(写真:冬山だけはやめようと思います)
これまでに、私の「思考の部屋」ブログでは、
日本文化論のインチキ
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自分を忘れることの大切さ
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で、日本文化論に対する批判書『日本文化論のインチキ』、著者は比較文学者で作家の小谷野敦(こやの・とん)さんですが、紹介してきました。今回はご本人が、「日本文化論論争の天王山のような趣があり」とまで言及する、一つの日本文化論の批評を紹介したいと思います。
紹介のきっかけは、ハーバード白熱教室で、有名なハーバード大学の政治哲学者であるマイケル・サンデル教授が、日本の授業を開催するに心配ごとに中で、「日本人は恥ずかしがりや」ということを話されていました。
日本人スタッフの事前の話もあったとご本人も言われていましたが、サンデル教授も言われたからということもあり、また、最近鎌倉女子大の竹内整一教授が地方紙に「はずかしい」という「やまと言葉」を話題にしていましたので、「恥ずかしい」という言葉に再度興味を持ち、その時とてもインパクトのあった小谷野さんの本を思い出し、再度読んだところ、知っておきたい書評と思い、メモとして残すことにしました。
「恥」といえばベネディクト女史の『菊と刀』ですがこれをどのように評価しているか、その他の日本文化論者の名前もたくさん出てきており、小谷野さんのお考えがよくわかる文章だと思います。
<引用p116~p118>
文化論論争の天王山『菊と刀」を再考する
さて、お前はいろんな日本文化論をあれはいい、これはいかんと決め付けているが、では『菊と刀』はどうなのか、と言われるかもしれない。何しろ『菊と刀』は、日本文化論論争の天王山のような趣があり、作田啓一の『恥の文化再考』(一九六七)とか、いろいろな人が論じている。著者ルース・ベネディクトは女性で、文化人類学者のマーガレット・ミー下とは恋愛関係にあった。つまりレズである。そして、日本へ釆たことはなく、日米戦争当時、敵国研究の目的で、文献から作り上げたのがこの本で、著者が死んだ一九四八年に長谷川松治の邦訳が出て、これが現代教養文庫で長く読まれたが、版元の社会思想社が倒産し、二〇〇五年には講談社学術文庫に入り、二〇〇八年には光文社古典新訳文庫に、角田安正の新訳が入った。
表題の「菊と刀」は、天皇制と武士道を表している。内容的には雑多なものだが、いちばん有名なのは、西洋文化が罪の文化であるのに対して、日本文化は恥の文化だというものだろう。つまり西洋はキリスト教だから、神の前に罪を意識して生きているのに対し、日本では世間的な恥を気にして生きている、というのだ。
そう言われればそうであるような気もするが、阿部謹也のように、日本でも西洋でも「世間」というものが大きな役割を果たしている、と述べていた人もいる。もっともそれはきちんと完成せずに終わったが。また西洋人だって、注意して見ていればずいぶん「恥」意識で動いてもいる。もしかするとそれは単や前近代的な地域社会とかに生きているか、近代的な個人主義的社会に生きているか、知識人であるか一般庶民であるか、あるいは個人差でしかないかもしれない。
ただ私は『菊と刀』には、あまり興味がない。というのは、もう六十年も前のものだし、多くの人がああだこうだと論じてきたから、特にこれを権威と奉じて何かを言う人が現代ではほとんどいないからである。
むしろ、『菊と刀』が論じられることがあまりに多いのが気になるくらいで、当初これが出たころには、まず鶴見和子(一九一八~二〇〇六)が批判し、ほかに批判者としては和辻哲郎(『埋もれた日本』新潮社)、津田左右吉(『文学に現はれたる我が国民思想の研究』岩波文庫)、柳田国男、竹山道雄(『主役としての近代』講談社学術文庫)といった錚々たる面々がおり、評価する者として川島武宜、米山俊直(一九三〇~二〇〇六) (ベネディクト『文化の型』を一九七三年に翻訳)、作田啓一、岸田秀がおり、さらに西義之(一九二二~二〇〇八)が『新・「菊と刀」の読み方』(PHP研究所、一九八三) で擁護し、和辻を批判している。さらにダグラス・ラミスが批判し、池田雅之との共著『日本人論の深層-比較文化の落し穴と可能性』(はる書房、一九八五)でも主として『菊と刀』が論じられている。また最近では長野晃子(一九三八~ )が『「恥の文化」という神話』 (草思社、二〇〇九)を出して、『菊と刀』は原爆投下を正当化するためのものだったと激しい批判を展開している。
批判者は概して、日本文化を否定的に論じられたと感じる者が多いようだが、和辻の批判は当たっているものの、全集からはその文章は除かれ、西は、ベネディクトの方法が和辻の『風土』と同じなので外したのではないかと推測している。またラミスなどは元「べ平連」なので、米帝国主義批判の文脈で批判している。
もっとも、『菊と刀』に欠陥があるのは当然ともいえるので、むしろ、こうした毀誉褒貶(きよほうへん)の激しさのほうが興味深い。これは畢竟、敗戦後の、戦勝国の米国人による日本文化論に対する日本人(ラミスを除く)の激しい関心の持ち方を示していると言うべきだろう。土居の『「甘え」の構造』のほうが、『菊と刀』などより遥かに欠陥が多い、というより、まるで論理的読解が不可能なのに、本格的に批判したのはデールくらいでこれは邦訳されず、李のものは前提を批判してはいるが特に継承されず、これはいずれも外国人による批判で、『菊と刀』に比べると、土居健郎は「甘やかされて」いるのではないかとすら思う。
<引用終わり>
内容の中に性的差別的な表現がありますが、とても個性あふれる書評のように思います。
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