】
 君が正しいなら、全ての道徳的責任は個人の意思の結果だと考えるのは間違いだろうか?

【マコト】
 間違いです。国家の行為には、人々が反対しても止められないことがあります。(ここから日本語)歴史的に不可知的なことはあると思います。太平洋戦争や朝鮮侵略が意図的なものであったか、回避できたものであったとかここで問うのは無意味であって、あった、やってしまった、という事実を勝手に一方的に消し去るのではなく、それは連続、文化の中で連続している、そしてそれが生きている問題である限り謝り続ければいいと言っているだけです。 時間によって薄れるものではない。

【サンデル教授】
 マコト、時間を越えて、文化もコミュニティも連続するのだから、君はケンジの言うことに賛成するね。

【マコト】
 ハイ。

【サンデル教授】
 ケンジ、君のコミュニタリアンの哲学では、コミュニティが私たちを形造る。世代を越えた道徳的責任の問題についてはどう思う?

【ケンジ】
 文化は連続しているという立場には賛成であって、昔の人がとった行動に対して僕らが責任を持つということは、彼らが謝罪をしていないから責任が僕らに残っている限り解決すべきであり、謝罪すべきであるという立場をとります。

【サンデル教授】
 過去の世代の過ちに対する道徳的責任は、愛国心やコミュニティや文化の連続性の表れだと思うのかな?

【ケンジ】
 ハイ、そう考えます。

【エリコ】英語
 ケンジさんとマコトさんに賛成ですが、一つ付け加えたいことがあります。自分たちの文化や歴史を加害者の視点から見るべきではありません。被害者の視点から見るべきだと思います。

 例えば、戦争の時の日本と韓国の関係を考えると韓国の人々は今も苦しんでいます。そして彼らの日本人だけが唯一自分たちを癒すことができると考えています。私たちには、彼らのためにできるだけのことをする責任があると思うのです。

               

【サンデル教授】
 エリコ・マコト・ケンジ、もう一つ全員に質問がある。歴史は連続すると考える君たち三人の見かたに特に興味がある。

文字数の関係から、次の議題

<オバマ大統領は、原爆投下を謝罪すべきか?>

(後編)Lecture2「戦争責任を論議する」(1時間編)2-2

とします。

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ハイバード白熱教室@東京大学(後編)Lecture2「戦争責任を論議する」(1時間版)2-1-1

2010年10月11日 | ハーバード白熱教室

ハイバード白熱教室@東京大学(後編)Lecture2「戦争責任を論議する」
(1時間編)2-1

 ETV特集「ハーバード白熱教室@東京大学 日本で正義の話をしよう」(90分版)よりも多くの意見者、サンデル教授の講義が含まれています。

 答弁者には、意図するところがやや理解不足で、視点が定まらない点も見受けれれますが、しかしサンデル教授の議論進行には驚かされます。

               

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

【サンデル教授】
 前半の講義では、”正義 ”の三つの概念について議論した。

”正義 ”とは、

1)最大多数の最大幸福          (功利主義)
 幸福の最大化を意味するという考え。

2)人間の尊厳に価値をおくこと     (カント)
 人間の自律と尊厳の尊重を意味するという考え。

3)美徳と共通善をたたえ育むこと    (アリストテレス)
 市民の美徳を育み、善き生に基づき判断することを意味する。

というものだ。それぞれ功利主義、イマヌエル・カント、アリストテレスの考えだ。こういった三つの”正義 ”の考え方をいくつもの政治的論争や道徳的ジレンマを検討することによって議論し、探究してきた。

 これからの講義では、この三つの”正義 ”の理論や道徳的責任、道徳的義務の問題に関するさらなる問題を議論したい。

 我々の道徳的義務は、厳密にはどのように生じるのだろうか、ここで議論したいのは、その道徳的義務とは、あくまでも個人的なもので、それぞれの意思と選択によって生じるものなのか、それとも集合的なもので、コミュニティや伝統に帰属したり、つながっている結果なのか、ということだ。

 この問題にはまず、正義の二つ目の考えである、カント的な考えと三つ目の考えであるアリストテレス的な考えをためし、調べる必要がある。カントによれば、道徳原理も道徳的義務も私たち自身の自由意志と選択の結果として生じる。だから自己決定権である自律と道徳性は関連している。

 自由であることは、自己決定つまり自律していることを意味する。そしてカントにとっての自律とは私が自分自身に課す道徳律と道徳原理により支配されていることを意味する。

 君たちも知っているようにカントは道徳の根本原理は、人によって異なることも変わることもないと信じていた。カントにとって道徳性は普遍的なものである。

 自律的に行動し、自分の意思を行使するということは、純粋実践理性の立場から判断することが必要なのだ。

 私の特性の願望や特定の目的や善き生についての特定の考え方を脇において、道徳の根本原理に到達する、という目標に向かって判断することを求めるのだ。

               

 そして私たち皆がうまくそれができれば、道徳の最高原理、普遍的原理に到達するとカントは考えた。

 アリストテレスは、道徳性と道徳的論法をそのようには考えなかった。アリストテレスにとって道徳性は、私たちの特定の目的や愛着や善き生の考え方から切り離すべきものではない。

 アリストテレスにとっては、正義についての道徳的論法は善き生についての私たちの考え方にかかっているのである。アリストテレスによれば私たちがどのような権利をもっているか、あるいは正義が何を意味するのか理解することは、前提として何が善き生なのかか理解できなければ不可能なのだ。

 最善の生き方とは何だろうか、善き人間の美徳とは何だろうか、どのような性格の資質を持ち合わせることが賞賛し、見習い、目指すのに値するのだろうか。

 だからアリストテレスにとっては、正義と道徳性は、善から論じる必要があるのに対しカントによれば道徳の最高原理に到達するためには、私たちが持っている善き生についての特定の見かたから離れるか、それを切り離さなければならない。

 私たちの特定の利益、私たちが育った場所の特定な歴史、私たちが暮らしている国、私たちが好きなサッカーチームから離れなければならないのだ。

 道徳的論法のこういった二つの異なる構図や正義を論じるこういった二つの異なる方法を試す問題に進もう。道徳的責任についての問題だ。それを考えるために一つの問いを設定しよう。

 私たちの義務の全ては、私たちの意思や選択、自律を行使した結果なのか、それとも私たちのアイデンティティーを決める特定の文化、伝統、愛着や目的から生じる義務もあるのだろうか。

 これが問題だ、この問題を探究していく。まず家族に対する義務の問題を考えていこう。


<殺人を犯した弟を警察に突き出すか?>
  
 君は東京大学の有名な教授だとする。そして君の弟は、暴力団員の一員で殺人罪で訴えられている。君は自分の弟がどこに隠れているか心当たりがある。そこに当局がやって来る。

 君は彼らに弟の居場所を教えるかね。君、どうぞ。

【ダイチ】
 たとえ兄弟であっても、ぼくは兄弟が犯罪を犯した場合には捜査に協力するという方に賛成します。

 そもそも家族のメンバーとそうでない者という判断で分けるかということを考えた時に、自分の中の判断の一貫性を大事にするということになるからです。

【サンデル教授】
 君は、道徳的な一貫性から誰が犯罪を犯しても裁きを受けさせる必要がある。捜査当局に協力する義務がある、と言っているんだね。犯罪者が、たとえ弟でもかい?

【ダイチ】
 はい、捜査に協力するという立場を取ります。

【サンデル教授】
 家族への忠誠心はどうなる。

【ダイチ】
 家族のメンバーが、社会の他の人に対して犯罪行為を犯す、と言うこと事体がそもそも家族のメンバーがそれを許すべきか、ぼくはそれは良くないことだと考えます。

【サンデル教授】
 君は賛成かね?

 ここにいる人たちで、反対の人は? 

 君は反対だね、君の言い分を聞こう。

               

【ナナ】流暢な英語
 私は反対です。弟を守ります。例えば彼が10人を殺しても私は通報しません。

【サンデル教授】
 本当に!
 ナナ、なぜ忠誠心がそれほど強く働くのか、それは正義 を追求するべき君の義務を上回るのかね?

【ナナ】
 家族を信じることができなければ、社会も信じられません。家族を離れて、他人の人とつながることはできません。兄弟を信じられなければそれより離れた結びつきを信じることはできません。

【サンデル教授】
 ナナ、家族のつながりはとても重要なので、殺人犯に裁きを受けさせる、という正義 さえもそれを上回ることはできないんだね。忠誠心はそこまで重要なんだろうか?

【ナナ】
 大変重要だと思います。

 【サンデル教授】
 そのままで。ナナの 兄弟に対する忠誠心への反論で普遍的な原則から見た反論はあるのだろうか?

 原則として間違っていると考える人は?
     
【A・女性】
 道徳的に正しいかどうかということなのですが、このまま罪を償わない、または悪いことをしたまま生きていくことが善き生かと考えた時に、弟まで含めて生きさせないということが果たして道徳的にいいことなのか、どうかということを問いたいと思います。

【サンデル教授】
 いいだろう。それは人間の公正という論点ということにもつながるね?
 この議論で興味深いのは、兄弟に対する忠誠心に賛成する議論があり、その反論も兄弟と称した議論だったということだ。

 いずれも正義の名の基の原理に基づいた議論ではなかった。ナナの言う忠誠心の原理に対して正義の原理に基づいた反論がある人は?

【ヒデ】
 忠誠心という意味では、私はおそらく家族の中のルールで人を殺さないとか、そう言った共同体の中のルールがあったような気がします。その中でなぜ弟が共同体のルールを破ったのだから兄としては、その共同体のルールを破った、忠誠心をあえて彼は拒絶したのだから彼を突き出してもいいという意見を持ちました。

【サンデル教授】
 しかし君に弟だよ! そこには道徳的な違いはないのだろうか?

【ヒデ】
 それでもやはり人を殺すということ事体は、やっぱり家族を越えてのルールとして許せないし、家族としても家族の中のルールを守らなかったという意味で許せない、と思います。

【外国人】
 忠誠心は相互のものであるべきで、10人を殺した弟は、家族にも社会にも誠実ではないので・・・彼に忠誠心を感じる必要はありません。

 私は通報します。私は、家族だけではなく自分自身にも社会的責任があります。

【サンデル教授】
 いいだろう。家族内の忠誠心について話してきた。例を自分の国に対する忠誠心つまり愛国心に変えよう。


<海外の被災者と日本の被災者 どちらを助ける?>

【サンデル教授】
 自分の国の人々や自分の国に対する義務は、世界の別の場所に住んでいる他の人々に対する義務や道徳的責任を上回るのだろうか、特別な義務があるのだろうか。

 パキスタンではひどい洪水があった。多くの人が困っており、大変な悲惨な状況だ。多くの国が支援を送っている。普遍的な義務と思いやりを感じているからだ。

 同様にひどい洪水か、地震か、自然災害が日本で起こったとしよう。世界の反対側で苦しんでいる人たちよりも、自分たちの国の被災者の援助をする方に、・・・もっと大きな責任がある、と考えるという人は、どのくらいの人がそう思うかな?(挙手多い)


 じゃあ自国民に対して負っている責任は何であれ、困っている人を助ける義務は、別の国の人々にも等しく負っていると思う人は?(挙手少数)

 最初のグループの人の意見を聞こう。それは一種の偏見ではないのか、どうしてそれが道徳的に重要なのか、どう思う?

【ケンジ】
 共同体に生まれ、僕の人格及び能力が形成されたのは日本国民の人の御かげであり、また家族もそうですが、僕の友達でありそういう人たちに対しての感謝と義務を含め、まず第一に彼らにreward(報いる)をして、その次に僕に対して何も影響を与えていませんが国外でsuffering(苦しんでいること)人がいれば助ける・・・・。

【サンデル教授】
 ケンジによれば自分のコミュニティの外で苦しんでいる人がいて、彼らが助けを求めてきても、それは自分たちの国の人々、同胞の求めと比べてその重みは劣る、ということだね?

【ケンジ】ここからは流暢な英語※すごい!
 はい。十分なお金があればパキスタン人を助けます。持っていない場合は、日本人を選びます。恩義があるからです。

【サンデル教授】
 ケンジ、君は、自国民への義務と一般的な人々に対する義務を、区別する理由を述べてくれた。君のコミュニティや国が君を形成し、君を今ある人格にした、・・・だから自分のコミュニティに対し感謝と借りの気持を持っている、というのが理由だ。

 君はコミュニタリアンのように思うが、そうかい?

 ※注釈テロップ コミュニタリアニズム:人間の人格はコミュニティの中で形成されるとしてコミュニティの価値を重視する考え。

【ケンジ】
 多分Yes.

【サンデル教授】
 結構だ、ケンジそのままで。誰かケンジに反対の人は、バルコニーの奥に座っている君!

【コウイチ】
 ケンジさんがおっしゃっていた問題の中で、自分がお金をたくさん持っていれば外国の方にお金をあげることができるという話だったのですが、たとえお金が少なくても、例えば寄付できるお金が100円だけだとしても50円は日本人で(残りの)50円は外国の方というように、分配することによって苦しんでいる人を救うことができるのではないか、と僕は考えるので、日本人だから日本人を救うというのは違うと考えます。

【サンデル教授】
 コウイチ、二人の苦しんでいる人がいるとしよう。これは道徳的な問題につながる問だ。君には切実に助ける一人の人しか助ける余裕がないとする。一人は君の国の人で、もう一人はバングラデシュ人だ、日本人を助けたいと思うのは差別なのだろうか?

【コウイチ】
 すごく難しいですね。それは・・・。(笑い・会場も)

【サンデル教授】
 だから聞いているんだ。(笑い)ありがとう。
 私たちは、難しい問題に取り組もうとしている、君はどう思う。

【コウイチ】
 僕に聞いているんですか?

【サンデル教授】
 そうだよ。

【コウイチ】
 一人しか救えないと言ったときは・・・・。

【サンデル教授】
 コインを投げて決める。

【コウイチ】
 ・・・それであれば国の、国を見た時の、どっちが裕福な国であるかというのを見て貧しい方を僕は選びます・・・・・。<終始困った様子>
 ※サンデル教授は終始笑顔

【サンデル教授】
 いいだろう、よく頑張った。
 誰かケンジに対して意見のある人は?
 自分のコミュニティのメンバーが、自分のアイデンティティーを形成し、今ある自分にしたのだから彼らに特別な義務があるという、彼の考えについてだ。

 誰かケンジの考えに対して原理に基づいた反論がある人?
          
【サンデル教授】
 (君)どう思う?

【ジュンフク】
 僕は、日本生まれの在日韓国人なのですけれど、国籍は韓国ですが日本で今年二十歳になるまで育ちました。その時に思ったのですが、日本で育ちましたが、日本に対してとても愛着があるとか、逆に自分お国籍である韓国に愛着がるとか、そういう次元ではなく、地理的隔離が誰かを救助する際に優先されるべきではないと思うのです。

 もっと日本の風土で育ったから日本人を助けるというそのロジックは飛躍しているものだと思います。大きな、例えば大災害が起きたという論理になれば、日本人だから日本人を助けるとかいう次元ではなく、考えるべきだと僕は思います。(会場拍手)

【サンデル教授】
 ケンジ、答えたい?

【ケンジ】
 僕も同じ意見です。

【サンデル教授】
 君は反対ではないんだね?

【ケンジ】
 日本人だから助けたいという国籍の問題ではありません。アイデンティティーを大切にしたいから日本人を助けたいんです。

【サンデル教授】
 忠誠心や連帯に基づく特別の義務の根拠とは何なのか? 説明してくれないか?

【ケンジ】
 僕の成長を支えてくれたコミュニティです。

【サンデル教授】
 コミュニティは必ずしも国籍と一致する必要はない?

【ケンジ】
 はい、そうです。

【サンデル教授】
 それでは係わりのあるコミュニティとは何だろう?

【ケンジ】
 友人とか近所の人とか身近な人たちです。

【サンデル教授】
 でも君は、それを自分の国のレベルまでは広げないのかい?

【ケンジ】
 広げます。日本とバングラデシュの比較では国のレベルまで拡大します。

【サンデル教授】
 すると国は重要だ。それは道徳的違いを生むんだろうか? 愛国心は美徳だろうか、悪習であろうか?

【ケンジ】
 極端にならなければ良いものですが、極端になると悪しきものです。

【サンデル教授】
 いいだろう。ここまで愛国心や自分のコミュニティや国への忠誠心について話し合ってきた。ケンジのようなコミュニタリアンの倫理について一つの懸念がある。

 自分の家族の場合はまだしも、この考え方は自分たちの国の人々やコミュニティをひいきしているだけではないか、という反論だ。

 これは単なるえこひいき、差別ではないか、これがケンジ、コミュニティから生じる義務という考えが直面する一つの難問だ。

 さて最後の質問をはじめよう。コミュニティの一員であること、その絆を大切にするということは、自分の国が過去に犯した過ちに対する道徳的責任をも、引き受けなければならないのかどうかだ。

 最後の質問では実際にとても難しく、道徳的に激論を招きそうな問題を君たちに出したい。道徳的責任は世代を越えて負うべきものだろうか?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

次数が1000文字を越えるため、<現代は前の世代の過ちの責任を負うべきか?>は、
(後編)Lecture2「戦争責任を論議する」(1時間編)2-1-2とします。