昨年の信濃教育会生涯学習講座での西田哲学会理事の姫路獨協大学外国語学部教授岡田勝明先生の講演会の講義録を引用しますが、哲学会では毎年6月の第一土曜日に「西田・田辺記念講演会」というものを行っているそうで次のように語っていました。
6月の第1土曜日には毎年西田・田辺記念講演会というのがあって、今年は木村敏先生が講演をなさいました。この西田の「自己の中に他者がある」「他者の中に自己がある」。
ある種これは典型的な分裂症の患者さんが語ることだと、「典型的な分裂症の症状だと、それだけ捉えたらですよ」、ということをおっしやつていましたけれど、それはちょっと面白いんですが、根本は他のうちに自己がいて、自己のうちに他者がいる、それが根本なんです。ちょっと難しく聞こえるかもしれませんが、たとえばいろんなケースで、そういうことが言えるわけです。
たとえば有機体ですよね。我々の身体というのは有機体です。その身体は肺や心臓やいろんな臓器、いろんなものが一つに統一されて、自分の身体というものが成り立ちます。そうすると心臓はまさに心臓の働きをするわけです。他の臓器には欠かせないような独立した働きをしているわけです。
ところが心臓が心臓の働きをするということの中で、肺が支えられて、肺の働きをすることのなかで心臓の存在を助けるわけです。だから、ある意味で人間の身体というのは面白いと思うんですが、60兆個という細胞からできていますが、細胞の一つ一つに皆さんよくご存じのように自分のDNA全部入っているわけなんですよね。
細胞一つでその人のDNA全部解明できる、何兆もの個体が集まって一つの自分の身体というものが出来あがっていてもですね。そうして初めて自分の存在も成り立っているんだ。そういうことなんです。ですからその自分の中に他者があり、他者の中に自分がいるということは、要するに自他というものとの関係性の中で、それぞれの個人が存在しているのだということです。
これは難しく聞こえるかもしれませんが、非常に一つの基本的なことだと思います。
これはよく言われることですけれども、我と汝、あなたと私が存在して、そして関係を結び合うわけではなくて、最初から自他というものの関係の中で初めて私とあなたというものの存在が成り立つんだと。だから「共にある」ということが実は根底にあるんだと。
私が存在している、生きているということの中には最初から共にあるということが基本としてあるんだということです。・・・・・・・(『平成21年度 生涯学習の記録』 信濃教育会生涯学数センター刊 p25から)
と語られていました。
このようなとうような話を聞くと、ふと考えてしまうことがあります。
「私は、いつから自分は自分と気がついたのか」
ということです。それについて答えてくれる番組がありました。9月7日に放送された爆笑問題の日本の教養です。「おしえて赤ちゃん!~赤ちゃん学」と題し東京教育学部発達認知神経科学者の開一夫(ひらき・かずお)教授の赤ちゃん学でした。
その中で実験を紹介しながら2歳ごろには「他者と自己」、他者とは母親ですが、分かることを説明されていました。幼児は常に守られて育まれていきます。泣きますが、ある面謙虚だと思うわけです。
そこで今朝は、この「謙虚」から「つつましく生きる」に言及したいと思います。
謙虚という言葉をまず漢和辞典で引くと、「控え目、つつましい。へりくだって、すなおに相手の意見などを受け入れること。また、その、さま。」(goo辞典)となっています。
この謙虚という言葉や、意味のつつましいを、和英(研究社大型)でみると用語事例として
○ 知的謙虚さは、本当の研究にはなくてはならないものだ。
○ つつましい微笑。つつましく暮らす。
を表現するときに使われるようですので、日本語英語も全く同じと言ってよいようで、日本語特有ということはないようです。
「つつましく暮らす」は、ある意味では自分の生き方でもあります。安全で安心な暮らしの中でつつましく暮らす。自分の財力に見合った暮らしであれば破産することもなく、健康に留意すれば長生きもでき、静かに人生を終ることもできましょう。
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吉田松陰は、講孟余話の「藤文公上篇第四章」で次のように解説している。
大人(だいじん)の事あり、小人(しょうじん)の事あり
大徳ある人は、心の修養に努め、人を治め人に養われるのである。下民は労働をし、人を養い人に治められるのである。
おおよそ人には、四つに分かれた身分がある。士・農・工・商がそれである。その中でも、農・工・商を国の三つの宝といい、それぞれ職業があって、国にとっては一つが欠けてもならないものなのである。ただ士だけは、この三者のような職業がない。
士は職業のことを考える必要がないだけに、もし厚い禄を費やして衣食住にぜいたくのかぎりを尽くし、傲然として農・工・商の三者におごり高ぶる態度をとってはばからないとしたら、まことに相済まぬことではないだろうか。それゆえ、士と生まれた者は、文武に習熟し、治乱にあたっての御奉公を心がけなければならないことは当然である。
ところで僕は、すでに囚われの身となっているのだから、これらのことを語っても空談に近いといわれるかもしれない。しかしそれは大きな間違いだと思う。なぜなら、現在食べている食物、着ている衣類、使っている器物、これはみな国家のおかげではないか。
しかも僕は、農・工・商のような職業をもって国恩に報いる身分ではないから、ただ書を読み道を講じて、忠孝の一線なりとも研究し、いつの日か御恩に報いることができるように心がけることを忘れてはならないと思っている。
士は農・工・商の上に位し、君はまたその士たちの長であるから、みずから徳を養うことますます厚く、みずからその職務に任ずることますます重い。人に養われるばかりで、心の修養に努め人を治めることをしないならば、なんといわれても仕方あるまい。
こうなると許行のように治者もまた民とともに耕しみずからを養うべきだという説が出てもやむをえないことになってしまう。
引用の書物『講孟余話』中公クラシックス)は、鎖国下、外国諸情の見聞を広げるためのぺーりー船への乗船に失敗した松陰は、金子重輔と伴に囚われの身となり、野山獄および杉山幽室で幽閉生活を送ることになり、その際獄囚等に論語を強要した際の講義録です。
時代が江戸幕藩体制の末期で、その当時の身分階層のあるべき姿が見事に書かれています。ここで語られていることは、武士階級にとっては耳の痛いことですが、まじめな武士にとっては全くそのとおりの、何ら不自然な言及ではなかったと思います。
「農・工・商のような職業をもって国恩に報いる身分ではない」こんな文章に出会うと現代社会では、まず士農工商の身分階級に奴隷的なイメージを受け、「国恩に報いる身分」という言葉でついに、嗚咽と吐き吐き気をもよおす人もあるかと思います。
しかし語られた時代には当然に、人民(農・工・商)は「うべなふもの」であり「まつろふもの」であったわけです。
「うべなふ」「まつろふ」ものとは、現代語では、従うもの、服従するものという意味です。講孟余話にはこの言葉は語られていませんが、人民はそれが当たり前のことであえて語られていないだけと思われます。
「嗚咽と吐き吐き気をもよおす人」はどこから現れるか、それはその後の時代が、人々にその概念を植え付けられたからです。などというとまた「嗚咽と吐き吐き気をもよおす人」がいそうですので、「人は人として生きる権利を有する」という基本的な自然権として現れたもので、強制的な支配権に基づいて搾取されていたものが、本来の権利を取り戻した。ということである程度納得されると思います。
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今朝はそのような封建社会を語ろうというものではなく、古語の「うべなふ」「まつろふ」という言葉についてです。
こんな言葉があるのかと思うのですが、しっかりと古語にはあるのです。
うべな・ふ【諾】《他ハ四》(「なべなふ」とも)
① 同意する。承諾する。 例:欺きて罪なしと言(もう)してうべなはずして[書記・天武]
② 服従する。例:そのうべなはぬものは[書記・神代]
③ 謝罪する。認める。例:罪をうべなひて尽(ふつく)にその地(ところ)に奉る[書記・景行]。
と日本書紀に出てくる古い言葉です。もう一つの言葉、「まつろふ」は、
まつろ・ふ【服ふ・順ふ】
1《自ハ四》従う。服従する。例:荒ぶる神またまつろはぬ人どもを言向け(ことむ)け和平(やわ)せ[記・中]
2《他ハ下二》従わせる。服従させる。例:ちはやぶる神を言向けまつろへぬ人をも和(やは)し[家持・万葉・20]
と解説され、この「まつろ・ふ」は、ラ行四段活用動詞「まつる(奉る)」の未然形「まつら」に上代の反復・継続の助動詞「ふ」が付いた「まつらふ」が変化した語と追記されています。(使用古語辞典、大修館書店)
「お上に楯突くとは何事か!」とは、時代劇のシナリオには必ず出てくる言葉がありますが、この言葉は戦場における「楯突き」で「戦場で、防御のために盾を立てること。また、その役目の人」「手向かうこと。反抗。」のことだそうで、用例として
かなわぬまでも、楯突きなどし給へかし[宇治拾遺・15]
楯突く先は、「かなわぬ」ものであるが、という認識が語意からうかがえます。
現代の日常使う言葉の中に「うべなふ・まちろふ」という言葉はありません。時代的背景の中で終息していったということになると思います。
楯突くという概念は成立していても、支配される側の、服従心は「かなわぬ」現実の中では消えてゆくか、言葉としての成立に必要な情動がないか、気持ちの中には「反抗心」はあるが言葉として成立するまでには至らないということになると思います。
ある面、非常に支配関係が強烈で、言葉にもならない。・・・・・
とつい考えてしまいますが、どうもそうではないように思います。当たり前のさほど驚愕するような毎日ではなく、平々凡々、当然人それぞれには山あり谷ありですが、平穏無事の生活が展開されていたのではないかと思われます。
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今朝は、古典的な世界に思考を走らせています。「嘆(なげ)き」、芭蕉の富士川の捨て子の無常にも通じる生の世界とは何でしょうか。
現代的な幸福感、幸せ感では少々つかめないものかもしれません。現代人はすぐ「幸せでない」といけないという思いに走らされます。
絶体絶命の環境化(封建的な社会・絶対主義的政権下・生命の危機的環境化)を離れると、本来の生の動きに翻弄されることになるのではないでしょうか。
「あなたが幸せでないのは、あなたが無能だからではなく、人間は幸せではないところでこそ、より深く豊かにこの生を味わってしまう生き物だから。」(『なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか』山本博通著 幻冬舎ルネッサンス新書p4から)
現代人は、生の味わいをより個人的な悲劇的な、不幸の中でより強くする、すると相対的に死も増幅されることにもなるわけです。
封建社会(現代から見て)のような宿命的、運命的な私であることを受容する環境下では、奉るものを天に仰ぎ見る中に生があり、幸いがありました。
現代人は、奉るものもなく、置かれた私の境遇に、是でない限り、不満の中でより生を豊かにし、相対的に死を増大させる。
思うに現代人は時の流れの中で、より不幸感を進化させているのかもしれません。
3万という数字が何を表しているのか。
幸せ感を強要される、幸せでないといけないのだ。
そんな時こそ、
「つつましく暮らす」
こんな言葉を考えてみるのもいいかもしれません。
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