超訳『ニーチェの言葉』というベストセラーになっている書籍から、時々自分の気に入った言葉を掲出しているのですが、このような売れ筋の本はとにかく批判というものが憑きもののようです。
呪われたように憑いてまわる。ということです。
白取春彦先生の超訳ですから、翻訳が側の思いが多分に入っていること、そして最も重要なのはニーチェ自身を知ろうとしても専門家でも難しく、いまだにその研究がなされているのが現実なのですから、読む側の理解力の進展で批判もしたくなるのは当たりまえです。
「mixi」というサイトはコミュニケーションの場として活用されています。私は、特に「mixi」サイトに掲出したいこともなくほとんど閲覧だけしていますが、やはり超訳『ニーチェの言葉』は、批判されています。
○ ニーチェの本ではない。
○ 訳者のお金もうけの歪曲本。
○ 訳者は反社会的だ。
等の批判がそこにはあります。
流行というもの、ベストセラーというものそこには人々を惹きつける何かがあります。
私もニーチェは、翻訳本ばかりですが、一般向けの解説書、論文集等をみて勉強していますが、超訳『ニーチェの言葉』には、惹きつけられるところがあり、批判をするきはありません。その力量がないから、知識不足といわれればそれまでですが特に批判的言動の欲求に駆られたことは今のところありません。
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最近私は、『日本文化論のインチキ』(小谷野敦著 幻冬舎新書)を紹介しました。100冊にも及ぶ日本文化論に対する批判、中には私自身のお気に入りの学者先生の著書もあるのですが、小谷野氏は真面目にそのいけないと思われる箇所を指摘し批評されています。
日本文化論は、特定の宗教信仰ではないのですから何が正しく、何が誤りかはその理解側の評価によるところが、その存在理由、価値理由のように思います。
それを知ったからといって直接的、善き生き方ができるしろものではないようにも思います。
江戸しぐさを取り戻そう、江戸のエコ生活を取り戻そうは、そのような生き方も好いのでは、参考にいかが程度の話であって革命的に推し進めるような話ではありません。
やまと言葉も、そのことを知ることで、もの見方を変える参考になるということで、そうでなければいけないという話ではないのです。
歴史的真実の検証。これもまた難解で、郷土史などは自分で調べ、現在公になっている部分に疑問箇所が出てきます。
その違いは、その部分を指摘することで、個人的な意見も生きてきます。
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『日本文化論のインチキ』で、小谷野氏は「インチキ文化論の本体はヘーゲルである」と厳しくヘーゲルを批判しています。
最近私の好きな哲学者竹田青嗣早稲田大学教授と西研東京医科大学教授の共著の「はじめてのヘーゲル『精神現象学』(講談社現代新書 2010.5.20第発行)」が出版され現在読みつつあります。ヘーゲルの著書『精神現象学』あるいは『精神の現象学』の翻訳本は3種類ありますので、参考にしながらこれから読み進めているのですが、ヘーゲルは余りにも難解でインチキを読み取ることは私には不可能に思えてなりません。
『日本文化論のインチキ』はインチキ本ではありません。これほど思考の世界に漬からしてくれる本は最近読んでいません。
知らないよりは、知っておいた方がよい。誤りをくり返さないための鉄則。
漬かりすぎないためには、浸かりすぎないためには、時々自分を忘れることです。
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